後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本各地の豊かなローカル文化を考える(1)甲府盆地の仏教にまつわるローカル文化

2015年01月04日 | 日記・エッセイ・コラム
時々、日本文化とは何でしょうかと考え込む癖があります。その答えは年齢を重ねると少しずつ変わってきます。自分自身が背負っている文化が変わってくるからです。
昨日は山梨県の甲府盆地のローカル文化を考えて見ました。甲府盆地を東から西に通り抜けて甲斐駒岳の麓の山林の中の小屋に行きました。そこで遊びながら考えました。
一般的にローカル文化はその地の地形や天候の影響を受けます。どのような農作物が収穫されるかも深い関係があります。漁村では季節ごとに、どのような魚が獲れるかによって影響を受けます。
そして一言でローカル文化と云っても縄文、弥生、古墳時代、平安、鎌倉、室町、戦国の各時代のそれぞれの文化が重層的に重なり合っているのが自然です。
ですからどの時代のどの分野のローカル文化を取上げるかによってその特徴が変わるのが当然です。
甲府盆地には巨大な前方後円墳が現存しています。甲斐の国という律令国家があり甲斐の国の国分寺も國分尼寺もありました。そして大和朝廷に牧場で育てた馬を送っていたのです。このような歴史は東国には共通のローカル文化です。
しかしいくつか甲府盆地特有の文化があります。その一つは盆地の南に聳える鳳凰三山へ地蔵岳、観音岳、薬師岳と仏像の名前をつけて仏教信仰の対称にしていることです。
山岳信仰は神道の場合が多いのですが甲府盆地では仏教の信仰対象になっているのです。
甲府盆地の人々は子供が授かると、安産を願って地蔵岳の頂きから石の地蔵さんを背負って持ち帰ります。無事子供が生まれたらお地蔵さんを3体背負って山の頂上へ返します。
実際地蔵岳に登ってみると頂上に近い白っぽい砂の斜面に30cmから60cm位の石の地蔵さんがえんえんと並んでいるのです。
そして観音岳を見上げる韮崎市の崖の上には巨大な観音菩薩像が立っているのです。
これが甲府盆地の特徴的な一つのローカル文化ではないでしょうか。
仏教に関して云えば、武田信玄公が行ったことも少し変わったことでした。
信玄さんが長野市を占領したときに善光寺のご本尊を甲府市に持ち帰って甲府善光寺を作りました。その壮大な伽藍は現在でもあります。
しかし信玄さんが敗れ、徳川の時代になるとご本尊様は長野善光寺に帰りました。
この歴史は武田信玄公の蛮行と考えることも出来ます。反対に信玄公の篤い信心の現れとも考えられます。しかし武力でご本尊を奪うことはあまり尊敬できないかも知れません。
現存する壮大な甲府善光寺は長野市の善光寺と同じ位見事な建物です。しかし何故か観光客が集まりません。これも甲府盆地のローカル文化の一風景です。
この様な歴史から甲府盆地も独特の仏教的な文化を持っていたのです。
しかし山を越えた長野県上田市の別所温泉のように熱心な信仰に支えられた仏教のお寺は現存していません。そこは北の鎌倉と言われるほど国宝級のお堂が現存しているのです。
以上は甲府盆地のローカル文化の一例です。一例は所詮一例であり全てではありません。ローカル文化を説明するむずかしさを感じています。
下に昨日撮って来た山の写真をお送りします。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

上は甲府盆地の西北に見える八ヶ岳です。

上は甲府盆地の西端に見える甲斐駒岳です。

上は甲府盆地の東にある富士山です。

上は小生の小屋の前の冬の雑木林です。

上はその小屋のある周囲の道路の様子です。
=====参考資料===================
山名の由来:荻生徂徠『峡中紀行』、『甲斐国志』、野田成方『裏見寒話』、萩原元克『甲斐名勝志』など近世の地誌類によれば「鳳凰山」の指す山域は時代により認識が異なっており、地蔵岳のみを指す一山説、観音岳、薬師岳の二峰を指す二山説、三山すべてを指す三山説があり、山名論争が展開されてきた。山麓地域では昔は一山説が一般的であったが後に山岳信仰の広まりに伴い三山説が浸透し、二峰を区別しがたい甲府近在で編纂された『裏見寒話』や甲斐国絵図類などにおいては二山説・三山説をとっている。しかしながら、いずれにしても現在となっては鳳凰山とは鳳凰三山と同義である。詳しくは、http://ja.wikipedia.org/wi…/%E9%B3%B3%E5%87%B0%E5%B1%B1にあります。