尾形仂著「座の文学」(講談社学術文庫)の
あとがきに、教官たちが月に一度集まって
『芭蕉の連句を読む会』を、かれこれ十年ほど続けたとあります。
同人には、独文・仏文・国文・東洋史・日本史・英文・漢文と
尾形氏を入れて10名の名前が並んでおりました。
そのメンバーに外山滋比古の名前があります。
そういえば、外山滋比古に『俳句的』(1998年・みすず書房)
という本がありました。短いエッセイがまとめられた一冊。
たとえば、『よむ?』と題する文は4㌻ですぐに読めてしまいます。
その最後は、こうあるのでした。
「活字印刷になれきってしまったわれわれは、
詩歌に対してあまりにも近代読者的でありすぎるように思われる。
・・・・・
詩歌では心に響くものがなければ、何もならない。
ひょっとすると、俳句は読んではならないのかもしれない。」(p78)
うん。これだけじゃわからない。
その、すこしまえからも引用。
「俳句の表現そのものは、きわめて、小さな音しかたてないが、
享受者の心を共鳴箱にして、ちょうど、ヴァイオリンのかすかな
絃の音がすばらしい豊かな音になるように、増幅される。
たとえ、絃がよい音を出しても、
共鳴箱がこわれていれば、よい音色は生れない。
散文においては、読者の共鳴箱にもたれかかった表現は
むしろ邪道であるが、詩歌では共鳴を無視するわけには行かない。
もっとも深いところに眠っているわれわれの共鳴箱を
ゆり動かしたとき、ことばは力なくして鬼神を泣かしめることができる。
・・・・ 」
もどって、尾形仂氏のあとがきにあった『芭蕉の連句を読む会』。
そのことを、尾形氏は語っておりました。
「 談笑の間に、その座から受けた学恩ははかり知れない。
私が座という問題に関心するようになったのも、
一つはそういう座の体験からきている。・・・・ 」(p370)
うん。外山氏の『俳句的』の本も、あるいはその副産物なのかも
しれないなあと思ってしまいます。
共鳴箱といえば、
サン=テグジュペリ作『星の王子さま』(内藤濯訳)が浮かんじゃう。
砂漠の真ん中に不時着した、ぼくは『ヒツジの絵をかいて』という
ぼっちゃんと出会います。
『 ふしぎなことも、あんまりふしぎすぎると、
とてもいやとはいえないものです。 』
こうして、ぼくは、ヒツジの絵を描く羽目になるのでした。
けれども、どうしても、ぼっちゃんには、気に入ってもらえない。
最終的にどうしたのかというと、ここに箱が登場しておりました。
「『こいつぁ箱だよ。あんたのほしいヒツジ、その中にいるよ』
ぶっきらぼうにそういいましたが、見ると、ぼっちゃんの顔が、
ぱっと明るくなったので、ぼくは、ひどくめんくらいました。 」
うん。この空気穴をあけた箱は、じつは共鳴箱だった。
そう。今になって、やっと氷解したような気がします。
もどって、講談社学術文庫『座の文学』には、
さいごに、大岡信の解説が載っておりました。
その解説の最後ページから引用して終ります。
「 私は十年も先輩の尾形さんに対して、
随分勝手な放言に類することもぶつけるのが常だった。
そして、それが常に確実な手応えで受けとめられ、
何倍も深く重い答えとなって返ってくる快感に酔わされたのだった。
これは作り話ではない。『芭蕉の時代』をもしどこかで
見つけることができたら、ぜひそれを手にとって中を読んで
もらいたいものだと思う。
そこには、座談特有の親しみ深さで語られた、
芭蕉とその時代を口実とする≪座の文学≫俳諧についての、
実に興味津々たる大学者の炉辺談話があるのを人は見るにちがいない。」
( p380 )
ふ~う。またしても手元に置きたくなる本がふえそう。
王子さまなら、こう言うのだろうか。
『 うん、こんなのが、ぼく、ほしくてたまらなかったんだ。 』
コメントありがとうございます。
はい。柳田国男を読もうとしているのに、
もう、さっそくズレていっております。
うん。柳田国男を、直接に読むより、
柳田国男を語る解説が分かりやすい。
ということで、いつものことです。
柳田国男の文はきわめて小さな音で、
解説という共鳴箱で何とか聞き取る。
ということで、解説を読みながら、
共鳴箱に耳をすませているような、
そんな塩梅なのでして、ちっとも
柳田国男の文に戻れずにおります。
この寄り道にも、それなりの収穫
がありそうだと、のりピーさんの
コメント反応で安堵しております。
はい。弾みをつけズレてゆきます。