後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

水辺の風景(3)遥かによこたわる屈斜路湖

2012年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム

今回の北海道旅行は屈斜路湖の近くの川湯温泉に3連泊しましたのでこの湖には毎日車で行っていました。

地図で見ると川湯から近いようですが、車で原生林の中の道を延々と行かなければ湖岸に出られません。

湖水の周りは原生林が取り囲んでいるので、観光客の入れる場所は和琴半島と、コタンアイヌ民俗資料館のある場所と、砂湯という場所しかありません。その湖岸に出るのに根気よく原生林の中の道を行かねねばなりません。

湖岸に出ると屈斜路湖が静かに青い水を湛え、はるか沖に中島が横たわっています。

そして網走方面へ抜ける道の美幌峠に上ると頂上に「パノラマ展望台」があり、眼下に碧く輝く屈斜路湖の全景を楽しむことが出来ます。

下にそのような写真をお送り致します。お楽しみ下さい。

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上が美幌峠頂上の「パノラマ展望台」から見た風景です。

下は屈斜路コタンアイヌ民俗資料館の近くにある湖岸に湧きだしている露天風呂です。

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上の露天風呂の対岸を見た景色が下の写真です。

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下は美幌峠の白樺の林です。何故か美しいと思いつい撮ってしまいました。

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このような静かな屈斜路湖も初冬になると数千羽の白鳥がシベリアより飛来して急に賑やかになります。白鳥の鳴き声は意外に大きいのです。下の写真は自分が撮ったものでなくお借りした写真です。

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白鳥の写真の出典:http://murauchi.info/hokkaido66.jpg

======屈斜路湖に関する参考資料です==============

藻琴山、サマッカリヌプリなどを外輪山とする屈斜路カルデラ内にできた、日本最大のカルデラ湖(屈斜路カルデラも長径約26km、短径約20kmの日本最大のカルデラである)。日本の湖沼では6番目の面積規模を有する。周囲から小河川が流入し、南端から釧路川として流れ出す。

湖中央部には、日本最大の湖中島である中島(火砕丘、面積5.7km?、周囲12km)が浮かぶ。中島はそれ自体二重式火山であり、中央の溶岩円頂丘に最高点(355m)がある。

南岸には和琴半島が突出する。中島と同様、火山の山頂が湖中島になったものであったが、尾札部川の扇状地から成長した砂州により陸繋島となった。

江戸時代の探検書・古地図には「クスリ・トー」(アイヌ語で温泉、薬の湖の意)と書かれていたが、その後、釧路川源流付近にあったコタン名「クッチャロ」(喉・口、湖からの流出部の意)から現在の「屈斜路湖」となった。

詳細は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%BF%E3%83%B3%E6%B8%A9%E6%B3%89 をご覧ください。

屈斜路コタンアイヌ民俗資料館については:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%9F%E5%AD%90%E5%B1%88%E7%94%BA%E5%B1%88%E6%96%9C%E8%B7%AF%E3%82%B3%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E6%B0%91%E4%BF%97%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8 をご覧下さい。


武田一族興亡の地をめぐる旅(完結編)武田勝頼の敗北、武田家の断絶

2012年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム

武田信玄は徳川家康や織田信長と覇を競う大型戦国大名でした。しかし、1573年上洛の途中で病没し、勝頼が家督を継ぎ、武田家20代目になりました。

しかし、徳川・織田連合軍は、信玄の死で勢いつき、甲州攻撃を本格的に始めたのです。それに加えて勝頼は人望がなく戦いの戦略も稚拙でした。その結果信玄時代の有力な武将がつぎつぎと敵方へ寝返って行ったのです。天正10年、1582年には徳川・織田連合軍が甲州に攻め込み、勝頼は敗走します。甲府盆地から逃げ出し天目山を越えて大月の岩殿城の小山田信茂を頼って落ち延びようとしますが、小山田氏の謀反によって天目山を越えられずその麓で追手に追いつかれ惨殺されたのです。次から次へと部下の武将の謀反にあい失意のうちに悲しい最後を遂げたのです。武田家450年の歴史の終焉でした。享年37歳でした。そのお墓は天目山の麓の景徳院という山寺にあります。侘びしい粗末な墓石です。しかし悲しい最期を遂げた勝頼を哀れんで近所の人々が花を絶やさないそうです。2010年9月28日に撮った写真を示します。写真の下にはWikipedeaの「武田勝頼」の項目の一部を参考資料として付け加えておきます。勝頼の悲しい運命が書いてあります。(この記事をもって、「武田一族興亡の地をめぐる旅」シリーズを終了致します。有難う御座いました。)

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====武田家滅亡のいきさつ・・・Wikipedeaの武田勝頼から抜粋=====

天正9年(1581年)、徳川軍の攻撃によって高天神城は窮地に陥るが(高天神城の戦い)、もはや勝頼には後詰することが出来なかった。高天神城落城は武田家の威信を大きく下げることとなり、国人衆は大きく動揺した。これを境に織田・徳川からの調略が激しくなり、日頃から不仲な一門衆や日和見の国人の造反も始まることになる。

勝頼は、近い将来攻め込んでくるであろう織田・徳川連合軍への備えのため、躑躅ヶ崎館より強固な韮崎の地に新府城を築城して防備を固めるとともに、武田軍団の再編成を目指した。しかし、そのために膨大な軍資金を支配下の国人衆に課すことになり、皮肉にも却って国人衆の造反を招く結果となった。なお国人衆の反発は勝頼の中央集権化を目指した政策に原因があるとする意見もある。

天正10年(1582年)2月には、信玄の娘婿で外戚の木曾義昌が新府城築城のための負担増大への不満から織田信長に寝返る。勝頼は外戚の義昌の反逆に激怒し、即座に木曾討伐の軍勢を送り出した。しかし雪に阻まれ進軍は困難を極め、地理に詳しい木曽軍に翻弄された。その間に織田信忠が伊奈方面から、金森長近が飛騨国から、徳川家康が駿河国から、北条氏直が関東及び伊豆国から武田領に侵攻してくる(武田征伐)。

これに対して武田軍では組織的な抵抗ができなかった。勝頼の叔父・信廉は在城する対織田・徳川防戦の要であった大島城を捨て甲斐に敗走し、信濃伊那城においては織田軍が迫ってくると城主・下条信氏が家老によって追放され、織田軍を自ら迎え入れてしまった。信濃松尾城主の小笠原信嶺、駿河田中城の依田信蕃らも織田・徳川連合軍の侵攻を前に戦わずして降伏する。さらに武田一族の重鎮である穴山信君までも勝頼を見限り、徳川家康を介して織田信長に服属を誓った。これにより武田氏に属する国人衆は大きく動揺する。

この情報に接した武田軍の将兵は人間不信を起こし、疑心暗鬼に苛まれた将兵は勝頼を見捨て、隙を見ては次々と逃げ出したのである。唯一、抵抗らしい抵抗を見せたのは勝頼の弟である仁科盛信が籠城する高遠城だけであった。また母の実家である諏訪家の一門諏訪頼豊は「勝頼から冷遇されていた」と言われているにも関わらず、武田征伐に乗じて諏訪家再興をしようとする家臣の意見を聞かずに鳥居峠の戦いで戦死している。

同年3月、勝頼は未完成の新府城に放火して逃亡した。甲斐国の有力国人で一門衆の小山田信茂と、信濃国人である真田昌幸が、勝頼を受け入れることを表明した。勝頼が選んだのは武田家の本領である甲斐国人・小山田信茂の居城である岩殿城であった(注:小山田氏の居城は谷村城で、岩殿城は小山田領内の武田家直轄の城であるという説もある)。しかし、信茂は織田信長に投降することに方針を変換し、勝頼は進路をふさがれた。後方からは滝川一益の追手に追われ、逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指した。

しかし、その途上の田野でついに追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害した(天目山の戦い)。享年37。これによって、450年の歴史を誇る名門・甲斐武田氏は滅亡。勝頼父子の首級は京都に送られ一条大路の辻で梟首された。

後に徳川家康により菩提寺として景徳院が建てられ、信勝や北条夫人と共に菩提が祭られている。

江戸以降に再興する武田家は勝頼の兄で盲目のため出家していた次兄・海野信親(竜宝)の系譜である。(完結)


武田一族興亡の地をめぐる旅(5)信玄が長野から持ってきた善光寺

2012年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム

武田信玄は長野を占領するとすぐにその善光寺を甲府へ持ち帰ったのです。

お寺を武力で持ちかえるのは感心しませんが、戦国時代はそんな時代だったのです。

それにしても善光寺には面白い歴史があるので、簡略に書いてみます。

今から1400年ほど前、現在の飯田市郊外(信州麻績の里)に本多善光(よしみつ)さんという人が住んでいました。 ある時、善光さんが都へ帰る国司について難波へ行ったそうです。ところが難波の堀の中から一光三尊の像を見つけました。それを拾い上げ、飯田へ持ち帰ったのです。 自宅の臼の上に像を祀り、拝んでいたところ、台座の臼が光り輝きます。それで座光寺(善光寺)を作ったという伝説が残っています。推古天皇10年(603年)の事です。 

それから41年ほどして皇極天皇元年(644年)に勅命によりご本尊を長野へ移し、現在の長野、善光寺が出来ました。 

移転した善光寺のあとには以前のご本尊と同じ形の木像をつくり、座光寺を存続させました。そのような経緯から、座光寺は元善光寺とも呼ばれるようになったのです。長野へ引っ越したご本尊は毎月15日には飯田の元善光寺へ帰り、麻績の里人を守ると現在でも信じられています。 

さて現在、甲府市にも立派な本堂を誇る3つ目の善光寺があります。この三つ目の善光寺は長野の善光寺が出来てから、約900年位後に武田信玄が長野を攻略、占領したときに権力を用いて善光寺をご本尊とともに甲府に持ってきたものです。武田家の滅亡後、ご本尊や数々の寺宝は長野の善光寺へ返しました。 

ご本尊は返しましたが、甲府の善光寺も現在に至るまで立派に存続しています。

三つの寺とも善光さんの木像が安置されていますが、珍しく思ったのはどれにも夫人の像が同じ大きさで並べられていることです。 善光寺は仏教のどの宗派にも属せず、人々の信仰だけで存続してきたのです。そのような経緯で出来た甲府の善光寺の写真を示します。2010年9月28日に撮影しました。(続く)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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