「サザエさん うちあけ話」に妹の長谷川洋子さんを
とりあげた箇所がありました。
『 生来の無口。・・・
闘争心ゼロ。一週間に一度はデンシャに乗りはぐれて
スゴスゴ帰ってきます。人をつきとばして乗れないタチ。
ため息つきつき、持って出たべんとうを、うちで食べるしまつです。
かなりすいたエイガ館でも座ってみたことが無いという要領の悪さ。 』
( p23 姉妹社 )
まり子・洋子。この二人の前にさっそうと
救命ボートで菊池寛が登場しておりました。ということで、
『サザエさん うちあけ話』に出てくる菊池寛。
東京へ出てきて、しばらくして、母親から突然
空の預金通帳を見せられます。
長谷川まり子さんは、どうしたか?
「 明日の糧のために、姉は、手っとり早いさし絵の注文とりです。
サンプルの大きな画帳をかかえて、講談社や小学館、主婦の友など
かけずり回るのですが、骨おり損のくたびれもうけ。
・・・
その頃私は、ぼつぼつ、マンガで収入はありましたが、
それとて、たかがしれています。
長谷川丸は世の荒波のまっただ中に、沈没かとみえました。
・・・
ところが思いがけない方角から、突如、
救命ボートが現れたのです。知人の紹介で絵を見て下さった。
菊池寛先生が『ボクのさし絵を描かしてあげよう』
つるの一声です。『女性の戦い』という連載小説です。・・・ 」
( p16~17 姉妹社 )
以上は、まり子さん。
以下には、洋子さん。
母が、妹・洋子の作文をひろい集め、
姉が菊池寛先生に持参することになります。
寛『いま、どこにいってるの?』
姉『ハ、東京女子大でございます』
寛『やめさせなさい、ボクが育ててあげる』
妹は、すぐ退学届けを出して、ご近所の先生宅にかよいだしました。
名もない女学生のために、西鶴『諸国ばなし』の講義をして下さる
・・・・任侠昭和一代男です。 」( p24 姉妹社 )
はい。『生来の無口』の妹が、晩年になって
長谷川洋子著「サザエさんの東京物語」(朝日出版社・2008年)
を書いておりました。
洋子さんが書いている同じ場面を引用。
「先生は作文に目を通して、
『女子大なんかに行くのはつまらないよ。
ボクが育ててあげるから連れて来なさい』
と言われ、時々ご自宅に呼ばれて
古典の解釈をしていただくことになった。
『ボクも大学にはほとんど行かないで図書館で毎日、
本ばかり読んでいたんだよ。大学で学んだこと
なんか何の役にも立たないよ』
『それに社会勉強が大事だ。
大学なんかやめてボクの社に来なさい』
と言われ、この一言で女子大をやめ、・・・」(p45)
この洋子さんに、肺浸潤の診断が下るのでした。
「・・・ご恩は今も忘れない。
にもかかわらず私の足はまた、重かった。・・・
途中で度々、眩暈(めまい)がしたり貧血を起こしたりして
電車を途中下車するようになった。
女子大に通っていた頃から微熱を出して母が心配していたが、
文芸春秋社に通いだしてからも治る様子がないので
病院に連れて行かれた。診断は『肺浸潤(はいしんじゅん)』
であった。肺浸潤といえば少しは聞こえはいいが結核の
兄弟分であることは確かで、当時、死亡率は大変高かった。
思わず涙がこぼれ落ちた。
豪放磊落な先生は
『なに、初期だから一年も静養していれば治るさ。
何も泣くほどのことじゃないよ』
と慰めてくださったが、
母には『十七、八という年頃が悪い。
大事にしないと進行が速いですからね』
と脅かされたそうだ。・・・・」 ( p47~48 )
思い浮かぶのは、この洋子さんの本のはじまりでした。
「長女・まり子、次女・町子の姉達二人の間にもう一人、
美恵子という姉がいたが、数え年七歳で亡くなった。
可愛い盛りだったので母は嘆き、悲しみのあまり
鬱状態になったそうだ。・・・・・・・
その翌年、私が生まれたので、両親は、
『美恵子の生まれ変わりだ』と大変喜んだらしい。」
さて、「肺浸潤」の箇所は『サザエさん うちあけ話』に
どのように書かれていたかを、最後に引用しておくことに。
「・・まもなく、ろくまくで、ねついてしまいました。
『洋子は いいこだから 早死にするかもしれない』と、
私に当てつけがましく、母が口ぐせのようにいっていましたので、
てっきり死ぬかと思い、毎日泣きのナミダでした。・・・」
( p25~26 姉妹社 )
ちなみに、朝ドラ「マー姉ちゃん」では
フランキー堺が扮する菊池寛で、何だか
その配役の妙で、笑えてしまうのでした。
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