『建築と言葉 日常を設計するまなざし』 小池昌代・塚本由晴/河出ブックス
■ 「物は言いよう」だと言う。ならば、「建築は捉えよう」ということになろうか。
詩人の小池昌代さんの名前を目にしてこの本を買い求めた。建築家の塚本由晴さんとの対話を収録している。「建築と言葉」をめぐってふたりがどんな対話をしているのか興味があった。
BMWグッゲンハイム・ラボという移動式ラボラトリーを塚本さんが設計した時の話が出てくる。私はこの建築については何も知らないが、3ヵ国を廻る仮説建築とのこと。
最初の都市はニューヨークで、敷地が想定の3分の1しかなかったそうだ。地元の人たちの頭には美術館やアートスペースがあって、面積が足りないと悩んでいたそうだが、塚本さんたちは「これは美術館ではなく劇場である」と提案したそうだ。そうすることで計画を進めることができたという。
こんな話も出てくる。ある女性からポニーが飼える別荘を低予算でつくりたいと相談を受けた時、手塚さんは**「私は、あなたの家をつくらないことにする。その代わりに、ポニーの庭をつくる。その庭の片隅に寝られる小屋があると考えてみてはどうですか」**(13頁)と答えたそうだ。
なるほど、「建築は捉えよう」なんだな、と思った。
そう、思いつつ対話を読むと**(前略)「例えば図書館は、本の家であり人がむしろ居候している、とかね。」**(21頁)などという手塚さんの発言に気がつく。
**極端に言えば一言でモノが面白く見えたり見えなくなったりする。醜いだけだと思われていたものでも新たな枠を与えられると、俄然面白いものに見えてきたりする。**(55頁)
小池さんの発言は当然のことながら文学的というか、詩的というか、意味するところを理解するのが難しい。
**(前略)わたしのなかにはまだ「娘」が居残っているようだが、しかしそう遠くない日に、それも無くなる。わたしの根源にあったものは、死か災害かをもって消失するはずだ。そのときを想像すると、心のなかで叫び声があがる。家を失いながら人は生きている。わたしは言葉で「家」を建てておくことにした。**(211頁 あとがきにかえてより引用)