後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

八丈島、縄文時代からの歴史(4)江戸幕府の直接支配と流人文化の興隆

2015年01月26日 | 日記・エッセイ・コラム

上の写真のように八丈島は手前の東山と遠方の西山(八丈富士)の間には豊かな平野が広がっています。多くの人間が農業をして暮らしていける島です。しかし島は本州からあまりにも遠方です。ですから旧石器時代、縄文時代、大和朝廷の時代と時が流れても本州の戦乱とは無関係な平穏な時が流れました。
大和朝廷のころは形式的には駿河の国へ属していました。直接的な支配は室町時代末期に北条早雲の家来が代官として大賀卿村の大里に陣屋を作ったころから始まると言われています。
それ以前は室町時代に鎌倉公方を補佐する関東管領の上杉憲顕が派遣した代官も居たようですが詳しいことは分かりません。
船旅の危険が大きいためほとんど独立的な孤島であったと思われている。
それが急に江戸幕府の直接的な支配を受けるようになったのです。幕府は早雲の派遣した代官の陣屋跡に島役所を作り、八丈島を江戸幕府の直轄領にして直接統治し始めたのです。
下に江戸幕府の島役所の玉石垣の写真2枚と島役所の歴史を書いた案内板の写真を示します。





江戸幕府の島役所は島の中央部の南岸の八重根港のそばの高台の上にあり、その付近には大里と呼ばれるが出来たそうです。島役人とその家族の住む家があったのです。その屋敷の回りには流人が営々として海岸から運び上げた玉石の石垣が出来ています。現在も石垣は大里の中にあり、その中の家には人々が住んでいるのです。
幕府は、独特の染め方をした絹織物、黄八丈を年貢として納めさせたのです。島役所が設置されてから明治維新までの間に1917人の流人が八丈島にやって来て、住みついたのです。流人は粗暴犯だけでなく高位高官の政治犯も多かったので島にはいわゆる流人文化が花咲いたのです。
江戸時代になって始めての流人は関ヶ原の合戦で敗れた秀吉の家老であった宇喜多秀家とその付き人一行である。

上の写真は1606年に八丈島へ流人として到着した宇喜多秀家の御墓です。現在でも毎朝活けたような瑞々しい切り花が飾ってあります。毎日、切り花を供えている様子です。
秀家の回りにある縁者の小さな墓石の前にも切り花が供えてあります。いったい誰が供えるのでしょう?
秀家は秀吉の一字を貰った五大老の一人で朝鮮出兵で活躍し、帰国後は岡山城の大改修をし、備前・美作57万石の領主でしたが関ヶ原で敗将になってしまいました。八丈島へは長男の孫九郎や前田藩の医師、村田道珍斎や総数13名で島へ到着しました。流罪には正妻の豪姫以外の長男、医師、その他の付き人が許されたのです。その後の前田藩からの差し入れも許されました。
豪姫の実家は前田藩で、実子の居ない秀吉の養女になり、秀吉の重用する秀家の正妻になったのです。
前田藩は秀家存命中は勿論、子孫の宇喜多氏へ、2年毎に白米70俵と35両の現金、衣類、薬品、雑貨などを仕送りしていました。この仕送りは明治2年赦免になり東京へ帰るまで続きました。従って宇喜多秀家は島の人々にとっては感謝、尊敬される存在でした。
宇喜多一族は次第に増え、島の重要な家族として人々に大切にされました。
秀家のお墓の前の切り花だけではありません。歴史民俗資料館には宇喜多秀家の関連資料だけを展示している一つの部屋があります。
その他の流人たちも知的レベルも高く、島の文化へ大きな貢献をしたのです。
島の「歴史民俗資料館」発行の資料解説No.5には20人ほどの流人の名前を記し、島への貢献の内容を説明しています。カイコと、黄八丈と呼ばれる絹織物を伝えた人、サツマイモを伝えた流人、薩摩焼酎の作り方を伝えた人、詩歌管弦の指導をした風流な流人、などなどの名前を明記し感謝しています。中には大工の棟梁も居て、島でも弟子をとり、多くの大工を育てた人もいます。
これらを総称して「流人文化」といい、八丈島の人々は現在でも誇りにしています。

話は突然変わりますが2009年の1月末ころに八丈島を訪問した時、天候が荒れてしまい飛行機も船も欠航が続き私は島に閉じ込めれてしまいました。
孤島に流されたような気分になりました。すると周りの人々すべてが大切な存在として感じられるのです。太平洋に浮かぶ孤島だからこそ人間が一人一人が大切に思えるのです。
八丈島の人々が流人といえども善良な人々を大切にした気持ちが分かったのです。
八丈島のローカル文化は欠航という目に会って初めて少し実感したような気分になりました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)