後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

冬の陽射す徳川家鷹狩りの道と、平安時代の伝説がある真姿の池湧水の散歩

2015年01月31日 | 写真
国分寺崖線の下は南に面していて冬の陽が明るく射しています。昨日の雪が晴れあがって空が蒼く輝いています。
冬の陽射す尾張徳川家鷹狩りの道と、平安時代の伝説がある真姿の池湧水の周辺を午後から散歩して来ました。その折りの写真をお送りいたします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。
=====参考資料================
http://www.natsuzora.com/dew/tokyo-west/otakanomichi.html より転載しました。
(1)お鷹の道、
江戸時代、1748年(寛延元年)から1867年(慶応3年)まで、この辺りの村々は尾張徳川家の御鷹場に指定されていたという。そのことから、湧水を集めて流れる小川沿いの小径が「お鷹の道」と呼ばれるようになったものらしい。1973年(昭和48年)から1974年(昭和49年)にかけて国分寺市が遊歩道として整備し、現在は「真姿の池」と共に国分寺市の名所として知られている。以下省略。
(2)真姿の池と湧水群、
「真姿の池」とは何とも趣のある名だが、その由来は遠く平安時代にまで遡る。「真姿の池」脇に設置された東京都教育委員会の解説板によれば、848年(嘉祥元年)、不治の病に冒された玉造小町という女が病気平癒祈願のために国分寺に参詣すると、二十一日目に一人の童子が現れ、小町をこの池に案内し、この池の水で身を清めるように告げた。その通りにすると薬師如来の霊験か、たちどころに病気が癒え、元の美しい姿に戻ったという。それから人々がこの池を「真姿の池」と呼ぶようになったというのだ。
真姿の池の湧水群とは「国分寺崖線」の下から湧き出る泉のうちの「真姿の池」周辺の湧水群を意味する。「真姿の池湧水群」は東京都指定名勝になっています。













八丈島、縄文時代からの歴史(6)八丈島の漁業と食文化

2015年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム
八丈島の主な産業は昨日ご紹介したフェニックスなどの観葉植物の栽培、黄八丈や焼酎の製造と漁業です。フェニックスなどの観葉植物の栽培の歴史は昨日ご紹介しましたので今日は漁業に関して簡略にご紹介いたします。
八丈島では漁船が皆立派で、天然の良港に恵まれているのです。
下の写真は奥深い入り江の八重根漁港で、江戸時代には台地の上に島役所がありました。

島の反対側には神湊魚港があり、どちらも水深が深く、溶岩の岬に囲い込まれていて、台風が来ても見るからに安全そうです。下の写真はそのような水深の深い漁港の一つです。

島の歴史民俗資料館を案内してくれた細谷昇司さんが島の漁業について以下のように教えてくれました。以下は細谷さんが漁業組合へ行って調べて、文書にして送ってくれた内容です。
漁船は3トンから20トン位で総数180隻位あり、皆個人所有だそうです。取れる魚は売上金の多い順に、カツオ、トビウオ、キンメダイ、ムロアジ、マグロ類(カジキ)、メダイ までが主なもので、他にシイラ、アオダイ、ハマダイ、カマス、サワラなどだそうです。
また少しだけ採れる地魚としてオナガダイ、バイショーイカ、アオゼ、キツネ、エースなどがあり、刺身にしたり、島寿司に使われているそうです。
島の人々は東京へ出荷しないこれらの地魚を刺身にして、島焼酎を飲んで楽しんでいます。勿論、夕食のおかずにもします。
八丈島の漁船は島の周囲、70、80Kmの範囲(北は三宅島、南は青ケ島付近まで)で魚を取るそうです。船内冷蔵装置が無いので取った魚は東京まで直接は運べないそうです。冷凍や冷蔵にしてコンテナに入れ、東海汽船の「さるびあ丸」などの貨客船で東京へ運ぶそうです。
トビウオを干物にしたり、ムロアジをクサヤにして加工品としても出荷します。シマアジやトコブシの養殖もしているそうです。
八丈島の周りは豊かな太平洋に囲まれ、四季折々、いつ行っても新鮮な魚があるそうです。特に地魚は美味しく、島でないと味わえない食文化です。その上、地魚は廉価で島の重要な食べ物になっています。
そんな地魚を売り物にしている「あそこ寿司」をご紹介します。店に入ると下の写真のようにカウンターの上の地魚の写真が目に入ります。

そして下の写真は地魚の島寿司です。

島寿司には甘たるいタレがつけてあり、ワサビのかわりにカラシがついています。初めて食べたときは驚きますが郷に入れば郷に従うべきと我慢して食べました。すると次第に美味しく感じるのです。メダイ、アオゼ、オナガダイなどの地魚の味が甘いタレで引き立つのです。
つぎは島料理の厨という店の昼食の島御膳「おまかせ」(1500円)の写真を下に示します。

島豆腐、飛魚のツミレ煮、地魚の刺身などが丁寧に、そして誠意を込めて作ってありおました。如何にも島の家庭でつつましい食材で、美味く、健康に良いように作った感じの御膳でした。
八丈島の食文化は地魚を工夫して美味しく食べる独特の料理法にあると知りました。しかし短期間の訪問では料理方法までは調べられませんでした。
それからお米はどうするのか聞いてみました。現在は米は穫れないので、本州から運んで、スーパーからを買ってくるそうです。しかし昭和時代までは島の中央の平野には水田が下の写真のように広がっていたそうです。

この写真の左手前から右奥へ見えるように「電柱の列」が続いていて、山すそに水力発電所がありました。海底電線が出来るずうっと以前から島には電灯がついていたのです。
上の写真のように米を生産していた時代を考えると、島の食文化は縄文時代から江戸時代と時代が変わるに従って雑穀類やイモ類へ、そして麦類、それから米へ変わってきたことが容易に想像出来ます。
しかし何時の時代でも魚貝類だけは連綿として八丈島の食文化の基礎だったのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)