安野光雅・藤原正彦対談「世にも美しい日本語入門」
( ちくまプリマ―新書・2006年 )を古本で購入。
対談なので、私みたいなパラパラ読みには最適。
「安野光雅先生は、私の小学校時代の先生である。」
( p7 藤原正彦のまえがき )
話が多岐にわたっているので、
パラパラ読めば、そのままに、パラパラと忘れそうです。
ここには、第五章「小学唱歌と童謡のこと」を引用。
藤原】 私は、小学唱歌や童謡の大切さを
どんなに強調しても、したりないと思っています。 (p82)
はい。漠然と思っていたことも、こうはっきりと
語ってもらうと、何だかホッとして拍手をしたくなります。
藤原】 ・・小学校での音楽というのは・・
文化の継承という意味もあります。繰り返し言いたいのですが、
子と親、おじいちゃん、おばあちゃん、みんなで歌える
歌がなくなってしまうというのは大きな損失です。 (p86)
藤原】 そうですね。文語体入門としていいですね。
唱歌とか童謡には文語体が山ほどあります。・・・
安野】『 われは海の子 』という意味は、口語では言えないですね。
舞台に上がったような気持ちで、高揚した気分になれば言える。(p89)
藤原】 明治から大正、昭和の初めにかけて、モラエスというポルトガルの
作家が徳島に住んでいました。彼は日本人は歌ばかり歌っていると
いうんですね。
大工はトンカチを叩きながら歌う。
お母さんは洗濯をしながら歌う。
行商人は歌を歌いながらやってくる。
子ども達は学校の行き帰り、歌を歌っている。
こんなに歌ばかり歌っている国民はないとびっくりしている。
それが今では、街から歌声が消えてしまいました。
唱歌や童謡という素晴らしいものを失ったツケが出てきたんですね。
(p91)
安野】 ・・・とにかく、曲がつくと、詞が歌になる。
あたりまえのことのようですが、
詞を読んだだけでは理屈っぽいのに、
曲がつくと理屈抜きで感じとれるものになる。
頭を通って体に入っていた詞が、曲がつくと
咽から丸ごと飲み込んででもいるかのように、
体に入ってくるんです。 (p95)
うん。最後に、蛇足だと言われようと、ここを引用しなくちゃ。
藤原】 ・・・私は、懐かしさのよくわからないケダモノのような
三人の息子たちに、子ども時代の歌をよく聞かせます。
・・どんどん聞かせます。皆で車で出かける時など、
古い歌ばかり聞かせます。家で、昭和五年の『日本橋から』を
レコードで聞かせたことがあります。
『お江戸日本橋、師走も暮れる・・』というものです。
関種子と佐藤千夜子のものがあり、両方とも三回ずつ聞かせました。
我が家はスパルタです。最初は『古くさい』などと言っているのですが、
何度も聞くうちに好きになってしまって、ある日、
二階に上がっていったら、誰かが『お江戸日本橋・・・』と
口ずさんでいるんです。大学院に行っている長男が
口ずさんでいたのです。 しめた! と思いました。
祖父母の青春時代が蘇ったのです。情緒教育として、
唱歌、童謡、それから昔の歌謡曲も含めて
素晴らしい教材です。歌詞が何しろいい。・・・ (p97~98)
マンドリンとギターによる
童謡・唱歌のコンサートに行きました。
童謡と唱歌の違いなどのお話しもありました。
私は 童謡・唱歌が好きです。
今は ユーチューブに合わせて 施設にいる母に
歌ってもらっています。
それから
奈良絵本 図書館で借りてきました。
たくさんの本が残っているようですね。
どれも手描きのようですね。
浦島太郎など 知っている話もあって
楽しんで見ています。
コメントありがとうございます。
「施設にいる母」のコメント
ありがとうございました。
その歌声が聞こえてくるようです。
図書館ならば、奈良絵本といっても、
いろいろな本があるのでしょうか?
ちょっと、気になるのでした。
童話と唱歌のちがいについては、
「世にも美しい日本語入門」でも
触れている個所がありますので、
今日のブログに載せておきます。
コメントありがとうございます。
藤原正彦さんの『 しめた! 』体験。
が印象的でした。
今日もブログ更新は、この唱歌・童謡を
とりあげてみます。