史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

茗荷谷 Ⅳ

2014年03月16日 | 東京都
(播磨坂)


極楽水

 茗荷谷駅から五分ほど東へ進むと、播磨坂と名付けられた、妙に幅の広い道に出会う。中央分離帯は公園となっており、道の両側には桜並木が植えられている。きっと春は花見客で混雑するだろう。この地名は、江戸時代この場所に常陸府中藩松平播磨守の屋敷があったことに由来する。ほとんど遺構らしきものは見当たらないが、小石川パークタワーというマンションの一角に、極楽水という名水が復元されている(文京区小石川4-16)。


高橋泥舟 山岡鉄舟 旧居跡

 播磨坂公園内に高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡の説明が建てられている。実際に旧居跡があったのは、この場所から西側の一角、現在マンションのあるところに両家は並んでいた(文京区小石川5‐1‐8)。
 高橋家は享保五年(1720)、山岡家は文化八年(1811)以降、この地に移り住んだといわれる。
 高橋泥舟は、槍術の大家山岡静山の弟で、母方の実家、高橋家を継いで、二十五歳のとき幕府の開いた講武所の師範となった。
 山岡鉄舟は、旗本小野家の出身であったが、山岡静山の妹英子(ふさこ)を娶って山岡家を継いだ。

(喜運寺)
 喜運寺には小さな墓地があり、そこに思案橋事件で殉職した河合好直の墓標がある。思案橋事件で殉職した警察官は、寺本義久と河合好直の二人。寺本警部補の墓は染井霊園にあるが、河合好直巡査の墓は、喜運寺墓地の一番奥まった場所にある。川路利良大警視の手によるものである。


喜運寺


為川合好直君

(国際仏教学大学院大学)


慶喜公屋敷大銀杏

 国際仏教学大学院大学の敷地には、江戸期に荻野山中藩大久保家の下屋敷があった。
 徳川慶喜は、水戸藩小石川の上屋敷で生まれ、幼少期を過ごした。維新後、長らく静岡で謹慎生活を送ったが、明治三十年(1897)、東京に戻り巣鴨に居を構えた。さらに明治三十四年(1901)、思い入れの深い小石川に近い当地に移った。学校正門脇に、慶喜邸にあった大銀杏がある。慶喜が急性肺炎のため世を去ったのは、大正二年(1913)十一月二十二日のことであった。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 西麻布 Ⅱ | トップ | 日野 Ⅳ »

コメントを投稿

東京都」カテゴリの最新記事