後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今日は上野の西洋美術館の松方コレクションを見てきました

2015年01月07日 | 日記・エッセイ・コラム
65歳以上無料のうえ、写真撮影が許されているので楽しみながら写真を撮ってきました。今日は宗教画5点をご紹介いたします。
続きの「印象派絵画」と「近代抽象画」は追ってご紹介いたします。
なお松方コレクションの全ての絵画とその題目や制作年は、https://www.google.com/…/the-national-museum-of-western-art… にあります。
一番目の写真は最後の晩餐 (Undated)、制作: Marten de Vos
二番目の写真はゲッセマネの園 (c. 1570 (?))、制作: Giorgio Vasari
三番目の写真はキリストの磔刑 (First half of the 16th century)、制作: Joos van Cleve
四番目の写真は悲しみの聖母 (ca. 1655)、制作: Carlo Dolci
五番目の写真は貧しい漁夫 (Undated)、制作: Pierre Puvis de Chavannes

それにしても松方氏は西洋美術をの日本への紹介した偉大な人物だったので以下に紹介しておきます。そして六番目の写真は松方氏です。
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国立西洋美術館は1959(昭和34)年、フランス政府から日本へ寄贈返還された「松方コレクション」を保存・公開するために東京の上野公園尾に設立されました。
「松方コレクション」を築いた松方幸次郎(1865‐1950)は、明治の元勲で総理大臣も務めた松方正義の三男です。旧制一高の前身である大学予備門からアメリカに留学して、エール大学で法律の博士号を取得し、ヨーロッパ遊学を経て帰国後、父親の秘書官などを務めましたが、神戸の川崎造船所の創業者である川崎正蔵に見込まれ、1896年(明治29)年、同社の初代社長に就任しました。一時は神戸新聞、神戸瓦斯などの社長も兼ね、神戸商業会議所の会頭や衆議院議員にもなった人物です。
松方幸次郎が美術品の収集を始めたのは、第一次大戦中のロンドン滞在時のことです。大戦により造船で多大な利益を上げた松方は、1916(大正5)年から約10年の間にたびたびヨーロッパを訪れては画廊に足を運び、絵画、彫刻から家具やタペストリーまで、膨大な数の美術品を買い集めました。現在は東京国立博物館が所蔵する、パリの宝石商アンリ・ヴェヴェールから買い受けた浮世絵コレクション約8千点を含め、彼が手に入れた作品の総数は1万点におよぶと言われます。しかし、松方が美術にこれほどの情熱を傾けたのは、自らの趣味のためではありませんでした。彼は自分の手で日本に美術館をつくり、若い画家たちに本物の西洋美術を見せてやろうという明治人らしい気概をもって、作品の収集にあたっていたのです。
松方は購入した作品を持ち帰り、美術館を建てて公開する準備をしていました。その美術館は「共楽美術館」と名づけられ、松方が敬愛する友人で美術品収集の助言者でもあったイギリスの画家、フランク・ブラングィン(1867-1956)が設計案を作り、東京の麻布に用地も確保されます。しかし、松方の夢だった「共楽美術館」が日の目を見ることはありませんでした。1927(昭和2)年の経済恐慌が状況を一変させたのです。メインバンクの十五銀行の休業によって川崎造船も経営危機に陥り、松方は社長の座を降りて自らの財産を会社の財務整理にあてます。日本に運ばれていた美術品は数度にわたる展覧会で売り立てられ、散逸してしまいました。
松方が収集した美術品のうち、かなりの数がヨーロッパに残されていましたが、ロンドンの倉庫にあった作品群は1939(昭和14)年の火災で失われ、現在ではその内容や数さえも確かではありません。一方、パリに残された約400点の作品は、リュクサンブール美術館(当時のフランス現代美術館)の館長レオンス・べネディットに預けられ、彼が館長を兼任したロダン美術館の一角に保管されていました。この作品群は第二次大戦の末期に敵国人財産としてフランス政府の管理下に置かれ、1951(昭和26)年、サンフランシスコ平和条約によってフランスの国有財産となります。しかしその後、フランス政府は日仏友好のためにその大部分を「松方コレクション」として日本に寄贈返還することを決定しました。このコレクションを受け入れて展示するための美術館として、1959(昭和34)年、国立西洋美術館が誕生したのです。以下、http://www.nmwa.go.jp/jp/about/matsukata.html に続きます。













日本各地の豊かなローカル文化を考える(4)風の盆などの盆踊りは豊かなローカル文化

2015年01月07日 | 日記・エッセイ・コラム
一般的に文化というと芸術や宗教や学問を考える人が多いものです。そして文化は選ばれた専門家が創るものだけでなく大衆が支え伝承するものも重要だと思います。そのようなものに日本各地に伝承されている盆踊があります。そして盆踊りは地方ごとに違います。
盆踊りは元来、帰ってきた先祖の霊魂を慰めるために始まったといいます。
いろいろな盆踊の中で一番文化的に香りの高いものに富山県の八尾の「おわら風の盆」があります。実際に見てみると「風の盆」は静かで優雅です。しんみりとします。胡弓の音色が哀愁をおびて静かな夜の町へ流れます。帰ってきた先祖の霊魂を慰め、秋の強風を静めようとする踊り手の気持ちが心に伝わります。
所作が上品で、ゆっくりした音曲に合わせて優美に踊ります。女は笠を深くかぶり決して顔を見せません。なんというつつましさでしょう。姿が楚々として美しいのです。
そして男踊りはあくまでもいさぎよいのです。
町の家々は軒の低い昔風の造りで、人々は明かりを消して奥へ引きこんでいます。観光客だけが踊りの列を囲んでいます。誰も声を上げません。静かです。富山県の八尾の上品な地方文化です。このような地方文化を持っているところは多くないと思います。八尾の人々の高い品格を偲ばせます。
一番目、二番目、三番目の写真で風の盆の光景を示します。





写真の出典は「おわら風の盆画像集」です。検索すると沢山の写真が紹介してあります。
「風の盆」の名前には、越中・八尾の地理風土が深く込められています。
越中八尾は、地形的に強い風の吹く町です。 立山連峰を越えて日本海から吹く風は「ダシ」とよばれ、地域の植生や稲作業にさまざまな弊害をもたらしました。このため、富山の山間の地方では、風神を祀り風よけを祈願する「風の宮」などのお宮や祠が建てられました。
「風の盆」が踊られる新暦9月1日という時期は、この「風」と深くかかわります。
この盆踊の由来や歴史については、http://www.bonodori.net/zenkoku/owara_kazenobon/owara_rekishi.htmlをご覧下さい。
この「おわら風の盆」は元禄時代からありましたがその素晴らしい踊りの振り付けと伝承は昭和4年につくられた「おわら風の盆」保存会のきめこまかな努力によります。この保存会の組織化に関しては、八尾の医者で名門の川崎順二氏の働きがあったのです。四番目の写真が川崎順二さんです。

保存会の詳細は、http://www.owarahozonkai.jp/engisidou.html# にあります。
さて優雅な風の盆と対象的で、賑やかで楽しい盆踊りは、木曽の谷間にある郡上八幡の盆踊りです。踊りの振り付けが洒脱で軽妙です。曲も楽しいのです。例えば「春駒」という踊りはいかにも可憐で躍動感に満ちています。ほかにも「ヤッチク」「げんげんばらばら」など歌詞も曲も踊りも違うものが何曲もあります。郡上八幡に住んでいる人々の創意工夫が溢れています。連歌師の宗祇が滞在していた影響もあるのでしょうか?今でも宗祇を記念して「宗祇水」という名前の水場が町中にあります。少し騒がしい盆踊りですが、決して下品ではありません。踊りに参加している人々の楽しそうな顔を見て居るとこちらも楽しくなります。五番目の写真が郡上八幡の盆踊です。

さて私の住んでいる東京の多摩地方の小金井市の盆踊りはどんなものでしょうか?以前は空き地に高い櫓を組んで、その上で太鼓や三味線を弾き、横笛を吹きならし声の良い人が唄います。踊る人々がその歌に合わせて櫓の周りを回りながら簡単な手ぶりで踊ります。踊りの歌として、「東京音頭」というものを良く唄っていました。歌も踊りも単純で誰にでも参加できるようになっていました。実に簡単な盆踊りでした。
それが2、30年前から「阿波踊り」が輸入され、昔風の盆踊りが消えてしまいました。阿波踊りはテンポが速くて振り付けも難しく素人にな無理です。小金井では数十のグループが数ケ月かけてチームで訓練をします。体育館などで秘かに練習を重ねます。そして7月の末に多くの連(れん)が練習を重ねた踊りを披露するのです。早いテンポで一糸乱れぬ群舞をします。そして少しずつ通りを進んで行きます。小学生だけのチームがあります。若い男女のチームもあります。幼児、小学生、中高生、青年男女、老人男女と全ての年齢層を揃えたチームもあります。職場のチームも学校のチームも、そして町内会のチームといろいろあります。随分と練習を重ねるようで、見事な群舞です。あまり品が良いとは言えない振付けですが、道端のすぐ傍で見ていると感動します。そして考え込みます。「これは小金井の地方文化と言えるでしょうか?」とか「阿波踊りを無節操に輸入するこは恥ずかしい」とか考え込みます。しかし最近は気楽に、「小金井阿波踊りも小金井の誇らしいローカル文化です」という結論に至りました。ローカル文化も時代とともに変わって行きます。変わらないものも貴重な文化ですが、変わるものも重要なローカル文化です。
さて貴方の住んでいらっしゃる土地の盆踊りはどのようなものでしょうか?
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)