史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「明治維新の舞台裏」 石井孝著 岩波新書

2020年12月26日 | 書評

「創刊80周年限定復刊」と銘打って、岩波新書が往年の名著から厳選して復刊している。本書は、昭和五十年(1975)にその時点で十五年余りが経過していた旧版に、その後筆者自ら誤りや妥当性を欠いたものを訂正して再刊されたものである。だから「第二版」となっている。それにしても、今から四十五年も前のことであり、著者石井孝先生も平成八年(1996)にお亡くなりになっている。もはや古典的作品と呼んでもおかしくない本であるが、内容は刺激的である。昨今、「明治維新は薩長の謀略」「明治維新は、徳川から薩長が政権を略奪しただけ」だと主張する奇説が幅をきかせているが、本書を一読すれば、この時代において謀略は薩長の専売特許ではなく、幕府もそれに負けじと策略を巡らせていたことが分かる。

本書は「明治維新の舞台裏」と名付けられている。政局の裏側で外国人が大きく策動して日本人を操ろうとしている。そうした外国人の動きを明らかにしようというのが執筆の動機となっている。

薩摩藩、長州藩は、外国公使に対し「外交には反対ではなく、それどころか領内の港を開く用意もあるけれども、外国貿易を独占して大名の貿易への参加を排除しようとして、大君(将軍)がそれを妨げている」と主張した。長州藩は少なくとも四か国連合艦隊による下関襲撃までは攘夷を藩是としていて、部分的にはこの主張に違和感はあるが、貿易の利を幕府が独占していたのは事実である。雄藩は何とかして貿易による利益の分け前を自分たちにも…と要請するが、幕府は頑としてその一線は譲らなかった。

薩摩藩は「外交には反対ではない」と言いつつ、兵庫開港を幕府を揺さぶるための「最後の切札」として最大限利用した。薩摩藩は、家茂が亡くなり将軍が空席となった間隙を縫って、兵庫開港問題を雄藩による大名会議(諸侯の合議政治)によって協議して決することを画策した。薩摩藩の動きを察知した慶喜は、将軍に就任するや英・米・仏・蘭の四国代表を大阪城に招待し、そこで兵庫開港を言明した。将軍慶喜の政治的勝利であった。

この頃、幕府の親仏派・徳川絶対主義者たちは、フランスからの借款を得るために蝦夷地産物の開発権を抵当に入れるという劇薬を採ろうとしていた。筆者は「権力者にとっては、自国の独立よりもその権力の存続のほうがはるかに重大な関心の対象」であり「幕府はその断末魔にさいして、ただ一つの頼みの綱、借款を実現するために、蝦夷地の利権を外国の銀行に売り渡そうとした」と批判する。幸いなことに重大使命を帯びた栗本鋤雲がフランスで交渉に当たっている最中に、幕府は倒壊しこの借款は実現することはなかった。

兵庫開港を契機に、幕府は兵庫商社を設立して、貿易の利の独占を目論んだ。同時にフランス側でも「フランス輸出入会社」が設立され、フランスは日本の生糸を独占的に輸入しようとたくらんだ。幕府はその収益で武器弾薬を手に入れようとした。これが実現進展すれば日本の半植民地化は避けられなかったであろう。

大政奉還後、慶喜は大名から構成される上院と各藩一人ずつの藩士で構成される下院の上下両院制度を構想していた。自ら上院の議長を兼ね、両院会議で議事が決しないときは採決権を有するというものであった。

一見すると、明治政府が目指した公議政体論と似た構想のようでもある。しかし、飽くまでも徳川家の存続と繁栄を目指すトクガワ・ファーストであった。日本の近代化のためには遅かれ早かれ徳川家は排除されるべき存在だったのだろう。

本書を読むと、幕末の舞台裏でイギリスとフランスという二大国が暗闘していたことが手に取るように理解できる。我が国が西欧列強の植民地にならなかった理由について、巷間様々な説が唱えられている。もちろん市場としての魅力が劣っていたことが大きいと思うが、それに加えて両二大国が互いに牽制しあっていたことが結果的に日本にとって幸運だったように思う。

読み終わった本を本棚に並べようとして、四十五年前に買った同じ本を発見した。またやっちまった。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 府中 Ⅴ | トップ | 「暗殺の幕末維新史」 一坂... »

コメントを投稿

書評」カテゴリの最新記事