後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ひまわりArtboxの「2012絵画展」へ行ってきました

2012年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム

今年も9月7日(金)から10日(月)まで ひまわりArtboxの、「2012絵画展」が八王子駅北口の八王子東急スクエアビル学園都市センターの11階ギャラリーで開催されていました。毎年、大学時代の同級生のTSさんが作品を出展しています。

今日は最終日でしたが家内と一緒に八王子の絵画展へ行ってきました。

ここ2、3年、TSさんは肖像画に精魂を込めていましたが、今年の肖像画は今までで一番上手に描いてありました。それにしても肖像画は難しいものです。

他に出展した2枚の風景画も見事な出来あがりでした。静かな池のたたずまいが見ている人の心を静かにさせてくれます。

TSさんの描写技術は年々上達しています。

このグループの指導者は稲恭子さんという方で、今年は精選したレベルの高い絵画が展示されていました。

展覧会場をゆっくり歩きながら丁寧に仕上げた絵画を一枚一枚楽しんで来ました。すべて自然な美しさをオーソドクスに描いていますので、見て心地良いものばかりです。不快な絵は一枚もありません。

そ言えば4年前のこの絵画展に同級生のHNさんと2人で来て、TSさんの出品作を数点ゆずって頂いたことを思い出しました。

そのHNさんも丁度昨年の昨日、急病で亡くなりました。そんなことを思い出しながら展覧会を見て参りました。

その時譲って頂いた会津の桧原湖の風景画はいまでも私どもの食堂に飾ってあります。

会場は例年通り、八王子駅前の八王子東急スクエアビル11階のギャラリーでした。

下にTSさんの今年の3点の作品の写真を示します。

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====そして以下は昨年の同じ絵画展の出品作です=========

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====そして2010年9月の出品作品です=======

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=====そして、「楽画樹ぐるーぷArt box ひまわり 」2008 絵画展の写真 =====

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中学三年生の娘を亡くした母の悲しく、美しい文章(2)「告知」

2012年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム

先日の私の記事、へコメントを下さった「みずのおもて」さんの『カイロス・みずのおもて』というブログを拝見致しました。

19年前に中学3年生の娘を白血球ガンで突然亡くした母の悲しみが美しい文章でつづったブログです。URLはhttp://84815811.at.webry.info/でございます。
思わず姿勢を正して読んでしまいました。感動しました。
「みずのおもて」さんへメールを送り、その美しい文章の一部を5回の連載記事としてこちらのブログに掲載することをお許し頂きました。そして亡くなった頼子さんのお写真を掲載するように昨日送って下さいました。
こんな悲しい記事を掲載しようとしている私は一体何をしようとしているのでしょうか?
はじめは病気で子供を亡くした多くの方々を慰めたいという気持ちもありました。しかし丁寧に読み進んで行くと中学3年生で亡くなった頼子さんの供養をしたいと少しずつ心のありかたが変わって行きました。
連載を5回しますと予告しながら、連載の間が長いのは深く考えるようになったからです。
今日の「告知」という文章は私が抜粋した文章です。サラリと読めるように省略した部分がかなりあります。しかし原文もお読み頂くのも良いと思います。
3 写真を掲載するのを随分ためらいましたが、「みずのおもて」さんが是非とメールを下さいましたので左に掲載します。亡くなる3年前の中学1年生の時の写真です。
どうぞ頼子さんのご冥福をお祈りしてあげて下さい。
イエスさまの御慈しみが若くして旅立った娘さんと遺された家族の上に豊かにありますように祈りつつ、5回の連載記事を謹んでお送り致します。
====「みずのおもて」さんのブログ「カイロス・みずのおもてから転載=====(http://84815811.at.webry.info/201207/article_3.html
ブログ紹介
思いがけなく二つのブログの開設という運びになって、
ここウェブリブログさんには、
娘の闘病の様子を記させていただくことと致しました。

娘は若くして亡くなりましたがその人生は、ただ悲しみだけに終わったというわけではありません。
輝いた生涯だったと思います。

それから長い年月が経ちましたが、そんな娘のことをお話してみたいと思います。

このブログのハンドルネーム『水のおもて』は

みずのたたえの ふかければ、
おもてにさわぐ なみもなし
ひとのなげきの つよければ
いよゝおもてぞ しずかなる


という、詩人高橋元吉の、『無題』という詩からつけました.。
どうぞよろしくお願い致します。
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頼子は私たち夫婦の第二子として1979年1月に生まれ、1993年8月、中学三年生の時、急性骨髄性白血病のためその生涯を閉じました。

病名が分かったのは、中学二年の冬でしたが、発病当初より厳しい状態であることを医師から告げられていました。

その後、一度として寛解に入ることができなかった七か月に渡る闘病期間中、自分を見失って自暴自棄になることも、周囲を困らせるようなわがままを言うこともなく、自らのおかれた状況を受け入れていました。
皆に愛され、自分も周りの人に愛といたわりを示した生涯でした。

=====中略================
告知 ( 作成日時 : 2012/08/18 03:06 )

看護師長さんの説明を受けて部屋に戻ってみると、頼子は点滴の管を胸に差し込まれて泣きはらした顔をしていました。

ベッドの枕元のプレートには名前の上には早くも【血液科】の文字があります。
血液科、頼子はこの文字ですべてを悟ってしまうだろう、その文字を頼子の目にふれさせないで済む方法はないかととっさに考えました。
こんな大変な思いをした今はまだ知らせたくない、少しゆっくりさせてやりたい、そう思ったのです。
そしてもう少し落ちついてから話そうと覚悟を決めました。

それから間もなくして数名のお医者さんと大勢の看護師さんたちが部屋に入ってきて、ベッドの周りを取り囲みました。主治医の先生がご自分の名前を名乗られてから傍の椅子に掛けて言われました。
「頼子ちゃん、頼子ちゃんは自分の病気、何かなって思う?」
「首のところが腫れていたから甲状腺かなって思ったんだけど、ここに来たところをみると、違う病気かなって思います」
「白血病なんだよ」と、これが告知の瞬間でした。
私は非常なショックを受けましたが「骨髄性ですか」という頼子の言葉にさらに驚かされました。
周囲にどよめきが上がる中で、
「そうだよ、よく知ってるね」と先生が言われました。
やや経ってから「治りますか」と頼子が聞きました。
ああこの言葉、さっき看護師長さんから明確に聞けなかった返事を私も聞きたい、そう思って先生の言葉を待ちました。
先生はやはり病気が治るとはおっしゃらない、ただ一生懸命治療するからあなたも頑張って、と言われるだけです。
以前テレビで子どもへの病名告知について、医療関係者が話し合っていたのを聞いたことがあります。
がん告知を受けた子どもは、その時は一時的にショックを受けても、やがてその病気を受け入れ前向きに生きていく、といった意見が出され、番組の結論は概ねその方に傾いていったような気がします。
でも私はこれは乱暴な意見だと思いました。
頼子の病名告知の瞬間に立ち会った多くの医師や看護師さんたちも、主治医の先生と頼子のやり取りを見て、(こんなふうに受け入れられるのだ)と思ったでしょうか。
患者が自らの状況を受け入れ、前向きに生きていくまでには十分な心のケアとそれなりの時間が必要です。これは家族にとっても同じです。
しかしいかに受け入れがたい状況であろうと、受け入れなければならない現実は迫っています。
私は子どもの発病から七カ月に渡る闘病、そして死という現実に親として向き合わなければならなくなったとき、子どもが生きるための希望も死を念頭におかなければならないということも、ともに両輪で進めていかなければならないと思いました。
しかし私がそうした気持ちになれたのは最終段階に入ってからで、初めのころは毎日ただ泣いているばかりの母親でした。

この日、会社から病院にかけつけた夫に頼子を託して自宅に戻る時、家々の窓にともされた灯りを見ました。
あの時車中から見た灯りのことは忘れられません。
ありふれた人々の暮らしがあの灯りの下にあるのだと思いました。
一日の営みを終えて、家族はあの灯りの下に集い安らいでいる、絶え間ない笑いや喜び、あるいはちょっとした憂いに心を曇らせたりして、人はおおむね幸福に暮らしているのだと。
そして今はもう何もかもが変わってしまった自分たち家族のことを思いました。
頼子の未来への夢が音を立てて崩れたと感じたこの時期は、全、闘病期間の中で、最も苦しい時でした。私は子どもが死ぬにしても生きるにしても、これと運命を共にしようと思っていました。(続く)