後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

真冬でも熱帯のような花が咲き、緑濃い植物が繁茂している八丈島

2015年01月21日 | 写真
八丈島で感動したことは大きな島全体が熱帯性の植物で覆われていて、さながら天然の植物園のように見えることでした。
始めの3枚の写真は人間の手の入っていない文字通り自然の植物の様子です。
続く残りの3枚の写真は大賀卿町の中心にある公園の風景です。
この公園は、真中にドライブウエイがあって車で楽しみながら通り抜けられるようになっています。ところどころの林の中に駐車場があり、散歩することも出来ます。素晴らしい所ですが、近所の人が2、3人だけ散歩している、淋しいくらい静かな公園です。
人間の手の入った公園と、漁港の回りの自然の山々の植物は佇まいが異なります。公園の林は剪定もしてあり、整然としています。自然林は一見荒れたような印象を受けますがよく見ると種々の草木が仲良く繁っています。どちらも美しいと思います。(写真は2009年1月28日から31日の間に撮影しました)
八丈島の植物の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。













八丈島、縄文時代からの歴史(1)八丈小島からの集団離島、廃村

2015年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の地方、地方はそれぞれ独自の歴史と文化を有しています。
そこで「日本各地の豊かなローカル文化を考える」という題目で以下の6編の記事を掲載してきました。
(1)甲府盆地の仏教にまつわるローカル文化 2015-01-04
(2)甲府盆地の30基の巨大古墳 2015-01-05
(3)青森ねぶたを見た時の驚きと興奮 2015-01-06
(4)風の盆などの盆踊りは豊かなローカル文化 2015-01-07
(5) 奈良井宿、大内宿、妻籠宿、馬籠宿の保存文化 2015-01-09
(6) 個性的で魅力ある地方の美術館 2015-01-13
今度は趣を変え、八丈島という一つの島の歴史と独自の文化をいろいろな視点から連載記事でご報告したいと思います。
八丈島は東京都庁から約300Kmの海を隔てた太平洋上の東京都八丈町です。300Kmもの海を隔てているので上記の(1)から(6)でご紹介した地方とは大変違う歴史と文化を有しています。むしろ「八丈島民族」と仮想したほうが分かりやすいかも知れません。
海路300Kmは明治以後の蒸気船やジーゼル機関のある船なら行き来出来ますが、それ以前の帆船では非常に困難な場所です。「鳥もかよわぬ八丈島」と言われていたのです。
従って島民は東京都23区内ほどの広さの島で農産物と魚貝類だけで自給自足の歴史を築きあげてきたのです。本州と隔離しているので独特の信仰と島特有の方言を持っていたのです。
そして約5000年以上前の縄文時代の石器や土器も多数出土しているのです。
この八丈島の厳しい生活条件を象徴しているのが1969年の八丈小島の全島民91人の離島、移住です。八丈小島は八丈島の西にある小島で、江戸時代から島の北西部に鳥打村、南東部に宇津木村の2村が置かれていたのです。この二つの村が1969年(昭和44年に完全に廃村になったのです。島にあった小・中学校も廃止されたのです。
それでは八丈小島の写真を示します。2009年1月28日に八丈島を車で回りながら自分で撮った写真です。



下の写真では八丈富士の左手の海上に八丈小島が写っています。八丈富士の手前の平野は農業地帯で人が多く住んでいます。八丈富士の左手前には羽田と航空路がつながっている飛行場も見えています。

さてそれでは何故、1969年に全島民91人が離島するという歴史的大事件が起きたのでしょうか?
その理由は以下のように言われています。
1.急激な人口流出による過疎化
2.生活条件の厳しさ(電話、医療、水道施設がない)
3.経済成長と近代化のためにより経済的に豊かな生活を手に入れるため
4.子弟の教育に対する不安
以上のような条件は昔の日本では、多くの離れ島にあったのです。しかし八丈小島の場合は特別な廃村への経緯をとったのです。
島民全員が話し合って離島を決心し、八丈島への移住を決めたのです。そして本島の八丈島の町議会へ移住への支援を頼んだのです。そこで八丈島町議会は東京都に小島の住民の土地を買って貰い、移住資金にする運動をしたのです。その運動は3年ほどかかりましたが東京都も買い上げを決定し、1969年に八丈島への移住が完了したのです。
全国に過疎化した集落が沢山ありますが地方自治体が移住の支援を八丈小島ほと丁寧にした例は珍しいと言われています。日本の地方の歴史にして珍しい経過をとったのです。
現在、八丈子小島は無人島で、鳥打村と宇津木村は廃村になって荒れ果てています。時々廃村マニアが写真を撮りに訪れています。そして釣りやダイビングの愛好家も訪れているそうです。
数日前の読売新聞には八丈小島の小・中学校で学んだ後、移住してしまった人の回顧談が掲載してありました。とても楽しい思い出をいきいきと話しています。「故郷は遠きにありて想うもの」という言葉をしみじみ考えながらその記事を読みました。
八丈小島の全員移住は八丈島の歴史と文化においては重要な事件と思いご紹介した次第です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料====================
(1)八丈島とは:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%B8%88%E5%B3%B6
東京の南方海上287キロメートル、御蔵島の南南東方約75キロメートルにあり、東山(別名:三原山・標高701メートル)と西山(別名:八丈富士・標高854メートル)のふたつの火山が接合した北西-南東14キロメートル、北東-南西7.5キロメートルのひょうたん型をした島。面積は山手線の内側とほぼ同じ。(面積の比較)
富士火山帯に属する火山島で、東山は約10万年前から約3700年前まで活動し、カルデラを形成したと考えられている。最終噴火は有史以前であり歴史記録上の噴火はない。西山は数千年前から活動を始めた新しい火山で、山頂に直径約500メートルの火口がある。1487年12月、1518年2月、1522年 - 1523年、1605年10月、1606年1月に噴火が記録されており、特に1606年の記録には、海底噴火によって火山島ができたとされる。
(2)八丈町とは、
人口は平成22年に8,231人住んでいました。詳しくは、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%B8%88%E5%B3%B6 に出ています。
八丈島とは:
八丈島は、東京の南方海上287キロメートルに位置し、面積69.52平方キロメートルのひょうたん型をした島です。地形的には富士火山帯に属する火山島であり、南東部を占める三原山(700.9メートル)と北西部を占める八丈富士(854.3メートル)から成り立っています。
5つの集落
集落は、島の南東部に位置する三原山を中心とする樫立・中之郷・末吉で形成される坂上地域と、島の経済活動の中心地である大賀郷・三根で形成される坂下地域があります。
八丈小島:
八丈小島は、八丈島の北西7.5キロメートルの海上にあり、島のほぼ中央にあたる太平山(616.8メートル)から成る面積3.1平方キロメートルの火山島ですが、昭和44年6 月に全員離島し、現在は無人島です。
(3)八丈小島の歴史:http://www.ne.jp/asahi/goto/home/shikido/kojima.html
  と それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)伊豆諸島伝説のヒーロー“鎮西八郎”源為朝(1139-1170?)は、 保元の乱(1156年)で崇徳上皇側について勇敢に戦ったものの、ついには捕虜となり、伊豆大島へと配流となりました。為朝の活躍を描いた『保元物語』では、「伊豆諸島の島々を開拓して自分の所領としながらも、朝廷側からの追討軍に追い詰められ、とうとう伊豆大島で自害した」と綴られています
室町時代には既に住民が定住していたと考えられている。なお、平安時代末期の武将、源為朝が、八丈小島で自害したとの伝説が残っている。八丈本島同様流刑地とされた時代もあった。本島との間に海流があるため、いかだや小舟では脱出不能とも言われ、特に重い刑を受けた者が流されていた。
江戸時代から島の北西部に鳥打、南東部に宇津木の2村が置かれていた。1908年(明治41年)、八丈島の各村に島嶼町村制が施行されたが、八丈小島には施行されず、そのまま 1947年(昭和22年)の地方自治法施行により鳥打村および宇津木村が置かれるまで名主制が存続したという、極めて珍しい歴史を持つ。なお、両村の名は明治期以後も存続したが、上記のとおり島嶼町村制に基づく法的な正式名称ではなく、あくまで通称だった。
(4)八丈小島の現状:http://www.ne.jp/asahi/goto/home/shikido/kojima.html
いざ上陸!鳥打を歩いてみると…
今回3度目の挑戦にして渡船に乗り込むことができました、が! 小さな船なのでかなり揺れるわ、急にスコールが降り始めるわ、すぐ隣の島だというのに、その“隔離”感は相当なものでした。
およそ一時間ほど揺られて、ついに鳥打の小さな船着場に到着。
藻でツルツルになった護岸の上を慎重に歩を進めて、ついに上陸! 見上げれば太平山がそびえ立ち、目前には寥々と無人の荒野が…
ガイドさんに従って鳥打村住居跡、そして鳥打小学校跡を見学。
全島民の引き揚げから既に40年近く経過しているわけですから、もはやごくごく僅かな痕跡しか残っていません。しかしながら、 集められた酒瓶(水入れ容器は貴重なものだったのでしょう)や、 学校の門柱、竃など、確かな人の生活の記憶がそこにありました。下にその風景の写真を示します。

(5)八丈小島、全島民集団離島までの経緯:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%B8%88%E5%B0%8F%E5%B3%B6
1954年(昭和29年)10月1日、町村合併促進法により、鳥打村と八丈島の三根・樫立・中之郷・末吉の各村が合併して八丈村となる。1955年(昭和30年)4月1日には宇津木村と八丈島の八丈・大賀郷各村が合併して八丈町となった。しかし、その後も過疎化が止まらず、ついには 1965年(昭和40年)頃から八丈島への全島民移住案が出はじめた。その理由は、1966年(昭和41年)の請願によると、
1.急激な人口流出による過疎化
2.生活条件の厳しさ(電話、医療、水道施設がない)
3.経済成長と近代化のためにより経済的に豊かな生活を手に入れるため
4.子弟の教育に対する不安
が挙げられた。離島までの経緯は、1966年(昭和41年)3月小島の住民から八丈町議会に「移住促進、助成に関する請願書」を提出。6月に八丈町議会は実情調査を行い、その結果を受けて、請願を採択。
1967年(昭和42年)9月、八丈町から東京都に対し「八丈小島の全員離島の実施に伴う八丈町に対する援助」の陳情が行われる。1968年(昭和43年)10月に土地買収に関する住民との協議が成立し、1969年(昭和44年)1月より離島開始。「全国初の全島民完全移住」として注目された。6月には鳥打小・中学校および宇津木小・中学校が廃校、全島民の移住が完了。それ以降、現在に至るまで無人島である。