石神井城は1400年ごろ豊島氏によって築城され、1477年に太田道灌によって攻められ城主の豊島泰経は敗走し、石神井城は廃城になりました。たった70余年の間しか城として存続しなかった悲劇的な運命の城でした。城は現在の石神井公園の三宝池の南岸の高台にあり1956年以降の数回の発掘調査と文献調査により1400年頃から1477年まで豊島氏の本拠の城であったことが確認されています。詳しくは末尾の参考資料にあります。
それにしても室町時代は関東管領・上杉氏と地元の大田道灌や豊島氏のような武将との虚虚実実の争いが続いていたのです。特に大田道灌は川越城や江戸城を作ったことで有名です。
それが後に勢力を拡大した小田原の早川早雲(北条早雲)の一族によって攻められ関東平野の大部分は北条一族の軍門に下るのです。
しかしこの北条氏も1590年の天正18年に豊臣秀吉に敗れ、関東一円は豊臣の勢力に下ったのです。そのような歴史を思い出しながら三宝池の周りを散歩して来ました。
下に今日撮って来た三宝池の写真をお送り致します。
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1956年以降の数回の発掘で土塁や空堀も見つかり、館跡からは多数の陶磁器が出土しました。写真の石碑の上の台地に館があったことが判明しています。
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上は三宝池の風景です。この写真の右手の台地の上に現在も三宝寺があります。
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上は三宝池の中にある弁天さんです。写真の手前に水が湧き出している円筒形の泉の口が写っています。三宝池のあちこちから豊かな湧水がで出ているのです。
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上は西端から見た三宝池です。
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上は大きな規模の湧水の出口です。今日の散歩は風もなく快適でした。東京の練馬区にこの様な自然が残っているのが奇蹟のように感じます。
===参考資料=========================
現在の東京都の西部を領有していた豊島氏の歴史と石神井城の歴史:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%A5%9E%E4%BA%95%E5%9F%8E より。
石神井城は平安時代から室町時代まで石神井川流域に勢力を張った豊島氏の後期に本拠としていた城であり、長尾景春の乱で没落するまで使われた城でした。
歴史・沿革
石神井城の築城時期は定かではないが、一般的には室町中期頃であったと考えられている。鎌倉期以降宇多氏・宮城氏らの館が構えられていた場所に、彼らと婚姻関係を結びながら石神井川流域の開発領主として勢力を伸ばした豊島氏が築いた城で、以後この地は豊島一族の本拠地にもなった。
豊島氏は貞和5(1349)年に石神井郷の一円支配を開始したものの、応安元(1368)年の「平一揆の乱」に敗れて関東管領・上杉氏に所領を没収されており、その後応永2(1395)年になってようやく同郷を還補(げんぽ=所領返却)されている。石神井城内に鎮守として祀られている氷川神社、城内に創建された三宝寺のいずれもが「応永年間の建立」と伝えられていることから、城もこの還補直後(応永年間)に築かれたとする説が有力である。
平安期以来、武蔵の名族として名を馳せていた豊島氏は室町時代中期、新興勢力の扇谷上杉氏家宰太田氏と対立を深め、長尾景春の乱において太田道灌に攻められ没落した。文明9(1477)年のこの戦いにおいて、豊島氏は当主の泰経とその弟泰明(ただし、当時の史料には「勘解由左衛門尉」「平右衛門尉」との官途名の記述しかなく、実際にそう呼ばれていたか否かは不明である)はそれぞれ石神井城と練馬城に拠り太田道灌と対峙したが、同年4月13日練馬城を攻撃された後の江古田原の戦い(『鎌倉大草紙』では「江古田原・沼袋」)で惨敗を喫し、泰明は戦死、泰経は石神井城に敗走している(なお、以前は道灌が最初に攻めた城は「平塚城」とされていたが、現在は黒田基樹・齋藤慎一・則竹雄一・西股総生・伊禮正雄・葛城明彦・八巻孝夫・齋藤秀夫らの支持により「練馬城」が新たな通説となっている)。
その後、4月14日に道灌は石神井城近くの愛宕山(現:早稲田高等学院付近)に陣を張り石神井城と対峙、18日になって一旦和平交渉が結ばれた。しかし、豊島氏側が条件であった「城の破却」を実行しなかったことから、21日に道灌は攻撃を再開、外城が攻め落とされたため、泰経はその夜城を捨て逃亡した。泰経は翌年1月平塚城で再起を図るが、再び道灌が攻撃に向かったため、またしても戦わずして足立方面に逃亡し、以後は行方不明となっている(以前の通説では「丸子城(神奈川県川崎市)から更に小机城(神奈川県横浜市)へと落ち延びた」とされていたが、現在は多数の史家によりほぼこれは否定されている)。なお、「落城の際には、城主の娘の『照姫』が三宝寺池に身を投げた」とも伝えられているが、これは明治29(1896)年に作家の遅塚麗水が著した小説『照日松』のストーリーが流布されたもので、「照姫」は全くの架空の人物である。以下省略。
それにしても室町時代は関東管領・上杉氏と地元の大田道灌や豊島氏のような武将との虚虚実実の争いが続いていたのです。特に大田道灌は川越城や江戸城を作ったことで有名です。
それが後に勢力を拡大した小田原の早川早雲(北条早雲)の一族によって攻められ関東平野の大部分は北条一族の軍門に下るのです。
しかしこの北条氏も1590年の天正18年に豊臣秀吉に敗れ、関東一円は豊臣の勢力に下ったのです。そのような歴史を思い出しながら三宝池の周りを散歩して来ました。
下に今日撮って来た三宝池の写真をお送り致します。
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1956年以降の数回の発掘で土塁や空堀も見つかり、館跡からは多数の陶磁器が出土しました。写真の石碑の上の台地に館があったことが判明しています。
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上は三宝池の風景です。この写真の右手の台地の上に現在も三宝寺があります。
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上は三宝池の中にある弁天さんです。写真の手前に水が湧き出している円筒形の泉の口が写っています。三宝池のあちこちから豊かな湧水がで出ているのです。
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上は西端から見た三宝池です。
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上は大きな規模の湧水の出口です。今日の散歩は風もなく快適でした。東京の練馬区にこの様な自然が残っているのが奇蹟のように感じます。
===参考資料=========================
現在の東京都の西部を領有していた豊島氏の歴史と石神井城の歴史:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%A5%9E%E4%BA%95%E5%9F%8E より。
石神井城は平安時代から室町時代まで石神井川流域に勢力を張った豊島氏の後期に本拠としていた城であり、長尾景春の乱で没落するまで使われた城でした。
歴史・沿革
石神井城の築城時期は定かではないが、一般的には室町中期頃であったと考えられている。鎌倉期以降宇多氏・宮城氏らの館が構えられていた場所に、彼らと婚姻関係を結びながら石神井川流域の開発領主として勢力を伸ばした豊島氏が築いた城で、以後この地は豊島一族の本拠地にもなった。
豊島氏は貞和5(1349)年に石神井郷の一円支配を開始したものの、応安元(1368)年の「平一揆の乱」に敗れて関東管領・上杉氏に所領を没収されており、その後応永2(1395)年になってようやく同郷を還補(げんぽ=所領返却)されている。石神井城内に鎮守として祀られている氷川神社、城内に創建された三宝寺のいずれもが「応永年間の建立」と伝えられていることから、城もこの還補直後(応永年間)に築かれたとする説が有力である。
平安期以来、武蔵の名族として名を馳せていた豊島氏は室町時代中期、新興勢力の扇谷上杉氏家宰太田氏と対立を深め、長尾景春の乱において太田道灌に攻められ没落した。文明9(1477)年のこの戦いにおいて、豊島氏は当主の泰経とその弟泰明(ただし、当時の史料には「勘解由左衛門尉」「平右衛門尉」との官途名の記述しかなく、実際にそう呼ばれていたか否かは不明である)はそれぞれ石神井城と練馬城に拠り太田道灌と対峙したが、同年4月13日練馬城を攻撃された後の江古田原の戦い(『鎌倉大草紙』では「江古田原・沼袋」)で惨敗を喫し、泰明は戦死、泰経は石神井城に敗走している(なお、以前は道灌が最初に攻めた城は「平塚城」とされていたが、現在は黒田基樹・齋藤慎一・則竹雄一・西股総生・伊禮正雄・葛城明彦・八巻孝夫・齋藤秀夫らの支持により「練馬城」が新たな通説となっている)。
その後、4月14日に道灌は石神井城近くの愛宕山(現:早稲田高等学院付近)に陣を張り石神井城と対峙、18日になって一旦和平交渉が結ばれた。しかし、豊島氏側が条件であった「城の破却」を実行しなかったことから、21日に道灌は攻撃を再開、外城が攻め落とされたため、泰経はその夜城を捨て逃亡した。泰経は翌年1月平塚城で再起を図るが、再び道灌が攻撃に向かったため、またしても戦わずして足立方面に逃亡し、以後は行方不明となっている(以前の通説では「丸子城(神奈川県川崎市)から更に小机城(神奈川県横浜市)へと落ち延びた」とされていたが、現在は多数の史家によりほぼこれは否定されている)。なお、「落城の際には、城主の娘の『照姫』が三宝寺池に身を投げた」とも伝えられているが、これは明治29(1896)年に作家の遅塚麗水が著した小説『照日松』のストーリーが流布されたもので、「照姫」は全くの架空の人物である。以下省略。