和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

1995年1月19日の産経抄。

2025-01-30 | 地震
石井英夫著「クロニクル産経抄25年・上」(文藝春秋・1996年)がある。
帯を見ると、「第40回菊池寛賞受賞」とあり、また黄色い帯の背には
「 『天声人語』を卒業した人に 」とある。

本文は、一面コラム「産経抄」から年度ごとに、ピックアップされた
コラムが掲載され、3年分ごとに簡単な著者回想コメントがあります。
ここには、1995年(平成7年)1月19日の産経抄を引用しますが、
その前にまず、著者コメントから引用させてください。

「 ・・・阪神大震災では、新聞が読者に励まされることがあった。
  被災者によって勇気と≪ やりがい ≫を与えられることが起きた。

 一つは、同僚の論説委員のところへ西宮の友人から電話がかかってきた。
 家は全壊、周囲は大混乱、命一つだけ助かって1月19日付の産経新聞を
 手にし、産経抄を読んだ。そして谷崎潤一郎の、証言を知って
 元気がでたという。

 大谷崎は関東大震災に遭って東京を逃げだし、神戸に移り住むが、
 被災者列車が大阪や神戸の人びとの温かい援助を受けたと書いていた。

 『 おれたち関西人の父祖は、人情に厚く、心優しかったのを知った。
   いまはつらいが、しかしがんばって立ち直る 』
 電話はそういって切れたというのである。・・・・・・   」


それでは、指摘されている1月19日の産経抄を、この際全文引用。

「 チャキチャキの東京っ子・谷崎潤一郎は、  
  大正12年9月の関東大震災のあと東京を逃げだし、
  関西に住みついた。はじめしばらく京都にいて、
  それから神戸へ移ったという。『関西亡命』といえるかもしれない。
  東京を去ったのは地震の恐怖ばかりでなく、古い風俗や習慣の
  『 定式 』が東京から失われてしまったからだった。

  谷崎は箱根で大震災に遭い、さいわい無事だった家族と再会し、
  沼津から汽車で神戸へ向かう。そのあと神戸⇔横浜を船で往き来した。

  関東大震災では、地震にこりごりした関東の被災者たちが大挙して
  関西へ引っ越したそうだ。阪神地方には地震がないという
  『 信仰 』のような口伝があったからだろう。
  そんな被災者を迎える関西の人びとの模様を、
  谷崎はエッセーでこう書いている。

  『 梅田、三宮、神戸の駅頭には関西罹災民を迎へる
   市民が黒山のやうに雲集し、出口に列を作ってゐて 
   われわれの姿を見ると慰問品を配り、停車場には
   接待所などが設けられており、分けても
   梅田駅頭の活況は眼ざましいものがあった・・・・ 』。

  それに続いて谷崎は、大阪と京都の違いについて次のように書く。

 『驚いたことに、七条ステーション前の広場は森閑として、平日と
 何んの異る所もない。私はそれを見て実に異様な気がしたものだった。
 この時ぐらゐ京都の土地柄をまざまざと見せつけられたことはなかった』。

  大阪や神戸というと、がめつく計算高い土地柄のように考えがちだ。
  しかしどうして、人情に厚く、心温かい救いの手を関東大震災の
  被災者に差しのべたと谷崎潤一郎は証言している。
  未曾有の苦難に直面した関西に、今度は関東がお返しをする番である。 」
   

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