(榊神社つづき)
琴臺東條先生之碑
琴臺東條先生之碑は、大正九年(1920)九月の建碑。篆額の揮毫は西園寺公望。撰文は森林太郎(鴎外)。東條琴臺は、江戸生まれの漢学者であったが、高田藩主榊原家に仕え、藩士の教育にあたった。西園寺公望は北越戊辰戦争で高田に滞陣した際に琴臺と出会った。当時、西園寺は二十歳、琴臺は七十五歳であった。
(善導寺)
善導寺
善導寺は、会津降人の会所として用いられた。善福寺のみ写真を撮影し損ねた。
室孝次郎夫妻之墓
室孝次郎は天保十年(1839)の生まれ。倉石侗窩の門に学び、勤王の志をいだいて慶應二年(1866)、京都に上り広く志士と交わった。慶應四年(1868)正月の戊辰戦争では北陸道官軍御用掛に任じられ転戦したが負傷。明治三年(1870)、高田藩聴訴掛となり、また同志と高田病院を興した。明治八年(1875)、弥彦神社宮司、明治十一年(1878)、第八大区長、高田中学校長、明治十二年(1879)、西頚城郡長となり、明治十四年(1881)、辞して信越鉄道の敷設を計画し、また鈴木昌司らと頚城自由党を組織したが、改進党が結成されると上越立憲改進党を興し、明治二十三年(1890)より衆議院議員となり、明治三十年(1897)には愛媛県知事となった。明治三十五年(1902)、議員を辞め、憲政本党頚城支部長となった。明治三十六年(1903)、年六十五で没。
(石沢)
明治天皇石澤御小休所阯
明治十一年(1878)九月十一日、厳しい残暑の中、関川行在所から南下した明治天皇は、石澤で小休を取り、この日の宿所である高田行在所に向かった。
明治天皇駐輦之碑
駐輦之碑の題字は、宮内卿や侍従長などを歴任し、長く明治天皇の側近として仕えた徳大寺実則。
御小休所根切松碑は、明治天皇の通行に備えて、道に露出していた根が断ち切られた松の巨樹を偲ぶものである。
御小休根切松
(高橋孫左衛門商店)
高橋孫左衛門商店
上越市の南本町の商店街に高橋孫左衛門商店という粟飴の老舗がある。高田を代表する名物の一つが栗飴である。砂糖が貴重だった江戸時代、粟などの穀物に麦芽を加え、糖化させたものが粟飴である。
高橋孫左衛門商店は、寛永元年(1624)創業。高橋家は越前藩主松平忠直の家臣といわれ、忠直の子光長が高田藩主として入府した際にこれに伴って高田に移り、当地で粟飴を販売したという。
十返舎一九ゆかりの地
文化十一年(1814)には、「東海道中膝栗毛」で有名な戯作者十返舎一九が高田を訪れ、高橋家に世話稲荷、自著に粟飴のことなどを紹介した。
粟飴
明治十一年(1878)、明治天皇北陸巡幸の際には、明治天皇が昭憲皇太后、英昭皇太后への土産に粟飴や翁飴を買い求めたという。
(大杉屋惣兵衛本店)
本町の商店街にある大杉屋惣兵衛も、文禄二年(1592)の創業という老舗である。粟飴を固めた翁飴は、歴代高田藩主の御用を命じられた。
大杉屋惣兵衛本店
翁飴
ここでお土産に翁飴を購入。上品な甘さが特徴である。
翁飴
(長徳寺)
長徳寺には以下の六名の金沢藩士が葬られている。奥田九左衛門、大矢鍵太郎、上山兵蔵、北村和右衛門、堀井曽左衛門、今村栄次郎。いずれも越後戦線で戦死した金沢藩士であるが、今村栄次郎のみは明治二年(1869)五月十三日、箱館津軽陣屋にて戦死。
長徳寺
金沢藩士の墓
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