後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

菜の花にまつわる二つの追憶

2015年01月06日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は寒の入りです。小寒、大寒と続き間なく2月3日が節分で4日が立春です。
立春が過ぎれば梅が満開になり菜の花も咲きます。
そこで4年ほど前に東京の浜離宮で撮った菜の花畑の写真を思い出しました。
その3枚の写真をお送り致します。撮影は2011年3月10、奇しくも大震災の前の日でした。
東日本大震災の復興はまだまだですが、少しずつ復興が進んでいます。
そこで菜の花にまつわる二つの私の追憶をお送りしたいと思います。
幼少の頃の第二次世界戦争の間のことです。仙台市の自宅の庭には父が植えた菜の花に蝶が飛んでいました。春の暖い陽射しが蝶の白い羽根にあたり、キラキラしていました。そんな風景が心に焼き付いています。
短気で厳しかった父でしたが、草花へは根気が続き、庭には毎年、四季折々花が絶えませんでした。春になると一番先に菜の花と水仙が咲いていた庭を思い出します。空襲もあり、苦しい戦争中でしたが、我が家の庭だけは平和でした。1943年前後の楽しい追憶です。
そしてそれからずうっと後になって、1974年にドイツを独り旅をしていた時の思い出です。薄暗い列車のコンパートメントの窓から、低い雲に覆われた野や林を見て居ました。
春先でまだ冬の様な光景が淋しく延々と広がっているのです。列車が暗い憂鬱な針葉樹の林を抜けると、突然一面に菜の花畑が広がっていたのです。アッと息を呑んでしまいました。その花畑は明るい黄色で輝いています。中空に浮いているようにも見えます。
菜の花畑が暗い憂鬱な北国の冬を一気に吹き飛ばしているのです。感動しました。あの一面の菜の花畑の光景はこうしてキーボードを叩いている私の心に鮮烈に蘇っているのです。春の到来を告げる感動的な情景でした。当時のドイツでへの出張の緊張と苦しさが少し和らいだような気分になったことが忘れられません。
今年も、3月なれば浜離宮の菜の花畑が咲く季節になります。菜の花の満開が待ち遠しいです。






日本各地の豊かなローカル文化を考える(3)青森ねぶたを見た時の驚きと興奮

2015年01月06日 | 日記・エッセイ・コラム
青森の「ねぶた」を10年ほど前に初めて見た時の驚きと興奮は今でも強烈に覚えています。
青森地方に生き続けている縄文人の情念がほとばしるような武者絵です。その武者絵や馬や鬼の張子の中に明るい電球が入っていて夏の夜空を舞うのです。兎に角強烈な色彩と太い輪郭線の巨大な灯篭の舞う動きが神秘的で玄妙な動きをするのです。見ている人の魂を奪ってしまいます。この世の祭りでなくなるのです。
これぞ日本を代表する北国の素晴らしいローカル文化と断言できます。下にその青森の「ねぶた」の写真を3枚お送りします。特に3枚目の写真に写っている人間の大きさと「ねぶた」の大きさを比較して下さい。ねぶたの巨大さがお分かりになると存じます。
写真は「青森ねぶたの画像」をネット検索して見つけました。なお「ねぶた」か「ねぷた」かは東北地方の方言の違いで、どちでも良いのです。





さて何故私が興奮しながらこの文章を書いているのでしょうか?それをご理解頂くためには次のURLにある「青森ねぶたの動画」を是非ご覧下さい。特にその後半まで根気よく見ると、ねぶたの動きの不思議さや玄妙さが分かりのです。あなたの魂が奪われると信じています。
https://www.youtube.com/watch?v=Q--3CDfWADI (青森ねぶた祭りの最終日)。
この動画さえ終わりまでご覧頂ければ私は深い満足にとらわれます。
青森ねぶたこそ日本を代表する北国の素晴らしいローカル文化という表現に同感して頂けると思います。
この先はお読み頂かなくても結構ですが、以下に青森に生まれ育った棟方 志功(むなかた しこう)の作品がねぶたの影響を深く受けている様子をご紹介したいと思います。そして末尾の参考資料には古くからあったねぶたの変遷の歴史を詳細に書いた資料をご紹介いたします。
さて、棟方 志功は1903年(明治36年)、刀鍛冶職人である棟方幸吉とさだの三男として生まれました。豪雪地帯出身のため、囲炉裏の煤で眼を病み、以来極度の近視となったと言われています。数々の名作を残し1975年に没しました。
少年時代にゴッホの絵画に出会い感動し、「ゴッホになる」と芸術家を目指したという話は有名です。少年のころから青森市内の善知鳥神社でのスケッチを好んだという話も残っています。棟方の肉筆画作品は「倭画」と言われ、国内外で板画と同様に評価を受けているそうです。
第二次世界大戦中、富山県に疎開して浄土真宗にふれ、『阿弥陀如来像』『蓮如上人の柵』『御二河白道之柵』『我建超世願』『必至無上道』など仏を題材にした作品が特に有名です。
大のねぶた好きであり、作品の題材としても描いています。そして中には歓喜する自身の姿を描き込んだものもあるそうです。
棟方 志功の作品の多くは版画です。暗い北国の風景を表現した版画や天真爛漫とした明るい女性の版画が多数あります。そしてエネルギーのほとばしるような絵画もあります。
しかし全ての作品の低音基調は暗く寒い冬の北国に棲みついているような情念と思います。その情念とは何だと問われても言葉では説明出来ないのです。東北地方に生まれ育った私には判る心の在り方です。それは都会にたいする反発心や洗練されたものに対する嫌悪感などいろいろな心理が混じり合ったものです。それはさておき、下に棟方 志功の作品の写真を3枚お送りいたします。





棟方 志功の作品の写真はネットの上で多数見ることができますので他の作品も是非ご覧下さい。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==============
青森ねぶたの歴史:
C:\Users\Goto\Desktop\ねぶたの由来・変遷.htm
青森ねぶた祭は、七夕祭りの灯籠流しの変形であろうといわれていますが、その起源は定かではありません。
 奈良時代(710年~794年)に中国から渡来した「七夕祭」と、古来から津軽にあった習俗と精霊送り、人形、虫送り等の行事が一体化して、紙と竹、ローソクが普及されると灯籠となり、それが変化して人形、扇ねぶたになったと考えられています。
 初期のねぶたの形態は「七夕祭」であったのでしょう。そこに登場する練り物の中心が「ねぶた」と呼ばれる「灯籠」であり、七夕祭は7月7日の夜に穢れ(けがれ)を川や海に流す、禊(みぞぎ)の行事として灯籠を流して無病息災を祈りました。これが「ねぶた流し」と呼ばれ、現在の青森ねぶたの海上運行に表れています。
 「ねぶた(ねぷた・ねふた)」という名称は、東北地方を始め、信越地方「ネンブリ流し」、関東地方「ネブチ流し・ネボケ流し・ネムッタ流し」等の民族語彙分布と方言学から「ねむりながし」の眠りが「ねぶた」に転訛したものと考えられています。
以下省略。