■ ドアクローザーは「無作法人間養成装置」だと確か前にも書きました。同じ話を繰り返すのは歳を取った証拠かもしれませんが、まあ仕方ありません。
で、ドアクローザーですが、開けたドアをきちんと閉めればそれですむものをそれをしない者が多いものだから、こんな装置をドアに付けることになるんです!いっそふすまにも自閉装置を付けたらどうでしょう。
ここで、断っておきます。今夜はちょっとアルコールしてます。久しぶりにウイスキーをロックで飲んでます。もうビールの季節じゃないですから・・・。
学生時代のこと、冬のスキー合宿だったか、夏の海水浴合宿だったか、忘れましたが、女子大の学生たちと出かけたことがありました。宿泊した民宿で、誰かひとりだけトイレのドアをバタン!と閉めるんです。誰だろう・・・。一番人気のコだと分かった時はがっかりしました。
やめて話を元に戻します。
ドアを閉めるという基本的な行為を建築に頼るなんて、情けない。で、次。中心市街地活性化を建築に頼るなんて無理。シャッター通りが公共建築ひとつ建てるだけで、風船を持った小さな子を連れた若いお母さんたちが行き来するようなにぎやかな通りに変わるなんてあり得ない・・・。ンなの幻想です。
都市の沈降を止めるのを建築に頼るなんて、無理。ハードには限界があります。そりゃ昔はお伊勢参りで賑わったかもしれませんし、善光寺が御開帳だと全国から大勢の人が押し寄せます。でも現代建築にそんな力はないと思います。
支離滅裂。やめとこ。今夜はもう寝ます。明日の朝、削除するかも。
■ 先日「歴史の重層性にある街並みの魅力」などと大層なタイトルを付けてしまった。「歴史の重層性」って何?、一体どういう意味? 当然の疑問だ。
秩序のヨーロッパ、混沌のアジア・日本。
ヨーロッパと日本の都市の構造、街並みの特徴の違いは一般的にはこのように対比的に捉えられる。ヨーロッパの街並みは限定されたデザインコードに拠ってのみデザインされた建築のファサードの連なりによって成り立っている。そこにはゆるやかに秩序づけられた美しさが在る。繰り返しの美学の街並み。
一方、この国の街並みは実に混沌としている。隣りあう建築の間にデザインの関連性など全くない場合が多い。この国の街並みで「秩序づけられた美しさ・繰り返しの美学」は歴史的街並み保存地区、そう昔の宿場のような街並みにのみ例外的に存在する。
東京の表参道は有名建築家によってデザインされた建築が街並みを形成しているが、そこには街並みとしての秩序は存在していない。いかに独自性を出すかにデザインの主眼が置かれ、統一感が全くないバラバラな街並みが形成されている。唯一の救いは大きなケヤキの並木だ。
この国の街並みの魅力を考える時はこの混沌とした状態を前提とせざるを得ない。ならば、せめて大正から昭和初期、戦前、そして戦後まもなく建てられた古い建築も共存する、つまり何層かの歴史の重なりが見られるような街並みに、魅力を見出そうという考え方があるのではないか。
このことを「歴史の重層性にある街並みの魅力」と表現した、という次第。
以上、先日のブログのタイトルの説明。