後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

中学三年生の娘を亡くした母の悲しく、美しい文章(完結編)追悼集、橋本郁子著、「遠く広き国へ」より

2012年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム

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先日の私の記事、へコメントを下さった「みずのおもて」さんの『カイロス・みずのおもて』というブログを拝見致しました。

19年前に中学3年生の娘を白血球ガンで突然亡くした母の悲しみがつづられたブログです。

URLはhttp://84815811.at.webry.info/です。思わず姿勢を正して読んでしまいました。

「みずのおもて」さんへメールを送り、その美しい文章の一部を5回の連載記事としてこちらのブログに掲載することをお許し頂きました。今迄の4回の記事の題目は以下の通りです。クリックすると記事が開きます。

中学三年生の娘を亡くした母の悲しく、美しい文章(1)詩、「衣替え」

中学三年生の娘を亡くした母の悲しく、美しい文章(2)「告知」

中学三年生の娘を亡くした母の悲しく、美しい文章(3)お兄ちゃんへの手紙

中学三年生の娘を亡くした母の悲しく、美しい文章(4)頼子さん、家族と一緒に最後のキャンプへ行く

お母さんから、亡くなった頼子さんのお写真を掲載するように送って下さいました。上の写真です。尚、写真掲載に関する私の気持は先日の、人の存在の証明 という題の記事に書いておきました。

さて今回の完結編では頼子さんの母親の書いた追悼集をご紹介し、その中から一文を引用し以下に掲載したいと思います。

追悼集は新教出版社から1995年6月5日に初版が出ました。「遠く広き国へ」ーわが子を天に送ってー橋本郁子編著 です。

この追悼集は下のような4部で構成されています。

I、闘病の記録

II、頼子について書いていただいたこと

III、残された作品と回想

IV、頼子を天に送って

中学校3年生の娘を失った母の悲しみが切々と綴られた文集です。頼子さんがどんなに良い子だったかということが判ります。

一番驚く事は、苦しい闘病生活にもかかわらず頼子さんが常に明るく生きていたことです。彼女はキリスト教の信者でした。

最後まで希望を持っていました。病床で英検三級の試験も合格しました。

その平安な、静かな精神は何処から来るのでしょうか?

悲しむ父母へ何時も変わらない明るい態度で接していたのです。

その様子は同級生の追悼文からも伺えます。そこで今回はその同級生の追悼文を転載し、この5回にわたる連載記事の完結と致したいと存じます。

====同級の3年2組の生徒からの追悼文===========

「私たちは、先月十日、級友である橋本頼子さんを病気のために失いました。橋本さんは今年の一月から入、退院を繰り返し、ほとんど学校に来ることができませんでした。三年生になっても、二組の教室に一度しか顔を出すことができませんでした。もちろん授業は受けられませんでした。しかし登校できなくなってからは、通信教育を受けて勉強して、受験に備えていたそうです。

橋本さんは自分の病気のすべてを知っていました。それでも勉強する意慾を失わず、生きる希望を絶対に捨てないで、病気と必死に闘っていました。そして病魔に犯され、立っているのがやっとという状態のとき、家族にささえながら英検三級を受けました。そして二次試験まで合格しました。この試験は中学三年終了程度のレベルですから、いかに彼女が病床でもがんばったかが分かると思います。

そのことを聞いたとき、私たちはそこまで勉強しようとした彼女にただただ胸をうたれました。私たちはそんな橋本さんの意志を引き継ぎ、橋本さんの分まで何事も最後までがんばることを心に誓います。

私たち三年二組は、この劇を橋本さんへ贈りたいと思います」

==学校祭での劇、「ぼくらの十五分間戦争」の上演終了後に読み上げた追悼文です==

頼子さんは短い人生の後、天に昇って、必ずやイエス様のそばで安らかに眠っていると私は信じています。この5回にわたる連載記事をお読み頂いた方々へ深い感謝をお送りします。

そして是非、頼子さんのご冥福を祈ってあげて下さいますようにお願い申し上げます。(完結)

======みずのおもてさんから以下のコメントを頂きました==========

後藤和弘様

5回にわたりまして、私の拙いブログを皆様にご紹介いただきまして、誠にありがとうございました。
当事者といたしましては、特にその渦中にありましては、主観的な観点から事態を見つめることしかできず、他の方々には不可解と思われることもあるかと存じますがそのようなところを超えてのご厚意に、深く感謝いたします。
また拙著をもご紹介下さいましてありがとうございました。

ネットの力と申しますか、本日とても思いがけないことがありました。
後藤様に4回目の記事でお取り上げ頂きましたが、新舞子浜のキャンプでお世話になった、福島県いわき市の志賀留蔵さんのお孫さんにあたる方から、本日メールを頂いたのです。
偶然ブログを読んで下さったとのことでした。ブログを読んで下さる方は限られた人数ですのに、とてもおどろいております。
志賀さんは98歳で、今もご健在で、警察官の菊地さんもお元気でご活躍とのことでした。本当に嬉しく感激致しました。

いろいろな弱さや至らなさから、いっとき途切れてしまったかと思うような人とのつながりを、もう一度紡ぎなおしてくださるのは何の力によるものなのか、ふと手を止めて考えてしまいました。

どうもありがとうございました。
またブログにお邪魔させて頂きます。

=====投稿 みずのおもて | 2012/09/23 20:21 ===========


今日の読売新聞、書評欄から・・・「舟越保武全随筆集」巨岩と花びら ほか

2012年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム

毎週、日曜日の読売新聞の書評欄は必ず見るようにしています。

書評を書いている人が学者の場合は自分の博識ぶりを自慢するような書評が多く、本そのものの内容や批評が書いていない傾向があります。それに反して作家やタレントの書いた書評は判り易く、本の内容を適切に紹介し、その上自分の感想も簡潔に書いてあります。

今日は作家で、写真家でもある星野博美さんの「舟越保武全随筆集 巨岩と花びら ほか」の書評が明快で良かったです。この本は求龍堂が出版し、2600円で販売されています。

舟越氏は1912年に生まれ2002年に亡くなった有名な彫刻家です。石に直接彫り込むという手法で、数多くの重厚な藝術作品を残しました。

この随筆集のメイン・テーマが石に形を彫り込む職人の強靭な精神の重要性であります。

そして、その精神は日本の墓石を彫る石工(いしく)達と共通の職人魂が基盤になっているのです。石の彫刻家としての精神を描いた部分が重要な部分です。

しかし、随筆集ですから父との確執や薄幸だった継母への思いや家族との関係も書いてあります。気楽に読める随筆も沢山混じっている様子です。

是非、買って読みたくなるような本です。

今日の星野博美さんの「舟越保武全随筆集」の書評の紹介はここで終りとし、以下に舟越氏の作品を2つご紹介致します。

=======舟越氏の作品を2つ===============

ところで舟越保武はキリスト教関係の彫刻も沢山制作しました。有名なものは長崎の公園にある「26聖人像」です。

下にその関連の写真や資料をご紹介いたします。

その前に東京の郊外にあるイエズス会修道院の聖堂の入り口に立っている和服姿のマリア像をご紹介いたします。手に抱いているのが幼い頃のイエス様です。舟越氏の作品の一つです。2010年に小生が撮影した写真です。

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この写真については、「イエズス会石神井修道院の写真だけを、とりあえずお送りいたします」をクリックすると説明があります。

さて長崎の観光名所の一つに日本26聖人像の写真と素晴らしい文章のついたブログをご紹介いたします。江島達也さんのブログ: http://hayabusa-3.dreamlog.jp/ です。

このブログの中から観光名所になっている、26聖人像の写真をお借りして以下に示します。(出典」はhttp://hayabusa-3.dreamlog.jp/archives/51207384.html です)。

有名な彫刻家の船越保武氏が4年余の歳月をかけて昭和37年に完成した芸術作品です。余談ながら私はカトリックなのでこの像の前に立ったり、写真をみるのが好きです。祈っているのです。

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この26人は1597年2月5日、長崎の西坂で十字架にはりつけにされて殉教しました。

ローマ教皇ウルバノ八世は、1627年9月14日に、フランシスコ会関係殉教者23の列福を認めたのです。続いて同じ年の9月15日にイエズス会殉教者3名の列福も認めました。

それから235年後の1862年6月8日にローマ教皇ピオ九世により聖人と認められたのです。1862年といえばまだ江戸時代です。日米、日露なとの修好条約が出来、領事館が出来たころです。

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水辺の風景(3)夢幻の色を湛える摩周湖

2012年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログの記事は理屈が多くて読みにくいと感じている方々も多いのではないかと想像しています。

そこで今回は単純に摩周湖の神秘的な水の色を楽しんで頂きたいと思います。

北海道に行っている間の4日は雨続きて、4日目にやっと晴れました。天気の変わらぬうちにと、朝早くから摩周湖の展望台へ登りました。

カルデラの崖の上にある第三展望台から9月20日に撮った写真です。上から順番に右方向、真中方向、左方向を撮影した3枚の写真をしめします。

そして4枚目は第三展望台の足元の水面の色を撮った写真です。

最後の5番目の写真は対岸の裏摩周展望台から見た摩周湖で、小島のカムイシュ島がはっきり写ってます。

摩周湖の夢幻の色をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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下の写真の出典は下の引用文の出典と同じです。

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===http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%A9%E5%91%A8%E6%B9%96 より引用========

摩周湖(ましゅうこ)は、北海道弟子屈町にある湖。日本で最も、世界ではバイカル湖についで2番目に透明度の高い湖である。

急激に深くなっていることとその透明度から青以外の光の反射が少なく、よく晴れた日の湖面の色は「摩周ブルー」と呼ばれている。

北海道東部、阿寒国立公園内に位置する。日本の湖沼では20番目の面積規模を有する。

約7000年前の巨大噴火によって生成された窪地に水がたまったカルデラ湖であり、アイヌ語では「キンタン・カムイ・トー(山の神の湖)」という。摩周という名の由来は「カムイシュ」(神老婆)や「マシ・ウン・トー」(カモメの湖)など諸説あるが不明(なお摩周湖にカモメは生息していない)。

湖の中央に断崖の小島カムイシュ島がある。周囲は海抜600m前後の切り立ったカルデラ壁となっており、南東端に「カムイヌプリ(神の山)」(摩周岳・標高857m)がそびえている。

湖内は阿寒国立公園の特別保護地区に指定されており、開発行為や車馬・船の乗り入れは厳しく規制されている。

流入・流出河川がない閉鎖湖であり、周辺の降雨が土壌に浸透した後十分にろ過されて流入するため有機物の混入が非常に少なく生活排水の影響もないためリン酸塩の流入もない。夏季の気温・水温が低いこともこの一帯の有機物の分解が進まない原因となっている。

摩周湖一帯の火山活動は約3万年前から始まった。

山頂を失う以前の姿は富士山のような成層火山で、標高は2000m程度と考えられている。当時の安山岩質溶岩流が外輪山を形成している。

摩周湖に相当するカルデラは約7000年前の大噴火で形成された。巨大カルデラ噴火としては九州南沖の鬼界カルデラとほぼ同じ時期で、日本国内では最も新しい。

その後約4000年前からカルデラ東部で噴火が始まりカムイヌプリ火山が成長した。同じ頃カルデラ中央(湖底)でも溶岩ドームが形成されカムイシュ島ができ、現在の地形となった。

=======以下省略=====================

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)