こういう事実は学校教育では教えません。私は信玄が地方の小さな領主達237人に無理やり書かせた忠誠を誓う文書(起請文)の中の83通の実物を見た時の驚きが忘れられません。数年前に上田から別所温泉へ向かう途中にある生島足島神社で展示、公開しているものを見ました。起請文の文章が稚拙です。[信玄の悪口を言いません。][命令通り戦に参加します。]などなど余りにも具体的なことが細々と下手な字で書いてあります。
書いた人は群馬県、長野県、山梨県の小さな在地領主達です。国人とか国衆と呼ばれる支配階級で平安末期から鎌倉時代にかけて全国に雨後の竹の子のように増え、農民を支配した武将です。小規模ながら武力集団を持っていて、大きな戦国大名へ適当に服従し合戦で手柄を上げ、褒美の領地を少し貰うのです。負けそうな戦国大名に従うと悲劇に見舞われます。ですから信玄へ賭けるのも必死です。起請文のせつせつとした文章が痛々しく感じました。
こうして集めた国衆領主とその部下達を引き連れて信玄は川中島で数度にわたって上杉謙信と戦ったのです。雌雄が決まらないのも国衆の逃げ腰の戦いぶりによるようです。起請文を無理に書かせた武田信玄の弱味が伺えて興味深いものでした。
下に関連の写真と参考資料を示します。
生島足島神社:http://www.ikushimatarushima.jp/
今から400年以前の古文書が、風化されることなく当神社に保存されてきたことは、不思議でなりません。川中島での決戦を前に武田信玄が必勝を祈った「願文」や家臣団に忠誠を誓わせた「起請文」、また、真田昌幸、信幸父子の「朱印状」など数多くの文書が残っています。
天文22年(1553年)、東信濃を攻略した武田信玄はまず当神社に社領安堵状を捧げ、さらに永禄2年(1559年)再び当神社に願文を捧げ、越後の雄・上杉謙信との戦いに勝利するよう祈願しました。この2年後に川中島の大合戦が行なわれています。
信玄は信濃の大半を勢力下に置いた永禄9年・10年(1566年~1567年)に信濃はもちろん、甲斐や上野の武将達を当神社に集め、神前で忠誠を誓わせました。そのときの誓いの文書(起請文)が当神社に83通残されており、国の重要文化財に指定されています。境内の歌舞伎舞台(県宝)で展示公開しています。
武田信豊起請文 :
武田信玄が支配下の諸将を当神社に集め、改めて忠誠を誓わせた起請文を差し出させた背景には、長子義信との不和が生じたことにより統制の強化を計る必要があったためと思われます。文書は熊野神社の牛王宝印(ごおうほういん、からすの図柄)の護符に書かれ、文書はいずれも忠誠を誓っている前書きと誓いを破った場合には神仏の罰を被るべき神文とからなっており、各署名下に花押と血判を押したものが多くみられます。起請文差し出しの武将は東・中・南信濃、甲斐上野(現在の群馬県)の237名にもおよんでいます。
国人、国衆:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BA%BA
国人は、平安時代中期に成立した後期王朝国家体制の下で荘園と公領の管理者となった荘官・郡司・郷司・保司の階層や、そこに出自することの多かった鎌倉時代以降の地頭の系譜を引く在国の領主の一般的呼称で、同時代的に使われた資料用語である。幕府や守護、荘園領主など外部の支配層に対抗する在地勢力の意味で使われ、独自の領域支配をめざした。
「国人」という呼称は、「在地に居住した惣領を中心に独自の勢力を持つ武士」を指す言葉として、鎌倉時代から散見される。彼らの直接の源流は鎌倉時代の地頭職の武士にあり、そうした武士たちが土着し、在地領主となったものである。鎌倉時代には、支配層に反抗する者の意味を含む「悪党」という名で呼ばれることもあった。
・ (オバマ大統領と奥さんや家族のの写真の出典は、http://www.jiji.com/jc/d2p=pus00301&d=004socです。) 最近のアメリカのテレビ報道や映画を見ていると、アメリカ社会は黒人差別を克服したと思います。 それは1960年にアメリカへ留学した時に見たすさまじい黒人差別の様子を思いだすと感慨無量です。 1960年からオハイオ州の州都コロンバス市に住んでいました。 当時はバスに乗ると、白人は前半分の席、黒人は仕切りの後ろと決まっていました。私は遠慮して黒人の席に座ると、白人男性が寄って来て、君は前半分に座れと言うのです。それ以来、白人席の末席に座るようにしたものです。 コロンバス市の南半分は黒人街、北半分は白人が住む場所と厳格に分かれていました。白人街にある映画館やレストランは白人専用で、黒人はよほどのことがない限り立ち入り禁止です。 オハイオ州立大学には黒人学生が少しいましたが、その数は圧倒的に少ないのです。教授は皆白人でです。実験室の掃除人はメキシコ人で、黒人は出来なかったのです。 初めのころは差別に心が痛み暗い気持ちになりました。しかし、少し経つと慣れてしまい、当然と思うようになります。 日本の芝居ではよく黒子が出入りしますが、だれも気にしません。黒人をこの黒子と思えば黒人が見えなくなるのです。 この秩序は慣れてしまうと実に快適なものです。 ある時、アパート代の安い黒人街へ引っ越そうとしました。 その時、大学の白人学生に相談したら、ものすごい勢いで反対されました。 黒人は親切だが、貧しい親戚がしょっちゅう君のアパートに来て食べ物をねだる。勉強なんかできないと言うのです。反対の理由はそれだけでないようです。黒人差別の秩序が壊れるのが強い反対の理由なのです。 アメリカは自由と平等の国と言いますが、50年前には凄い黒人差別が厳然としてあったのです。 その後、キング牧師などによる黒人差別撤廃の長い努力がありました。 1990年前後にもコロンバス市に二年間住みました。バスの白人席と黒人席はなくなり、皆一緒に座っています。オハイオ州立大学も黒人学生が半分くらいになっています。周辺のレストランの客席には区別はなく、混じって坐っています。 色々聞くと、どの会社も黒人を一定割合以上採用しなければならない法律があるそうです。 テレビ・マスコミも黒人差別撤廃のキャンペーンを繰り返します。 白人だけの高級住宅地区へ黒人も混じって住んでいます。黒人市長があちこちで現れていました。 そして黒人女性のライス国務長官の活躍の後、オバマ氏が大統領になったのです。 間もなく4年間の任期も無事終えて、また4年間大統領になるための選挙運動をしています。 私は個人的にアメリカ社会の厳しい黒人差別の実態を知っているだけに次期大統領はまたオバマ氏が当選するように願っています。祈っています。 それがアメリカ白人の罪滅ぼしになるからです。白人も肩の重荷を降ろせるのですから。 ================================ それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。 後藤和弘(藤山杜人) |