堀田善衛著「故園風来抄」(集英社・1999年)に、
「源氏物語について」という6ページほどの文があります。
はい。源氏物語は読まなくっても、
この堀田善衛の解説は忘れがたい。
「この物語は実に多くの驚くべき挿話を用意しているものであった。
その驚きは、まず物語開始早々の、その冒頭の、桐壺の巻にすでに
置かれていた。・・・・」(p81)
はい。『驚き』のまえに、まずはここから引用。
「・・・部分原文、部分現代語訳との混合の形にせざるを
えなかったことを、御諒承頂きたい。
御局(みつぼね)は桐壺なり。あまたのお妃たちの御殿を
帝が素通りなさって、ひっきりなしのお通りに、お妃たちが
気をもまれえるのも、げにことわりと見えたり。
更衣が参上なさるにつけても、あまり回数がかさなる時には、
打橋、渡殿のここかしこの道に、あやしきわざをしつつ、
御送り迎への人の衣の裾、堪へがたく、まさなきこともあり。
またある時には・・・・。
ここで『あやしきわざをしつつ』というくだりは、
敢て現代語訳にはしなかったのであったが、
これは、けしからぬこと、というほどの意であり、
これにつづく文章と読みあわせると、これは
建物と建物をつなぐ板の橋や屋根つきの廊下などに、
汚物、つまりは糞尿を撒き散らかして、
桐壺更衣が帝のもとに通うのを妨害した、
というのであるから、誰にしても驚き、
かつ呆れざるをえない。
この当時は女御や更衣は大小便を箱にとっていたので、
召使たちもこのくらいのことはたやすく出来た筈である。」
はい。もう少しつづけて引用しておきましょう。
「その筈ではたしかにあるのではあったけれども、
物語の開巻早々に巻き散らされた糞便に迎えられようとは、
何にしても驚きモモの木であった。・・・・・
『あやしきわざ』などのディテールのことはこのくらいにしたいが、
作者はやはりこの大作において、大作なればこそ、ディテールに
実に細心の注意を払っているのであった。
・・・・・・・
また、藤壺の気立てのよかったさまを語るについて・・・・
宮廷や貴族一般の経済のディテールにまで筆が及んでいるのであり、
この頃の物語において、彼等の経済基盤にまで言及したものは、
紫式部をおいては他に例を見ないのではなかろうか。・・・・
要するに官の補任や叙爵などがある毎に、
帝から給料が払われるのではなく、逆に宮廷へと
逆流して吸い上げる形になっていたもののようで、
まことに都合のいい仕掛けになっていたと見えるのである。
紫式部の目は、こういう宮廷経済の仕組みなどにも
たしかに届いていて、それはもう驚くというよりも、
当方の目がまるくなるほどのものであった。・・・」(~p85)
このようにして、堀田氏は、さまざまな日本の古典を
短く紹介してゆくのですが、この本の最後『一言芳談抄』が
未完で終っており、次のページの編集部による説明には
「『一言芳談抄』は、1998年5月20日に執筆されたが、
著者の病いのため未完のまま最後の文章となった。」
とあるのでした。