和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

力微なりといえども我々の学問は。

2021-11-21 | 先達たち
「臼井吉見を編集長とする思想文芸誌『展望』が筑摩書房から
創刊されたのは、終戦の年もおしつまった12月25日である。」
(p80・「編集者三十年」野原一夫著)

その創刊号には、三木清の絶筆に、永井荷風に、柳田国男が
目次にならんでおりました。
永井荷風の『踊子』については、こうありました。

「承諾を得たのは20年2月で、そのなかの一篇が『踊子』だった。
発表されるあてもない小説の執筆に、この老文豪はいのちを燃やし
ていたのである。しかし、戦時下の日本でこの・・原稿が日の目を
みるはずはなかった。・・・それがかえって『展望』のためには
さいわいした。・・・・

臼井が唐木順三といっしょに柳田国男を訪ねたのは10月12日である。
・・尊敬の念を抱いていたこの民俗学の泰斗に、できれば原稿を書いて
もらいたいと臼井は考えていた。」(P85~86)

その『展望』という雑誌とは異なるのですが、
柳田国男著『先祖の話』という本があります。
ちなみに、柳田国男略年譜をみると

1945年(昭和20)70歳 戦死していった若人のために
『先祖の話』を執筆(翌年刊)

とあります。その『先祖の話』には自序があり、
自序の最後の日付はというと、昭和20年10月22日。

その自序のはじまりは、こうでした。

「ことし昭和20年の4月上旬に筆を起し、5月の終りまでに
これだけのものを書いてみたが、印刷の方にいろいろの支障があって、
今頃ようやく世の中へは出て行くことになった。

もちろん始めから戦後の読者を予期し、平和になってからの
利用を心掛けていたのではあるが、まさかこれほどまでに
社会の実情が、改まってしまおうとは思わなかった。

  ・・・・・・・・・・・・

強いて現実に眼をおおい、ないしは最初からこれを見くびってかかり、
ただ外国の事例などに準拠せんとしたのが、今までひとつとして
成功していないことも、また我々は体験しているのである。
 ・・・・・
力微なりといえども我々の学問は、こういう際にこそ出て
大いに働くべきで、空しき咏嘆をもってこの貴重なる過渡期を、
見送っていることはできないのである。

先祖の話というような平易な読み本が・・・・・
まず多数少壮の読書子の、今まで世の習いに引かれて
知識が一方に偏し、ついぞこういう題目に触れなかった人たちに、
新たなる興味が持たせたいのである。

・・・・事実の記述を目的としたこの一冊の書物が、
時々まわりくどくまたは理窟っぽくなっているのは、
必ずしも文章の拙なためばかりではない。
一つにはそれを平易に説き尽すことができるまでに、
安全な証拠がまだ出揃っておらぬ結果である。

このたびの超非常時局によって、国民の生活は
底の底から引っかきまわされた。日頃は見聞することもできぬような、
悲壮な痛烈な人間現象が、全国のもっとも静かな区域にも簇出している。
・・・・・」
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ペロッとした一枚の紙切れ。

2021-11-21 | 先達たち
「梅棹忠夫語る」(聞き手小山修三)日経プレミアシリーズ。
はい。新書でした。そこで
小山さんが、アメリカやイギリスの図書館の様子を指摘しておりました。

小山】・・・アーカイブズの扱いの巧みさというものを見てきました。
パンフレットとか片々たるノートだとか、そういうものも
きちっと集めていくんですよね。

梅棹】 アメリカの図書館はペロッとした一枚の紙切れが残っている。

小山】 その一枚の紙が、ある機関を創設しようとかっていう
大事な情報だったりするんですな。それがきちっと揃っている。

 少しカットして、その次に

梅棹】 ・・・ほんとにおどろくべき話やけれど、わたしが
始めるまで、自分の書いたものを残すべしという習慣がなかった。
発表したものが全部どこかへいってしまうんやな。

もう古い話やけど、わたしが還暦のときに自分の著作目録という
ものをこしらえて、それを桑原武夫先生のところへ持っていった。
そしたら桑原さんは、『こんなもんつくって、大迷惑だ』って
言いながら『場外大ホームランや』って。・・・・・・・・・

・・・桑原先生は
『みんな真似しよう思っても、もういまさらでけへんやろ』って。
ほんとに信じられない話だけど、みな自分が書いたものを残して
なかったわけです。

自分でやらなければ、だれも残してくれない。
わたしは中学校のときのものから残っている。
ガリ版やけど、中学校のときのもあります。・・・・(p80~82)


ここに『ガリ版』が登場しておりました。

川喜田二郎著作集別巻には
「ある小集団の発生――梅棹忠夫君との交友から」(p64~67)
がありました。この別巻にはまたこんな箇所があるのでした。

「1964年に愚著『パーティー学』で、
次いである仲間の集会で暫定的に『紙キレ法』と称して説明したら、
同席の友人梅棹忠夫さんが、私の用意したガリ版刷り資料の
一隅に自筆した『KJ法』という一語を指さし、『これにせよ』と
すすめてくれたのである。それに端を発し、
翌年1月にこの名を正式に定めた次第だった。・・・」(p252)

はい。ガリ版についてはこれまでにして、最後に、
川喜田二郎氏による梅棹忠夫について、引用しておくことに。

「梅棹君と私とは、お互いに対照的なほどちがっていた。
中学時代の登山では、彼はチームワークがうまく、私はへただった。
・・・梅棹君は文学青年で私は哲学青年だった。
彼は万事スッキリ好みなのに反し、私や後輩の川村俊蔵君などは
万事ゴツゴツと野暮ったかった。
彼は気分の高揚するときと落ちこむときとの波の上下が極端だった。
・・・・・・・・

しかしその彼が、国立民族学博物館の仕事にかかり出してからは、
高揚したレベルのまま安定しているようである。
それに、時おり話しあっていると、ずいぶん人間的成長が感じられる。

やはり人間は誰しも、自分が真剣に取り組んでいる仕事を通じて
成長するものだと思わずにはいられない。・・・」(別巻・p66)
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