透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

見えるという事

2006-06-13 | A 読書日記
『京都名庭を歩く』宮元健次/光文社新書

深刻な病巣が写っているレントゲン写真を見せられても、それを指摘することは私には出来ない。読影に関する知識が皆無だから。星座に関する知識が無い私には、星座が見えない。このふたつの例は知識が無くては見えないもの、受容できないものがあるということを端的に示している。

絵画や彫刻などの芸術作品は、この場合とは異なりその作品に関する知識が無くても、感性のみで鑑賞することができる。但しその作品に関する知識があれば、より深く楽しむことができるだろう。

「美の壷」や「新日曜美術館」などのテレビ番組は、このような考えに基づいて制作されているように思われる。 建築は知性と感性との統合によって受容されるということを以前書いた。このことは建築に限らずすべての場合に当て嵌まる。名庭の場合も勿論例外ではない。

この本では庭園研究25年という著者が京都の名庭を二十数例とり上げて時代背景や建築との関係、作庭の意図などに関する「知性、知識」によって、私には「見えないもの」を見せてくれている。

龍安寺の石庭は有名だが、作者は誰なのか、いつ頃の作品なのか、石の配置の意味するものなどについては分からないことが多く、諸説あるようだ。これらについても著者なりの見解が示されていて、興味深い。

今年の1月末に気心の知れた昔の同級生たちと京都へ「修学旅行」に出かけたが、この本を読んでいたら、この名庭の見え方が変わっていただろう・・・。 解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、と書いたのは確か小林秀雄だった。どのような文脈上でこう書いていたのかは忘れてしまったが・・・。

この石庭からは、「多様な解釈ができるものは美しい」とのメッセージが伝わってくるように思う。 またいつかこの名庭を訪ねてみたい。