■ 司馬遼太郎とドナルド・キーンの対談を収録した『日本人と日本文化』中公新書。今週末はこの本。ザックリと日本の歴史や文化を捉えての発言、面白そう。
NHKのテレビ番組「ブラタモリ」、今回が3回目の放送。タモリがかわいい久保田祐佳アナと街中に残る歴史の痕跡を探して歩く。そこから当時の様子を探っていく、タモリ流路上観察。番組ではCGを上手く使っている。なかなか面白い。次回、観察するのは銀座。どんな発見があるんだろう・・・。
昨晩はウイスキーを飲みながらこの番組を見ていた。
■ 14日付の信濃毎日新聞朝刊に「リニア中央新幹線」の東京―大阪間の輸送需要量や工事費などの新たな試算をJR東海が発表した、という記事が載っていた。そうか、このプロジェクトは東京―名古屋間で終わりではないのか・・・。
記事によると工事費がCルートと呼ばれる南アルプスを貫通するルートで8兆4400億円。維持運営費と設備更新費の合計が年間4240億円だそうだ(諏訪・伊那谷を回るBルートのデータも示されているがCルートより高い)。
記事を読んで「コンコルドの誤謬」を思い出した。
コンコルドは英仏両国で開発した例の超音速旅客機。開発の途中で採算が合わないと分かったが、巨費を投じたので、いまさらやめればすべてが無駄になるということで開発を続行したという「シロモノ」。そしてこのような誤りを「コンコルドの誤謬」と難しくいう。
リニアモーターカーはいまだに山梨リニア実験線で試験走行が繰り返されている。しかし「リニア中央新幹線」は本当に必要なんだろうか・・・。必要だから開発している、というわけではなくて、技術的に可能だからつくるというだけのことではないのか。
東京―大阪間を1時間ちょっとで結んだとしても、その前後の交通事情が改善されない限り、東海道新幹線を利用する場合と目的地までの所用時間はそれほど変わりないだろうに。このようにトータルな交通システムを考えればその一部を構成するだけのリニア中央新幹線の効果はずっと減るような気がする。
そもそもそんなに急いで移動する必要があるんだろうか・・・。現状で充分ではないのかな。そういえば昔「狭い日本 そんなに急いでどこへ行く」というコピーが流行った。
どう考えてもこのプロジェクトは「コンコルドの誤謬」の代表的な事例といずれいわれるようになるような気がする。いや、この手の誤りは「コンコルドの誤謬」に替わって、「リニア新幹線の誤謬」などといわれるようになったりして・・・。
開業時期は東京―名古屋間から20年後の2045年と設定している、と記事にある。まあ、そのころのことは確認できないが・・・。

■ 月刊誌「東京人」10月号は「東京 和の建築を見る。」を特集している。この特集のリード文を少し長いが引用する。
**明治から大正、昭和初期にかけて日本各地では、優れた和風建築が多くつくられました。西洋には見られない、日本ならではの風土と素材、名工たちの技術、独特の感性から育まれた心地のよい「和」の空間。洋風化する暮らしの中で、和風建築を見学したり、その暮らしに触れてみると、新しい発見があるようです。**
この雑誌に、藤森照信さんと小泉和子さん(日本家具・室内意匠史研究家とプロフィールにある)、隈研吾さんの座談会が載っている。
「身体の記憶を呼び起こす、軽くてモダンな「和」の空間」と題するこの座談会で隈さんは自身が設計して先日リニューアル・オープンした根津美術館について触れ**屋根からやらしい象徴性を取って気持ちよさだけを残すことはできないかと、思い切って棟瓦をなくしたんです。軒先をシャープな鉄板で終らせることで、軽やかさを出した。**と語っている。
隈さんはいつ頃からか「和」をデザインするようになった。サントリー美術館も「和」、根津美術館も「和」。
根津美術館を紹介するブログをいくつか読んだが、出来栄えがいいらしい。来月東京する予定。是非この「和」の美術館に行ってみたい。カフェも雰囲気がよさそうだ。
エントランスへのアプロー空間は「繰り返しの美学」か・・・。
■ 松本の山屋御飴所の屋外看板
山屋は創業が寛文12(1672)年、340年(!)近く続いてきた老舗の飴屋さんです。松本には昔から飴屋が多かったそうで、江戸時代には数十件もの飴屋さんあったともいわれているそうです。でも現在では数件しか残っていないそうで、山屋はその内の1件です(同店のHPを参照しました)。
今回路上観察したのは店の前の看板。
やはり山屋のHPによるとこの看板は明治時代のものだそうです。「御飴製造所」とあります。「御」という文字は屋根の直下で雨が掛かりにくいために比較的はっきりしていますが、一番下の「所」という文字は読みにくいですね。雨が掛かりやすい分傷みやすいですから。
それにしても丁寧に作られています。反りのついた屋根は銅板葺き。垂木(たるき)も当然すべて反っています。傷みやすい垂木の小口は銅板で包んであります。この写真では分かりませんが、柱から持ち出している梁(屋根を支えている持ち出し梁)には彫刻が施されています。看板の下にある腕木を支えている持送りにも彫刻が施してあります。
善光寺の灯ろうや松本市内の高橋家住宅(市内に現存する最も古いとされる武家住宅)を紹介した時にも触れましたが、柱は「根継ぎ」という技によって傷んだ部分が新しい部材に更新されています。
金輪継ぎという釘や金物を全く使わない継手が使われています。柱の角は古い部材に合わせてちょうなはつり(でいいのかな)の面取りがしてあります。
この飴屋さんの歴史を今に伝える貴重な看板です。
Googleマップをプリントして所在地を結ぶ三角形を描いてみました。


左のような地図はときどき見る機会がありますから「カフェトライアングル」の形はほぼ正確にイメージできていました。
一方、右の「六本木アートトライアングル」の形はイメージと違っていました。一度だけ同じ日に3館を歩いて巡ったことがありますが、そのとき森美術館が他の2館からもっと離れているというイメージを持ったようです。サントリー美術館と森美術館を結ぶルートはかなり遠回りしていますから、そのような印象を抱いたのでしょう。右のような地図を一度でも見ていればもっと正確な三角形が浮かんだと思いますが、今回初めて見ました。
数少ない移動体験に基づく距離感ってあまり正確ではないんですね。移動手段によっても違いますしね。例えば新宿、浅草、銀座を結ぶ三角形で試してみてください。イメージの三角形と実際の三角形、相似しているでしょうか・・・。
東京の地理的イメージも人それぞれなんですね、きっと。

■ ある出版社のアンケートに答えて、図書カードをもらった。で、久しぶりに書店へ。川上弘美の『真鶴』が文庫になって、平積みされていた。手にとってパラパラと頁をめくって元に戻して、新書のコーナーへ。『科学の目 科学のこころ』長谷川眞理子/岩波新書を購入、読了。
岩波の雑誌「科学」に3年間にわたって連載された科学エッセイを収録。
「対称性と美的感覚」 人間の美的感覚と対称性の関係。これは繰り返しの美学に通じる問題、左右対称も繰り返しのパターンのひとつだから。
ヒトの顔を合成してどんどん左右対称に作っていくと、その魅力が増すという研究結果があるとのことだが、**そこで、ほんのちょっと対称をくずした顔が、もっと魅力的だと思われるらしい。**
続けて著者は次のように書く。**では、人間以外のものに対する美的感覚はどうだろう? きっちりと対称になった物体は、確かに美しいと感じられる。しかし、そこで対称性をわざと破ったものは、非常におもしろくて美しい。しかし、それは、そもそも対称性の美というものがあることを前提として、はじめて出てくるヴァラエティなのだろうか?**
私も繰り返しの美学について、同様のことを考え始めている。著者がこの問題についての見解を本書で示していないのは残念。
「建築物の自然観」 **数学的な線や物理法則は、なぜ人間の審美的感覚を刺激するのだろう? 自然界の生物が作り出す形は、なぜ美しくみえるのだろう? その答えは、数学や物理学ではなく、私たちの神経系の構成に関する生物学の中にあるに違いない。**
繰り返しを美しいと感じるのは何故か・・・、やはり答えは出てこないようだ。
■ 昨日(10日)の夜、10時過ぎにラジオ文芸館というNHKの番組で太田治子の短編「あきらめない男」の朗読を聴いた。レンブラントは何点も自画像を描いているが、この短編はすべてをあきらめたような表情に見えるレンブラント最後の自画像がモチーフ。この自画像がお気に入りの女性が主人公。昼間、『巨匠たちの迷宮』でレンブラントを読んだばかり。偶然だった。
主人公の女性は50歳で元小学校の校長の65歳の男性と見合い結婚する。自分の父親に似ていた男性の「すべてをあきらめたような」表情が好きだった。結婚して半年後、夫は駅のホームから転落死してしまう・・・。
夫と一緒に観るはずだったレンブラントの最後の自画像の前に女性はひとりで立つ。絵の印象は全く違っていて「あきらめない男」に見えた・・・。
妻や息子に先立たれ、悲しみをこらえながら自画像を描き続けたレンブラント。彼は晩年になっても美を追い求めることを決して「あきらめない男」だった。
作家・太田治子は太宰治の娘。小さい頃から絵画に親しんでいたという。「あきらめない男」の他にも絵画をモチーフにした短編小説が何点かある。書店で探してみよう。
■ 時々利用しているカフェ。この3つのカフェの所在地を結んでできる三角形、「カフェトライアングル」をイメージしてみると、どうも六本木アートトライアングル(国立新美術館とサントリー美術館、森美術館を結んでできる三角形)と同じような形になるような気がする・・・。
長野の「三角形」がすーっと空中に浮かんで、ビュンと東京に飛んで、上空で向きを合わせて大きさを変えてから、ねらいを定めて徐々に高度を下げていく。すると六本木の「三角形」にぴたっと重なる・・・、そんな映像が浮かんだのです。
3つのカフェを結んでできる三角形はかなり歪んでいます。この三角形の頂点のカフェに対応する美術館は、matka(松本)が国立新美術館でカフェ・シュトラッセ(朝日村)がサントリー美術館、そしてユナイト(大町)が森美術館ということになります。
さて、このことをビジュアルに示すには・・・。私にもできるローテクな方法がありそうです。時間があれば、明日試みてみます。△△△
■ このところ民家のことばかり書いていました。昔撮った写真などをネタに駄文を重ねてきました。以前、友人から「U1さん、建築の話題は読みませんよ」と言われたことがありました。一度民家モードから離れようと思います。少しは本も取り上げないと、バランスを欠いています。
西洋美術史家・木村泰司さんの『巨匠たちの迷宮 名画の言い分』集英社。
この本に登場する8人は巨匠とのことですが、名前くらいしか知しません。いや、名前すら知らない画家もいます。17世紀のオランダの画家レンブラントは、超が付くくらい有名。でもこの画家の人生については何も知りませんでした。
**富と熱狂の渦巻く市民社会が、画壇のスーパースターとしてもてはやし、そして頂点から引きずり下ろされた男。** この本では彼の人生をこのように括っています。
レンブラントの妻サスキアは優秀なビジネス・パートナーだったそうですが、30歳の若さで結核で亡くなってしまうんですね。そこから始まる人生の凋落・・・。彼は幼い息子の乳母と愛人関係に。それから自分より20歳も若い使用人に気が移り・・・。
こうした私生活の乱れが致命傷となって財政状態は悪化の一途、そして破産。画家はやはり顧客あっての人気商売。当時の厳格な市民社会が彼の不道徳を許さなかったんですね。
彼のドラマチックな人生を知り、この本に載っている「トゥルブ博士の解剖学講義」(この絵は画集かな、で見たことがあります。)や「夜警」、「織物商組合の見本調査官たち」、それから多くの自画像が一層興味深く見えてきました。
やはり「トゥルブ博士の解剖学講義」は傑作です(この画題で検索すれば絵がヒットします)。
小谷村の牛方宿の屋根(0910)
常陸幸田(当時)の民家の屋根(7910)
■ 民家の魅力は素材、技術(技術というか知恵とした方がいいかも知れないが)、労力 すべてその地域のものによって造られたところにある。
まず地域による素材の違い。それは屋根に顕著だ。屋根に使われる材料には板、樹皮、茅、石、竹などがある。
上は長野県小谷村の民家。山間地だから「木」の入手が容易。それで棟納めに木と樹皮(たぶん杉皮)が使われている。下は茨城県内の民家。棟納めに使われているのは平野部で容易に入手できる竹と茅。
このように実証すれば、民家の構法が地域によって異なることが理解できると思う。
屋根棟の部材はそれぞれ雨仕舞や腐朽防止上意味を持っている。上のふたつの屋根の部材には不要なものが無い。嘘が無いと言い換えてもいい。このことにこそ民家の美がある。

■ まつもと市民芸術館 あれ? 客席の前にあるのは何?
バルコニー席の前の手摺が写っていますね。その前のごちゃごちゃしたものは天井裏です。まつもと市民芸術館はホールのボリュームを変えるために天井が下げられるようになっているんですね。普段目にすることがないところですから、アップしておきます。
ホールには馬蹄形のバルコニー席が4層ありますが、このように天井を下げて3層にすることもできるんです。かなり大掛かりな可変装置です。実際このように天井を下げて使うことがどのくらいの頻度であるのか分かりませんが。
■ 改築された全国の駅舎のデザインには全く地域性がない。特に新幹線の駅舎はどこも同じ。金太郎飴駅。長野駅も前の駅舎の方が長野らしかった。松本駅も然り。
でも地域性とは何かと問われると答えに窮する。松本らしさ、松本をデザインするとはどういうことか・・・。蔵をモチーフにすれば、それでOKか?
地域の「材料、技術、労力」で造られた民家の造形には「地域性とは何か?」という問いの答えがある、と思う。が、それは「ユニバーサルな現代建築」で実現可能なのだろうか・・・。それは無理だということは端から明らかではないのか??
このことについてはいずれ書かなくてはならないだろう。今回は課題の備忘にとどめる。
■ ドアクローザーは「無作法人間養成装置」だと確か前にも書きました。同じ話を繰り返すのは歳を取った証拠かもしれませんが、まあ仕方ありません。
で、ドアクローザーですが、開けたドアをきちんと閉めればそれですむものをそれをしない者が多いものだから、こんな装置をドアに付けることになるんです!いっそふすまにも自閉装置を付けたらどうでしょう。
ここで、断っておきます。今夜はちょっとアルコールしてます。久しぶりにウイスキーをロックで飲んでます。もうビールの季節じゃないですから・・・。
学生時代のこと、冬のスキー合宿だったか、夏の海水浴合宿だったか、忘れましたが、女子大の学生たちと出かけたことがありました。宿泊した民宿で、誰かひとりだけトイレのドアをバタン!と閉めるんです。誰だろう・・・。一番人気のコだと分かった時はがっかりしました。
やめて話を元に戻します。
ドアを閉めるという基本的な行為を建築に頼るなんて、情けない。で、次。中心市街地活性化を建築に頼るなんて無理。シャッター通りが公共建築ひとつ建てるだけで、風船を持った小さな子を連れた若いお母さんたちが行き来するようなにぎやかな通りに変わるなんてあり得ない・・・。ンなの幻想です。
都市の沈降を止めるのを建築に頼るなんて、無理。ハードには限界があります。そりゃ昔はお伊勢参りで賑わったかもしれませんし、善光寺が御開帳だと全国から大勢の人が押し寄せます。でも現代建築にそんな力はないと思います。
支離滅裂。やめとこ。今夜はもう寝ます。明日の朝、削除するかも。
■ 先日「歴史の重層性にある街並みの魅力」などと大層なタイトルを付けてしまった。「歴史の重層性」って何?、一体どういう意味? 当然の疑問だ。
秩序のヨーロッパ、混沌のアジア・日本。
ヨーロッパと日本の都市の構造、街並みの特徴の違いは一般的にはこのように対比的に捉えられる。ヨーロッパの街並みは限定されたデザインコードに拠ってのみデザインされた建築のファサードの連なりによって成り立っている。そこにはゆるやかに秩序づけられた美しさが在る。繰り返しの美学の街並み。
一方、この国の街並みは実に混沌としている。隣りあう建築の間にデザインの関連性など全くない場合が多い。この国の街並みで「秩序づけられた美しさ・繰り返しの美学」は歴史的街並み保存地区、そう昔の宿場のような街並みにのみ例外的に存在する。
東京の表参道は有名建築家によってデザインされた建築が街並みを形成しているが、そこには街並みとしての秩序は存在していない。いかに独自性を出すかにデザインの主眼が置かれ、統一感が全くないバラバラな街並みが形成されている。唯一の救いは大きなケヤキの並木だ。
この国の街並みの魅力を考える時はこの混沌とした状態を前提とせざるを得ない。ならば、せめて大正から昭和初期、戦前、そして戦後まもなく建てられた古い建築も共存する、つまり何層かの歴史の重なりが見られるような街並みに、魅力を見出そうという考え方があるのではないか。
このことを「歴史の重層性にある街並みの魅力」と表現した、という次第。
以上、先日のブログのタイトルの説明。