三ヶ月前から、ドナルド・キーンさんは角田柳作先生の講義を受講しております。
そして
「1941年12月7日、真珠湾攻撃の日は、ニューヨークでは日曜日だった。
・・怪しげな夕刊紙の第一面を黒々と埋めた活字によって日米開戦を知った。
夜のラジオ・ニュースで、デマではないことがわかり、さらに翌日の昼、日本とドイツに対して宣戦を布告するルーズベルト大統領の声を中華料理のラジオで聞いた。・・
教室に出ると、かつて講義を欠かしたことのない角田先生が、いつまで待っても教室に姿を見せなかった。敵性外国人として抑留されたと後にわかったが、そのときの無人の教壇が、戦争についての私の最初の実感であった。」(「日本文学のなかへ」p27)
ここで、講義を欠かしたことのない角田先生が語られておりました。
休講ということで、おもしろいのが戦後の昭和28年でした。
「私(キーン)が初めて日本に留学したのは1953年である。当時、日本の大学の内容については、さっぱりわからなかったが、私は京都大学へ直行した。・・
この当時、私は31歳・・とにかく私は、日本の大学で勉強するという経験が欲しかったのであり、別に学位を取りたいとも思わなかったし、試験にも関心がなかった。
しかるに驚いたことには、当時(或いは現在もそうかもしれないが)の京都大学というところは、やたらに休講が多かった。私事で恐縮だが、私は27、8年間の教師生活中、病気以外の都合で休講したことは一度もない。ところが京大では、授業がきちんとあるほうが、むしろめずらしいくらいだった。10月から2月までの5か月間に、ある先生の授業はたったの二回。しかも教室には暖房が全くない。学生はみな、固い木の椅子に坐って両手を尻の下に敷き、必要な時だけ片手を出して本のページをめくるのだった。そして肝心の教師は待てど暮らせど姿を見せない。学生たちはついにあきらめて三々五々帰っていく。私は留学二年目にして大学へは行かないことにした。・・」(「日本を理解するまで」p39)
ここで、肝心なのはキーンさんの
「教師生活中、病気以外の都合で休講したことは一度もない」という講義でした。
休講ばかりしていた日本では、その後「日本文学」はどのようになっているか?
というと、それを知る手がかりがありました。
それは、1991年に中国の杭州(こうしゅう)大学でキーンさんが
日本文学について四回にわたる講義をします。その講義記録「日本文学は世界のかけ橋」(たちばな出版)にヒントはありました。
そこには
「日本人が書いた日本文学史の中に、ひとつ素晴らしいものがあります。それは、小西甚一先生の『日本文学史』です。・・小西先生のことを考えて、自分の書く文学史に絶望を感じたことがありました。・・私はとても競争できないと思っていました。あの大家が書くものの前で、私はひとたまりもないと感じていました。しかし、後で考えて、やはり私の方法は一つしかないことに気付きました。なるべく主観的に、どこまでも自分自身の『日本文学史』を書くほかないと。例えば、連歌の歴史を詳しく書くというようなことでしたら、小西先生にかなうはずもありません。でも、私個人の感性や考え方に基づいてものを書けば、私は小西先生と違う人間ですから、『日本文学史』も違うものになるはずです。」(p118~119)
これは講義の第三章「私の『日本文学史』」にあります。
そのあとに、キーンさんが、小西先生からお聞きした言葉。
「私が以前小西先生からお聞きしたことですが、先生は『日本文藝史』を外国人の大学院の学生に読んでもらいたくてお書きになったそうです。もちろん日本人が読んでもいいのですが、一番の読者対象は、かなり日本語ができる外国人の学生でした。ですから内容は相当専門的で、文章も難解です。特に第一巻はそうです。大変立派な研究ですが、気楽に読むような本ではないのです。・・・」(p119~120)
ここは、キーンさんの「日本文学史」との比較として、語っている箇所なのです。
小西先生が「一番の読者対象」とした相手はどなただったのかに触れている箇所なのでした。
すこし「休講」から、ズレてしまいました。
そういえば、学園紛争の頃に、キーンさんの講義はどうだったのでしょう。
司馬遼太郎著「ニューヨーク散歩 街道をゆく35」(朝日新聞社)は、キーン教授のコロンビア大学退官に際して、ニューヨークを訪れる内容が主題になっておりました。
そこに1968年のことが書かれております。
「・・1968年のコロンビア大学の学園紛争の学生側に強い電流を流しつづけたのは、すでに泥沼状態におちいっていたベトナム戦争だったはずである。・・・コロンビア大学で学園紛争がピークに達する右の1968年は、一月のテト(旧暦正月)攻勢によってアメリカが後押しする南ベトナム政権の諸都市が攻撃され、五月には和平交渉がパリで開始されたとしである。が、和平会談ははかどらず、戦場にあっては、戦闘状態が諸局面でかえって激化していた。これらが、学生たちをいらだたせた。かれらは他の国の学生とはちがい、卒業すれば徴兵令によって戦場に送られる切迫感に駆られていた。大人の政治への反抗が全米の学生にひろがり、とくにコロンビア大学の場合、ニューヨークという都市的気分も手伝って、キャンパスは戦場のようになった。」
こう司馬さんは、学園紛争を調べて書いておりました。
「ニューヨーク散歩」は、この後に「ドナルド・キーン教授」という題で、書かれております。そのはじまりには、こうあります。
「・・今夜というのは、1992年3月2日月曜日の午後7時半である。大学の主催により、日本学の世界的な研究者であるドナルド・キーン教授(1922~)の定年退官のお祝いの会がひらかれる。日本学は、かつては辺境の学問であった。キーン教授の半生の労によって、いまでは世界文明という劇場のなかで、普遍性というイスをもらっている。・・」
キーン著「日本との出会い」(中公文庫・篠田一士訳)には
学園紛争の年のことが何げなく書きこまれておりました。
「私はまた学生にも恵まれている。彼らに自分の熱情を吹きこみ、気にいりの弟子たちに、自分のやるつもりだった日本文学のよりぬきの主題を継がせた。私は教えることがたいへん好きだが、それは学生たちの反応が活発な時に限る。・・・・
1968年のコロンビア大学の学生ストライキの最中さえ、学生の求めに応じて授業をし、ほとんど全員出席した。その春には、私の教師経験ではじめて、学生たちが夕食によんでくれた。」(p133)
そして
「1941年12月7日、真珠湾攻撃の日は、ニューヨークでは日曜日だった。
・・怪しげな夕刊紙の第一面を黒々と埋めた活字によって日米開戦を知った。
夜のラジオ・ニュースで、デマではないことがわかり、さらに翌日の昼、日本とドイツに対して宣戦を布告するルーズベルト大統領の声を中華料理のラジオで聞いた。・・
教室に出ると、かつて講義を欠かしたことのない角田先生が、いつまで待っても教室に姿を見せなかった。敵性外国人として抑留されたと後にわかったが、そのときの無人の教壇が、戦争についての私の最初の実感であった。」(「日本文学のなかへ」p27)
ここで、講義を欠かしたことのない角田先生が語られておりました。
休講ということで、おもしろいのが戦後の昭和28年でした。
「私(キーン)が初めて日本に留学したのは1953年である。当時、日本の大学の内容については、さっぱりわからなかったが、私は京都大学へ直行した。・・
この当時、私は31歳・・とにかく私は、日本の大学で勉強するという経験が欲しかったのであり、別に学位を取りたいとも思わなかったし、試験にも関心がなかった。
しかるに驚いたことには、当時(或いは現在もそうかもしれないが)の京都大学というところは、やたらに休講が多かった。私事で恐縮だが、私は27、8年間の教師生活中、病気以外の都合で休講したことは一度もない。ところが京大では、授業がきちんとあるほうが、むしろめずらしいくらいだった。10月から2月までの5か月間に、ある先生の授業はたったの二回。しかも教室には暖房が全くない。学生はみな、固い木の椅子に坐って両手を尻の下に敷き、必要な時だけ片手を出して本のページをめくるのだった。そして肝心の教師は待てど暮らせど姿を見せない。学生たちはついにあきらめて三々五々帰っていく。私は留学二年目にして大学へは行かないことにした。・・」(「日本を理解するまで」p39)
ここで、肝心なのはキーンさんの
「教師生活中、病気以外の都合で休講したことは一度もない」という講義でした。
休講ばかりしていた日本では、その後「日本文学」はどのようになっているか?
というと、それを知る手がかりがありました。
それは、1991年に中国の杭州(こうしゅう)大学でキーンさんが
日本文学について四回にわたる講義をします。その講義記録「日本文学は世界のかけ橋」(たちばな出版)にヒントはありました。
そこには
「日本人が書いた日本文学史の中に、ひとつ素晴らしいものがあります。それは、小西甚一先生の『日本文学史』です。・・小西先生のことを考えて、自分の書く文学史に絶望を感じたことがありました。・・私はとても競争できないと思っていました。あの大家が書くものの前で、私はひとたまりもないと感じていました。しかし、後で考えて、やはり私の方法は一つしかないことに気付きました。なるべく主観的に、どこまでも自分自身の『日本文学史』を書くほかないと。例えば、連歌の歴史を詳しく書くというようなことでしたら、小西先生にかなうはずもありません。でも、私個人の感性や考え方に基づいてものを書けば、私は小西先生と違う人間ですから、『日本文学史』も違うものになるはずです。」(p118~119)
これは講義の第三章「私の『日本文学史』」にあります。
そのあとに、キーンさんが、小西先生からお聞きした言葉。
「私が以前小西先生からお聞きしたことですが、先生は『日本文藝史』を外国人の大学院の学生に読んでもらいたくてお書きになったそうです。もちろん日本人が読んでもいいのですが、一番の読者対象は、かなり日本語ができる外国人の学生でした。ですから内容は相当専門的で、文章も難解です。特に第一巻はそうです。大変立派な研究ですが、気楽に読むような本ではないのです。・・・」(p119~120)
ここは、キーンさんの「日本文学史」との比較として、語っている箇所なのです。
小西先生が「一番の読者対象」とした相手はどなただったのかに触れている箇所なのでした。
すこし「休講」から、ズレてしまいました。
そういえば、学園紛争の頃に、キーンさんの講義はどうだったのでしょう。
司馬遼太郎著「ニューヨーク散歩 街道をゆく35」(朝日新聞社)は、キーン教授のコロンビア大学退官に際して、ニューヨークを訪れる内容が主題になっておりました。
そこに1968年のことが書かれております。
「・・1968年のコロンビア大学の学園紛争の学生側に強い電流を流しつづけたのは、すでに泥沼状態におちいっていたベトナム戦争だったはずである。・・・コロンビア大学で学園紛争がピークに達する右の1968年は、一月のテト(旧暦正月)攻勢によってアメリカが後押しする南ベトナム政権の諸都市が攻撃され、五月には和平交渉がパリで開始されたとしである。が、和平会談ははかどらず、戦場にあっては、戦闘状態が諸局面でかえって激化していた。これらが、学生たちをいらだたせた。かれらは他の国の学生とはちがい、卒業すれば徴兵令によって戦場に送られる切迫感に駆られていた。大人の政治への反抗が全米の学生にひろがり、とくにコロンビア大学の場合、ニューヨークという都市的気分も手伝って、キャンパスは戦場のようになった。」
こう司馬さんは、学園紛争を調べて書いておりました。
「ニューヨーク散歩」は、この後に「ドナルド・キーン教授」という題で、書かれております。そのはじまりには、こうあります。
「・・今夜というのは、1992年3月2日月曜日の午後7時半である。大学の主催により、日本学の世界的な研究者であるドナルド・キーン教授(1922~)の定年退官のお祝いの会がひらかれる。日本学は、かつては辺境の学問であった。キーン教授の半生の労によって、いまでは世界文明という劇場のなかで、普遍性というイスをもらっている。・・」
キーン著「日本との出会い」(中公文庫・篠田一士訳)には
学園紛争の年のことが何げなく書きこまれておりました。
「私はまた学生にも恵まれている。彼らに自分の熱情を吹きこみ、気にいりの弟子たちに、自分のやるつもりだった日本文学のよりぬきの主題を継がせた。私は教えることがたいへん好きだが、それは学生たちの反応が活発な時に限る。・・・・
1968年のコロンビア大学の学生ストライキの最中さえ、学生の求めに応じて授業をし、ほとんど全員出席した。その春には、私の教師経験ではじめて、学生たちが夕食によんでくれた。」(p133)