日本のローカル文化には各地の古来の美しい神社仏閣の建物のたたずまいも含みます。豊かに広がる農村風景も美しい文化です。
そして昔の宿場町の景観を保存したのもローカル文化です。今回は美しい宿場町として奈良井宿、大内宿、妻籠宿、馬籠宿の4つの町をご紹介いたします。
江戸時代そのままの宿場を復原して、見事に保存しています。そこでは時間が停まったようです。江戸時代の時間を写真に撮れるのです。
この4ケ所は何度も訪問しました。特に木曽街道の長野県の奈良井宿は比較的近いので7回くらい訪れました。
大内宿、妻籠宿、そして馬籠宿も訪問してみると、それぞれ違った感動を与えてくれます。とにかく遠路訪ねるだけのことはあります。下にその写真を示します。
さて長野県、塩尻から木曾谷へ国道19号線を木曽福島の方向へ20km位走ると奈良井宿があります。昔の中仙道の奈良井宿が右手に見えて来ます。奈良井へ入る道の案内看板があり、駐車場があります。車を預け、徒歩で江戸時代の宿場町の通りを散策するのです。長さ1kmくらいの通りを静かに歩くのです。
奈良井宿は鎌倉時代から宿駅として栄えたそうです。木曽路の分水嶺、鳥居峠の北側のこの付近に土豪奈良井氏が居館を構えたのが始まりと言います。
戦国時代は木曽一族と甲斐の武田一族の戦いの場所でした。付近には多数の戦死者を葬った沢が「葬沢」という名でが残っています。
江戸時代になり徳川家康により慶長7年(1602年)中仙道の宿駅として決められました。それ以来、260年間、奈良井宿は江戸と京都を結ぶ中仙道の重要な宿場だったのです。
奈良井宿は木曽11宿で一番大きな宿であり、中山道、全67宿の中でも有数の規模を誇っていたそうです。
参勤交代の大名行列が通るだけではありません、数多くの行商人や巡礼の庶民が通り抜けた宿場です。庶民の泊るところは大きな広間です。皆一緒に寝たのです。その広間の傍には馬が繋いであったのです。芭蕉の、「のみしらみ馬のしとする枕元」という奥の細道での俳句は現実だったのです。
宿場町には本陣や脇本陣が公開されています。しかし多くの庶民が泊った旅籠を見落とさないことが重要と思います。当時の名も無い庶民の旅の苦しさが分かります。
奈良井宿は防火・消火に力を注いでいたので、大きな火災にもあわず江戸時代の家屋が残っていたのです。戦後、昭和30年台から、修理、復元の努力を続け、昭和53年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。
同じ木曽路の馬籠宿と妻籠宿ほど有名でないので観光客も少なく落ち着いた雰囲気です。人影まばらな宿場町を季節の風が通り過ぎて行きます。
ある年の初夏に訪れたときに、裏山の森から澄んだ春ゼミの声が絶え間なく聞こえていました。偶然立ち寄った古いお寺の裏手に、処刑された隠れキリシタンの墓が一基淋しく立っているのを見つけました。木曽へ逃げ、身を隠していた「隠れキリシタン」が捕まって、奈良井宿で処刑されたと書いてあります。裏山から聞こえる澄んだ春ゼミの声が鎮魂の歌のようでした。
随分と時が流れてから、木曽蕎麦の「盛り」と「五平餅」で遅れた昼食をとって帰って来たことが忘れられません。
下の3枚の写真が奈良井宿の写真です。撮影は2010年6月1日です。

一方下の写真は大内宿の通りを山の上から見た風景です。会津藩が作った宿場で会津盆地と日光街道の今市宿の中間の山の中にあります。交通が不便な所なので昔の家々がそのまま残りました。

大内宿の通りの両側のカヤブキの家々が旅籠だったのです。家と家との間が離れているのが珍しいと思いました。現在は丁寧に復元されています。
下のもう2枚の写真のように土産物屋や蕎麦屋になっています。本陣も公開されています。

この大内宿は交通が不便な場所にありますが是非お勧めしたい所です。
さて妻籠宿は下の写真のように昔のままに丁寧に復元されています。

そして下は夜の妻籠宿です。

下の写真2枚は馬籠宿です。急な坂道の両側に旅籠があるという変わった宿場です。木曽は山が険しく平地が無いのです。

この坂を登った通りに面して島崎藤村の生家が復元され、公開されています。
長野県の小諸城跡にある懐古園の中の「島崎藤村記念館」を見たあとで、藤村の生家を見学すると、何故、彼が故郷を捨てたかが分かるような気がします。山々ばかりで、因習にとらわれた人々の閉鎖的な雰囲気がやりきれなかったのでしょう。
以上のように江戸時代の宿場町を整備して保存していることは感動的なことです。交通の不便な場所に江戸の文化を保存しているのです。これこそ日本が世界に誇れるローカル文化ではないでしょうか。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)