後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

時代とともに増加した日本人の自然葬への憧れ

2016年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム
宗教は人間の精神生活を豊かにします。愛する人々の死別の悲しみをやわらげてくれます。私自身も宗教というものが大好きです。キリスト教も仏教も神道も大好きです。
ですから最近の日本人の宗教離れ、特に寺院仏教から離れる現象を悲しい気持ちで見守っています。
悲しいことですが、社会の変化や人々の考え方の変化は冷静に客観的に見て、静かに受け入れています。

日本の経済の高度成長にしたがって先祖代々のお墓を郷里の寺から、自宅のそばの共同墓地へ移す人が増えて来ました。民間会社が開発した無宗教の大型共同墓地が全国的に流行し、そこに自分のお墓や先祖代々のお墓を作る人が急に増加したのです。
江戸幕府のキリシタン禁教政策の一つとして全ての家はお寺の檀家になっていたのです。その風習は明治、大正、昭和になっても連綿と続いていた日本の仏教的風習でした。
その仏教的風習が1970年代そして1980年代と次第に大きく崩れ出したのです。
この社会的風潮をもって日本人の仏教離れや宗教離れと判断するのは少し厳密性に欠けるかも知れません。しかし大雑把に言うと、日本人の仏教離れや宗教離れの具体的な一例と考えられます。そこでこの社会現象について少し詳しく書いてみます。

檀家制度が崩れ、多くの人々はお寺とは縁が切れ出しただけではありません。宗教抜きの葬儀を行い、宗教抜きの遺骨の取り扱いが流行のように広がり出したのです。
この宗教離れの葬儀の例は樹林葬と海への散骨葬など自然葬のことです。それは大雑把に言って1990年頃から生まれた日本の新しい社会現象でした。
1990年頃、以前は、遺骨を決められた墓地以外に埋めると、刑法190条により「遺骨遺棄罪」になったのです。この刑法を支えているのが戦後の昭和23年に出来た「墓地、埋葬等に関する法律」の規定です。しかし1991年に法務省と厚生省がこの法律をゆるめたのです。
1991年に「葬送の自由をすすめる会」が神奈川県の相模湾で海への散骨をしたのです。その後、この会は全国に12の支部を作り、会員も12000人になります。
15年後の2006年までに全国で1137回の自然葬を行い、1945人の遺骨を自然へ還しています。現在は毎年100回程の自然葬を行い200人ほどの遺骨を自然へ還しています。

1991年に、法務省と厚生省は新しい解釈を発表し、「葬送の自由をすすめる会」の葬送は違法ではないという趣旨を公にしたのです。
適切な方法なら海への散骨だけでなく樹林葬や桜葬や山岳などなどへの散骨葬は違法でないという解釈です。しかし「適切な方法」は具体的に規定していません。
この法務省や厚生省の法律への新見解以後、多くの宗教団体や業者が「自然葬」を斡旋し、代行する事業を始めたのです。
このような自然葬を行ってくれる会社は急増し、現在は一つの大きなビジネス分野として育っています。
例えば株海の散骨・海洋散骨「グランブルーセレモニー」業務式会社ジール(http://www.sankotsu.net/company.html)は北海道の知床から沖縄の石垣島まで全国の都道府県に事業を展開し、海の散骨・海洋散骨「グランブルーセレモニー」業務を実施しています。
一方、樹木葬や樹林墓地の全国情報は、http://en-park.net/books/571 に掲載してあります。
それによると樹木葬とは、1999年に岩手県の祥雲寺(現、知勝院)ではじめて行われたそうです。樹木を墓標(目印)として遺骨を埋葬し、供養する方法です。そして里山型の樹林墓地もあります。
この方法では都市部から離れた山林など広い墓域で埋葬されます。自然と一体になるイメージが強く、一見するとどこがお墓にあたる場所がわからないほど自然に溶け込んでいます。里山の環境保全に繋がります。

そこで最後に東京都立小平霊園の樹木葬について説明いたします。
この都立霊園では末尾の参考資料の(3)に示したような条件で自然葬の受付をしているのです。

さてところで樹林葬式を希望している人はどの位いるのでしょうか?
都立霊園の統計によると、東京都では毎年ほぼ10万人が死亡していて、そのうち25000人位の人が散骨を希望しているそうです。
私は2012年の7月に、都立小平霊園の管理事務所を訪問し、樹林墓地の実態について取材して来ました。
管理事務所の話では、2012年3月に10700体の遺灰を埋蔵可能な樹林墓地が完成し、2012年には試しに、500人の募集をしました。それに対して5000人の希望者があったそうです。平成26年からは本格的に多数の募集をする予定だそうです。(小平霊園の樹林葬については参考資料の(3)も是非ご覧下さい。)
総合的に観察すると自然葬はますます増加する傾向があると考えられるのです。

以下に自然葬に関連する写真を示します。

1番目の写真は、2012年7月に撮って来た都立小平霊園の樹林墓地の写真です。樹林墓地の入り口の門から撮った写真です。

2番目の写真はその中の一段高くなった芝生を示しています。粉状の遺灰は水に溶ける紙の容器に入れ、この芝生の下に埋葬します。

3番目の写真は、海へ散骨するヨットの写真です。
ヨットの上から散骨してくれる会社は、風という会社:http://sankotsu-kaze.com/about/index.html です。 

そして4番目の写真は海への散骨をしているある会社のモーターボートの写真です。写真の出典は、7つの海で海洋散骨:http://shizensou.com/ です。

さて、一般的に、1990年前後のバブル経済の崩壊から後を「伝統文化の変革期」と私は定義したいと思います。それは江戸時代から明治、大正、昭和と続いた日本人の伝統的な価値観や民族特有の文化がどんどん変化し出した時期だからです。
いろいろな新しい社会現象が起きていますが、今日はその一例として「自然葬の普及」について書いてみました。
皆様は自然葬をどのようにお考えでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料======================
(1)自然葬を行っている団体の数例:
風という会社:http://sankotsu-kaze.com/about/index.html
NPO葬送の自由を進める会:http://www.shizensou.net/
家族葬の会:自然葬(海洋葬・里山葬):http://www.npo-kazokusou.net/support/nature.html
7つの海で海洋散骨:http://shizensou.com/
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(2)自然葬に要求される必要な条件:
1、火葬にした遺骨は必ず米粒以下の粒子か粉にすること。一見して遺骨と判らないようにし、海水中や土中へ溶けやすい状態にすること。(遺骨はリン酸カルシュウムが主成分で水には難溶性です)

2、海への散骨は海水浴場や湾内の養殖筏の近辺はいけない。沖でも漁場に使われる海域はいけない。風評で魚が売れなくなることへ充分配慮する。

3、陸上での散骨は土地の所有者の承諾を得ること。自分の所有する山でもキノコや山菜取りの入会権へ充分配慮する。自分の別荘の庭に散骨するのは別荘が他人の手に渡った場合についても充分な配慮をする。(アメリカでその為に不動産価格が下がって裁判になった例があるそうです。)

4、国有林は広大で散骨に適しているが、管理している農水省や国土交通省の明確な見解が発表されていない。NPO葬送の自由を進める会が現在、国有林の散骨葬への解放運動をしている。

僻地の町や村の所有する山林はその役場に願い出ると許可される場合もあるそうです。
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(3)都立小平霊園の樹林葬式の詳細:
都立小平霊園の場合;費用は粉状の遺骨で持ち込めば44000円です。纏めて44000円支払えば、以後一切の費用は不要です。粉状でない普通の遺骨の状態で持ちこめば134000円です。
遺骨を粉状にするには火葬場に頼むとしてくれるそうです。設備が無くて粉状に出来ない火葬場もあるので、あらかじめ相談の上火葬を頼むことが肝要だそうです。
遺灰は水に溶ける紙製の容器に入れ、何個か纏めて樹林に囲まれた芝生の中に埋めるそうです。30年間そのままにして土中へ自然に混合するのを待ちます。30年後に残った遺灰はまとめて共同埋蔵します。
埋葬後、故人へ花や線香を供えるための献花台は用意するそうです。詳しくは管理お事務所、電話:042-341-0050へお聞き下さい。
以上は東京都の場合ですが、全国の市町村役場で管理している墓地や、お寺が管理している墓地でも急速に樹林葬墓地が普及していると想像できます。

日本でイスラム過激派のテロが起きない決定的な理由・そのことを知らな過ぎる日本人

2016年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカやフランスでイスラム過激派の残忍なテロが起きています。
日本にも多くのイスラム教徒が住んでいます。多くは中東やパキスタンやインドネシアから来た人々です。
ですからイスラム過激派によるテロが起きても不思議ではありません。
しかし日本ではイスラム過激派によるテロが起きていません。
その理由は警察当局の厳しい取り締まりが考えられます。しかしもっと本質的で決定的な理由があると私は信じています。
その決定的な理由とは、中東のイスラム諸国は実は熱烈な親日国であることです。
このことを知らない日本人が多いようなので、今日はそのことを簡単にご紹介したいと思います。

多くの日本人は知りませんが、中東のイスラム諸国は実は熱烈な親日国なのです。仕事でエジプトや中東のイスラム諸国に駐在していた日本人はこのことをよく知っています。
しかし日本のマスコミはイスラム諸国が親日的な事実をあまり報道しません。
2001年9月11日のアメリカでの同時多発テロ以後、アフガニスタンを占領する戦争をしたり、イラク戦争を実行したアメリカに気を使ってアラブ諸国と日本の友好関係の報道は自粛しているのかも知れません。
兎に角、日本のマスコミはイスラム諸国の動向をあまり報道しないのが伝統のようになっているのです。
しかしエジプトやトルコをはじめ、イラン、ヨルダン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、などなどのイスラム諸国は熱烈な親日国なのです。
イスラム諸国の人々が日本人を尊敬し友好的な理由を以下のような歴史的な3つの理由があるためです。
(1)ヨーロッパのキリスト教の国々は11世紀、12世紀に十字軍を中近東に送り込み、現在のベイルート、ヨルダン、シリア、イスラエル、などなどの土地に数多くの十字軍国家を作り、残虐な統治をし続けたのです。
十字軍が築いた堅固な城が現在でも中近に残っています。
日本ははるか遠方に存在する国だったので勿論、十字軍は送れませんでした。この件に関して、日本は完全無罪です。
(2)日本は仏教国なので一神教のキリスト教とイスラム教との間の戦争には完全に中立的な存在なのです。
(3)イギリスの18世紀の産業革命以後に、圧倒的な武力を持つようになったヨーロッパ諸国とロシアが、中近東のイスラム諸国を保護国や植民地にしました。
その憎いロシアを日本は日露戦争で破ったのです。ロシアに権益を奪われていたイランをはじめイスラム諸国が拍手喝采をしたのは当然です。
そして第二次世界大戦では日本は勇敢にもアメリア、イギリスに立ち向かい、大きな損害を与えたのです。
日本は敗けましたがこの大戦争のお蔭で、インド、パキスタン、エジプト、イラン、イラク、ヨルダン、サウジアラビアなどなどの諸国が独立国家になれたのです。当然のことながら、これらの国々は日本へ深く感謝しています。

以上のよう歴史的な事情は宮田 律著の「イスラムの人は何故日本人を尊敬するのか?」という本に書いてあります。
その本の内容は岡井盛夫さんという方が要約して紹介しています。
(http://homepage3.nifty.com/morrio/back1/islam/miyataislam.html)
その詳細は末尾の参考資料に書いてあります。
ここでは二つだけをご紹介します。
(1)19世紀以降、イスラム世界はヨーロッパの帝国主義に侵食されました。栄華を誇ったオスマン帝国も、イギリス、フランス、ロシア諸国に進出され、アラブ地域は、イギリス、フランスの帝国主義勢力に分割支配されたのです。 ところが、アジアの小国、日本がロシアとの戦争で勝利します。イスラム世界から、一斉に称賛の声が上り、日本は、ヨーロッパ帝国主義に抵抗する国々にとって希望の光となったのです。
(2)イラク戦争の際、自衛隊は「人道復興支援」のためイラク南部の都市サマーワを中心に活動して2006年7月に撤収します。現地誌「サマーワ新聞」は、自衛隊員のことを「高い倫理を保持した人々」と形容しました。他国の人々のことを尊重し、他国民家庭や職業に敬意を払う立派な文明を伝統をもっている」、と絶賛したのです。

このようにイスラム諸国の人々は日本人を尊敬し非常に友好的なのです。
アラブ諸国と敵対するアメリカとの関係を気にするあまりこの事実を日本のマスコミはあまり報道しません。
報道しないもう一つの理由は日本人は明治維新以来、欧米から熱心に科学技術を学び、欧米の政治体制や資本主義を導入してきた事情にもよります。
イスラム諸国の多くは部族の首長が独裁的に統治し、中世さながらの遅れた国々なのです。民主主義も資本主義も随分と遅れている地域なのです。その理由で日本人が関心を持たないのでしょう。
アメリカは2001年の同時多発テロ以来、「テロとの戦い」を宣言し、イスラム過激派への攻撃を続行しています。それに対抗してイスラム過激派は欧米諸国でテロを実行し続けています。
もし日本政府が親日的なイランやアラブ諸国と協力すれば世界に平和をもたらすことが不可能ではありません。
そのような外交努力があまりなされていない様子です。
日本国内でテロさえ起きなければそれで良いという考えだけ良いのでしょうか?
日本人がもっとイスラム教の国々と交流を深めるように祈っています。それが世界の平和共存に大きな貢献をすると信じています。
今日の挿し絵代わりの写真は3つのイランの世界文化遺産の写真です。イランには16件の世界文化遺産があります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真はペルセポリスの遺跡です。ダレイオス1世が建設に着手したのは紀元前520年と言われています。

2番目の写真はイランのエスファハーンにあるイマーム広場です。

3番目の写真はタブリーズの歴史的バザール施設 です。

上の3枚の写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3です。
===参考資料================
以下は宮田 律著の「イスラムの人は何故日本人を尊敬するのか?」の要約の抜粋です。
「イスラム世界と日露戦争」
(1)19世紀以降、イスラム世界はヨーロッパの帝国主義に侵食された。栄華を誇ったオスマン帝国も、イギリス、フランス、ロシア諸国に進出され、帝国は弱体化した。帝国の支配下にあったアラブ地域は、イギリス、フランスの帝国主義勢力に分割支配された。
ところが、中東でヨーロッパ支配が強化される一方で、アジアでは、小国日本がロシアとの戦争で勝利した。イスラム世界から、一斉に称賛の声が上がった。日本は、ヨーロッパ帝国主義に抵抗する国々にとって希望の光となった。
(2)トルコのイスタンブールには、「乃木通り」や「東郷通り」がある。トルコは、オスマン帝国の中心であった。そのオスマン帝国の弱体化の一因は、北から進出してきたロシアであった。オスマン帝国は、露土戦争(1877-78)で惨敗した。オスマン帝国は長年ロシア帝国主義の進出に苦しめられたから、トルコ人はロシアに怨念を抱いている。そのロシアに、日本が勝利した(日露戦争)ことで、日本を称賛する感情が沸騰した。トルコ人は、日本人に対し、強い親愛の情を持った。
(3)日露戦争の影響で、トルコでは、「トーゴー」「ノギ」「ジャポン」という名前を子どもにつける人まで現れた。
(4)ムスタファー・カーミメル(1874-1908)は、エジプトの民族主義者である。彼は著書『昇る太陽』の中で、「日本の歴史こそ、東洋の諸国に最も有益な教訓を与えてくれるものと信じる」、と書いている。
(5)エジプトの詩人・ハーフェズ・イブラホヒーム(1872-1932)は、日露戦争の従軍看護婦のことを称賛し、「日本の乙女」(長文の詩)を発表した。
(6)ロンドン亡命を終えてスエズ運河を通過中の孫文は、「おなたは日本人か」と尋ねられた。「中国人だ」と答えると、「中国は日本に近い。日本がロシアに勝ったことを我が事のように喜んでいると、日本人に伝えてくれ」、と頼まれた。
(7)タタール人のアブデュルレシト・イブラヒム(1852-1944)は、『ジャポンヤ』(日本旅行記)の中で、「日本人は改宗すれば、完璧なムスリムになれる」、と記述している。・・・・・中略・・・・・・

「イスラムの人の、日本人へのプラトニックラブ」
イスラム世界には、遊牧民の伝統がある。ラクダ、ラバを使ったキャラバンの移動の歴史である。例えばイラン人は、人懐っこく、気さくで、外来の者に親切、他人を思いやり面倒見がよい。なぜなら、酷暑の気候に暮らしていくためには、お互いが助け合って、よそから来た者をもてなす。それが砂漠の民の生活習慣であるから。彼らは見知らぬ人に向かって「今晩うちに来て食事をしないか」、と声をかける。
(1)1945年、イスラムの人は、原爆被災者への同情を示した。その後、日本の経済復興は著しく、高性能の家電製品や自動車が彼らから高く評価されている。イスラムの人にとって、日本人は「頭のよい民族」であり、ビジネスマンの礼儀に敬意を示し、倫理道徳の高さ、マナーの良さを尊敬している。イスラムの善は誠実、禁欲、慈悲である。彼らは「日本人はムスリムでもないのにイスラムの教えを実現している」、と考えている。
(2)日本人はシスティマチツクに働いている。仕事を中途半端に終わらせない。アブダビのムハンマド皇太子は「日本の教育、しつけは優れている。その手法をアブダビの教育に反映させたい」、と評価し具体化している。
(3)エジプトも親日的国家。ジャーナリストのモハメッド・ヘイカルさんは、「日本とアラブ世界の間には、プラトニックラブとも言うべき感情がある」、と語った。
(4)イランの新年は、「ノールーズ」という。都会に出たイラン人は一斉に里帰り、家族の結びつきを大事にする。衣服を買ったり大掃除をしたりする。(何か昔の日本に似ている)
(5)イランは、かってアケメネス朝、ササン朝などの古代文明が栄えた。文明の中心であつた。古代には、日本、中国、イランに至るまで文化の交流があった。
(6)イラク戦争の際、自衛隊は「人道復興支援」のためイラク南部の都市サマーワを中心に活動して2006年7月に撤収した。現地誌「サマーワ新聞」は、自衛隊員のことを「高い倫理を保持した人々」と形容した。他国の人々のことを尊重し、他国民家庭や職業に敬意を払う立派な文明を伝統をもっている」、と絶賛した。
(7)1984年のロサンゼルス・オリンピック、柔道無差別級の決勝で、エジプトのモハメド・ラシゥラン選手は山下泰裕選手と対戦した。山下選手は、右足に肉離れを起こしていたが、ラシゥラン選手はその右足を攻めることはなかった。優勝は山下選手であったが、ラシゥラン選手は「國際フェアープレイ」を受賞した。・・・・以下省略します。