後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

追憶を誘うコスモスの花

2012年09月20日 | 写真

コスモスの花を見ると何故か昔の事があれやこれやと思い出させてくれます。私はコスモスの花を「追憶の花」と心の中で呼んでいます。

3年前の9月19日に、車で40分程の立川基地跡に出来た昭和記念公園へ行きました。家内と自転車を借りて3時間ほどサイクリングしました。コスモス祭りで、丁度満開でした。家内が撮った写真なので上手ではありませんが、お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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武田一族興亡の地をめぐる旅(4)信虎、信玄、勝頼、3代が住んだ躑躅ケ崎館跡

2012年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム

信玄の父、信虎は周囲の国衆・領主と同盟を結び平和的に勢力拡大策をとっていました。信玄はこれに反対し、周囲の諸領主と戦い、実力で領土を拡大する戦いを始めるべきと激しく主張したのです。父子の論争のはてに、信玄は父を駿河へ追放しました。1542年のことでした。

自分が武田家の統領になり、突然周囲の領主を次々と抹殺していったのです。良く言えば勇猛果敢とも言えますが、血に飢えた戦国武将そのものでした。その闘争心は抜群であり、諏訪氏も高遠氏も信濃の緒領主も皆なぎ倒されてしまったのです。

戦いは信玄が1573年に死ぬまで31年間続きました。

最終的に敵対出来たのは上杉謙信、織田信長、徳川家康だけになったのです。その詳しい合戦の経緯は下に付けた参考資料にあります。

武田信虎、晴信(信玄)、勝頼の三代が住んだ躑躅ケ崎館の跡地は、現在、武田神社になっています。当時を偲ぶものは館を囲んでいた掘だけです。下にその掘の写真を示します。

躑躅ケ崎館からまっすぐ甲府駅へ向かって、少し坂になった大通りが下っています。その左右が碁盤の目のようになっていて家臣たちが住んだ屋敷町でした。山梨大学もこの大通りを挟んで左右にキャンパスが広がっています。商人町はもっと坂を下ったところにあったようです。坂道の東側には信玄の墓所のある大泉寺や円光寺があります。信玄は甲府の英雄です。甲府駅の南口には巨大な銅像もあります。

当時の甲府の町々の賑わいを偲びながら館跡の掘りのほとりを散策して来ました。館の建物は一切消えて無くなっています。文字通り、つわものどもの夢の跡です。

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武田信玄:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84

諏訪領、高遠領への侵入と信濃国の緒領主の平定(Wikipedea より)

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信虎期の武田氏は敵対している勢力は相模後北条氏のみで、駿河国今川氏、上野国山内上杉氏扇谷上杉氏、信濃諏訪氏と同盟関係を持ち信虎末期には信濃佐久郡・小県郡への出兵を行っていたが、晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行う

天文11年(15426月に晴信は諏訪氏庶流である高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、頼重を甲府へ連行して自害に追い込み諏訪領を制圧している。諏訪領においては同年9月には高遠頼継が武田方に対して挙兵しているが、武田方はこれを撃破して諏訪領を掌握する。

武田方はさらに天文12年(1543)には信濃国長窪城主である大井貞隆を攻めて自害に追い込んだ。天文14年(15454月、上伊奈郡高遠城に侵攻し、高遠頼継を、続いて6月には福与城主である藤沢頼親も滅ぼした。天文13年(1544年)には後北条氏と和睦し、今川氏と後北条氏の対立(河東一乱)を仲裁し、甲駿相三国同盟の締結に至る。

三国同盟を背景とした武田方は信濃侵攻を本格化させ、信濃守護小笠原氏、小県領主村上氏らと敵対する。天文16年(1547)には関東管領勢に支援された志賀城笠原清繁を攻め、同年8月6小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝する。また、領国支配においても同年には分国法である甲州法度之次第(信玄家法)を定めている。

天文17年(15482月、晴信は信濃国北部に勢力を誇る葛尾城主・村上義清と上田原で激突する(上田原の戦い)。上田原合戦において武田軍は村上軍に敗れ、宿老の板垣信方・甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負い甲府の湯村温泉30日間の湯治をしたという。この機に乗じて同年4月、小笠原長時が諏訪に侵攻して来るが、晴信は7月の塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)で小笠原軍を撃破した。

天文19年(15507月、晴信は小笠原領に侵攻する。これに対して小笠原長時にはすでに抵抗する力は無く、林城を放棄して村上義清のもとへ逃走した。こうして、中信は武田の支配下に落ちた。

勢いに乗った晴信は同年9月、村上義清の支城である砥石城を攻める。しかし、この戦いで武田軍は後世に砥石崩れと伝えられる大敗を喫した。

しかし天文20年(15514月、真田幸隆(幸綱)の策略で砥石城が落城すると、武田軍は次第に優勢となり、天文22年(15534月、村上義清は葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れた。こうして東信も武田家の支配下に入り、晴信は北信を除き信濃をほぼ平定した。


アメリカ社会はベトナム戦争で大きく変貌した・・・そしていろいろな事

2012年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム

@べトナム戦争以前は、アメリカ人の礼儀正しさに圧倒されたのです。

年老いて考えることは少年の頃のこと。昭和20年7月、住んでいた仙台が一夜にして焼け野原になったこと。終戦、米軍の占領、戦後の荒廃した社会のことなど。そしてアメリカ留学をしました。1960年になってからです。

1960年当時のオハイオ州では、路上でアメリカ人に会うと、彼等は必ず微笑みかけて、「ハーイ!」と声を掛けてくれたものす。

老若男女関係なく皆あいさつしてくれ、歩みを少しゆっくりさせ、道を空けてくれたのです。

荷物を持っていると重そうだから家まで車で送って行くと声をかけてくれます。戦後の荒廃した日本から行くと、突然、別世界へ飛び込んだような印象を受けました。それですっかりアメリカが大好きになってしまいました。

@ベトナム戦争後、アメリカの自信と陽気さが完全に消える。

第二次大戦で勝利を収めたアメリカは、朝鮮戦争、中南米出兵、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争と大型戦争をおこなってきました。

この中で完全に敗北し、悲劇的退却をしたのはベトナム戦争だけです。

この戦争は1966年からほぼ10年続き、アメリカ軍人の死者55000人とその数倍の戦傷者を出したのです。

この戦争は、アメリカ社会の大きな分裂と自信喪失をもたらしたのです。

ベトナムで負けたあとのアメリカは意気消沈します。かつての闊達な態度や自信がすっかり無くなりました。

1976年以後のアメリカでは、路上の人々は皆暗い顔で下を向いて歩いています。あいさつもしてくれません。

中年の男はすれ違いざま疑い深い顔で冷ややかに見るのです。

社会全体がとげとげしくなったのです。

あの陽気で誰に対しても親切なアメリカ人は一体どこに消えてしまったのでしょう。これがベトナム戦争の大きな後遺症です。

@アメリカ人の日本人への不満。

1976年頃に、親しいラップ教授の自宅でビールを飲みながらこの感想を話しました。

「その通りだ。ベトナム戦争が正しい戦争だったか否かを君とは議論しない。ただ自分がしたことだけ言うよ」

「ベトナム戦争へ何か関係したのですか?」

「戦争終了後しばらくして多数のボートピープルが出た。アメリカはそのすべてを移民として受け入れた。自分は7人をこの家に泊めてあげた。彼等は臨時の仕事場を見つけ、数ヵ月後には皆出て行った」

「そんな話は日本の新聞には出ていなかったですよ」

「日本は何もしないで経済的恩恵のみを取った」

「そんな一方的な判断は困りますね。出撃する米軍は皆日本の基地からでした」

「ボートピープルが多数出たとき、アメリカやドイツの民間団体が客船をチャーターしてベトナム沖に待機させ、波間に漂う小船の難民を拾い上げた。日本だけ客船を出さなかった」

アメリカやドイツは人道的だが日本人は人道的でないと非難したいらしいのです。礼儀上そう露骨には言いませんでしたが。

@アメリカ人は韓国兵を絶賛する

ロサンゼレスで乗ったタクシーの運転手は黒人でベトナム帰りでした。よく喋る男で前線の戦いぶりを振り向いて熱心に話すのです。

「おれの小隊はいつも韓国兵の小隊と一緒に最前線でベトコンとやりあったよ。ところが韓国兵が素晴らしいのだ。勇気があるだけじゃなく、攻撃してくるベトコンの弱い一角を必ず突く。それでおれの小隊が何回も助けられたよ。戦争慣れしているのだ。夜襲してくるベトコンを必ず追い返す。こちらの小隊長は腰抜けの少尉で、韓国の小隊長の言うことを聞いて動いていたよ。指揮権はアメリカにあるはずだが、前線に出たらそんなこと関係なくなるのさ。負傷兵を背負ってかえってきた韓国兵を見れば、だれでも韓国兵の言うことに従うよ。前線とはそういうものだ」

タクシーを降りる時、「あなたは韓国人ですね。今日のタクシー代金はいりません」と運転手が言うのです。残念ながら日本人だったので代金を払いました。韓国人を褒めてくれたのでチップを多めにして。

我々日本人はベトナム戦争当時、ベトナムに平和を!とだけ叫んでいました。「ベ平連」という大きな組織が新聞を賑わしていました。

平和を!と叫べば許されるような気がしていたのです。

しかし日本の新聞には報道されなかった色々はことがあったのです。

一歩外国へ出てみると随分と違った戦争への見方があるのに気がつきます。

どれが正しいか?という議論ほど空しいものはありません。

悲しさだけが心にのこります。平和な日本に住んでいるとその幸せをしみじみと感じます。有難い事です。

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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。

後藤和弘(藤山杜人)