2025年月刊Hanada3月号の目次をみたら『追悼石井英夫』がある。
身近に接しておられた2人の方の文が印象深い。
単行本とちがい、雑誌掲載の文は、ある程度時間が過ぎると、
もうどこにあったのか分からなくなり、あきらめたりします。
ここに、記して備忘録としたいと思います。
例えば、梅棹忠夫著「知的生産の技術」を読んでから、
藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社・1984年)を読むと、
『知的生産』の現場の新たな水先案内人に出会えた気がするのでした。
もどって、Hanada3月号の追悼文を紹介します。
その宮城晴昭氏の文から紹介。
「石井(英夫)さんが産経新聞に入社し・・
朝刊一面のコラム『 サンケイ抄 』(現産経抄)を担当したのが
1969年で、入社14年目の36歳です。・・・
そこから35年間、ひとりで月曜から土曜まで毎日書き続けた・・・
私が産経新聞に入ったのは1973年で、石井さんは編集、
私は広告業務なので、本来なら知り合う機会は少ない。
ただ、産経抄は毎朝、いの一番に読んでいたので、
ぜひ一度石井さんとお話ししてみたいと思い、
入社して6~7年経った時でした。
思い切って論説室へ行ったんです。
『 僕、石井さんのファンです! 』と言うと、
『 え、本当かい。俺のファンなんて誰もいないと思っていたよ 』
と笑っていたのを覚えています。それが最初の出会いでした。 」(p284)
「 息子さんが小学生の時、
『 お父さんは新聞のどこを書いているの 』と訊いてきたから、
産経抄を指して『 ここだよ 』と教えたら、
『 こんな小さなとこで給料をもらってるのずるいね 』
といわれてまいった、と笑いながら話していました。・・・・
また、息子さんは『私のやりたい仕事』という作文課題では・・・
『 私は新聞記者だけにはなりたくありません 』と書いたそうです。
『ぼくが朝起きたら寝てる。ぼくが学校から帰ってきて寝るまで
の間にも帰ってこないから会えない。こういう親子にはなりたくない 』
なんて書いたそうです。
(学校の)先生がどんな家庭なのかと驚いたんじゃない(笑)。
奥様は台湾からの引き揚げで、戦前は良い暮らしをされていたけど、
女学校の時に終戦を迎え、日本で裸一貫になった。
『 だから俺がどんな貧乏しても驚かないんだよ 』
と石井さんは言っていました。・・・ 」(p286)
「 石井さんは給料全額、奥様に渡していて、
本人の飲み代なんかは印税、原稿料、講演料から出していました。
自慢ではないですが、私は石井さんと飲みに行って一回も
自分で払ったことがありません。・・・・
安い店だからこそ払えたのかもしれませんが(笑)。 」(p286)
もう一人は、吉田信行氏。
ここには、一ヶ所だけ引用。
「 産経出身の作家、司馬遼太郎さんが『 産経抄 』の
愛読者であったことは広く知られている。司馬さんの石井評は
『 人の手の温もりが感じられる文章が書けるのは
戦後では井伏鱒二と石井英夫さんの二人です 』
とするとてつもなく高いもので、よく周囲に語ってもいた。 」(p280)
私に思い浮かぶのは、曽野綾子さんが産経新聞の紙面で
連載をもっていて、紙面をにぎわせていた頃のことでした。
ある時に、別々に書いているのに、産経抄と同じ指摘で同じ意見の方
同士がいて、それを曽野さんが指摘されていることがありました。
それがなんだか、とても印象に残っております。
最後に、2005年に出版された
石井英夫著「 コラムばか一代 産経抄の35年 」(産経新聞社)から、
「あとがき」の最後の箇所を引用しておきます。
「・・・私事で恐縮だが、家人が体調を崩し、
コラムばかの私はたちまち生活不適応者に転落。
何の介護の役にも立たなかったが、家人の入院先の
国立がんセンターのベッドのかたわらで原稿用紙をひろげ、 本書
『 コラムばか一代 』の執筆をつづけるというていたらくになった。・・
35年を支えて下さったみなさまに心からの感謝をささげる次第です。
平成17年4月10日 石井英夫 」
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