上のような鎌倉の波打ち際で考えました。昨日、考えました。今年の希望や抱負です。明るい希望や人々を幸せにするための抱負です。
この1月18日で満76才になります。生きているだけで丸もうけです。ですから周囲の全ての人々へ感謝しています。ご縁があって、このブログを読んで下さる方々へ感謝しています。
そうです。今年の抱負は「感謝」です。ただ心の中で感謝するだけでなく、周りの人々へ「有難う」と明るい声で言うことが今年の抱負です。
明るい希望は今年一年健康でいられるようにという希望です。幸い現在は体が爽快です。これがせめてこの一年続くことを希望しています。
私とご縁がある全ての人々が健康で、幸多い一年を過ごすことを希望します。そのように祈っています。
ご縁があると書けば、無縁という言葉を連想します。そうすると世界中の人々の多くは無縁な人々です。
しかし私にはそのようには思えません。上の写真のような波打ち際は世界中のあちこちにあります。無数にあります。その傍を歩きながら自分のこと、周囲の人々のこと、そしてこの碧い地球のことを考えている人々がいる筈です。その人々は全て鎌倉の海辺にいる私と縁が繋がっているのです。
はっきり言えば有縁と無縁の間には境界が無いのです。
そうは言っても、「縁」には濃淡があると思います。男性にとっては妻や母親との縁は深いものです。良い妻や母親を持った男性は幸運です。神の与えた幸運です。しかしその幸運には必ず終わりがあります。
一方、悪い妻や母は考えようによっては良くなるかも知れません。感謝の気持ちを持ては良く見えるのです。そうでなかったら、あなたの感謝の気持ちが足りないのです。ですから悪い妻や悪い母を持っても嘆く必要はありません。
下に私の老妻が凄い勢いで走っている写真を2枚示します。長いスカートとブーツを履いているので、よもや走ることはあるまいと思っていたら急に駆けだしたのに呆れました。
彼女は良く書けば、聡明で、優しい女性です。悪く書けば欠点も多くあります。
しかし欠点は書きません、書けば夫婦喧嘩になります。書けばそれが真実になってしまいます。ですから欠点は見ないで、忘れて、無視します。
老境にいたると、それが出来るのです。悠々自適とはそのような状態も含みます。
・遠方にいたと思ったら急に傍を走り抜けます。
広い所へ行くと家内は途端に走り回ります。これを欠点と見るか長所と見るかは私の考え方一つです。かつては自分が走るだけでなく私に走ることを強要しました。そこがいけません。私は自慢じゃありませんが幼少の頃から走ることが大嫌いなのです。
強要されてもニッコリ笑って何も言いません。言えば喧嘩になるだけですから。
しかし老妻が走ることは考えようによって良い事です。元気な証拠です。健康な証拠です。
このように全ての物事の良い側面だけを考える。そして全ての人々へ感謝する。
これが私の今年一年の抱負です。そして健康に毎日を静かに過ごせることを希望しています。
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)