現在、日本の仏教界で読まれている経典の殆どすべては唐の玄奘三蔵法師が645年にはるばるインドから持ち帰り、漢文に訳したものです。
ですから日本の多くのお寺の本堂の脇には、玄奘三蔵法師が経典を大きな箱に入れ、背負ってインドから帰る姿の像が立っています。
私は玄奘三蔵法師が好きで、以前からいろいろ本を読んでいました。
したがって玄奘三蔵法師の像を見ると大変嬉しくなります。 彼は日本の仏教界の大恩人なのです。
今日の話題はこの玄奘三蔵法師の遺骨の一部が日本に渡来して来た経緯をご説明し、その遺骨を中国側が返還を要求していることです。
そして今日の私の主張は遺骨を分けて一部は中国側へ返還し、残りは日本の寺院に今まで通り大切に祀るべしという主張です。これは私の宗教的信仰からの想いであります。
勿論、お釈迦さまの遺骨も玄奘三蔵法師の遺骨も学問的に本物とは考え難いものです。しかし信仰の上ではみな本物です。この私の想いを含めて如何に順々にご説明いたします。
(1)玄奘三蔵法師の遺骨の一部が埼玉県の慈恩寺に来た経緯
数年前に私は車を駆ってこのお寺を訪れ現在の住職さんと、先代の住職さんの奥様の話をお聞きしました。先代の住職さんが遺骨を受け取り、立派な玄奘塔を作り、遺骨をその塔の基部に祀ったのです。その玄奘塔も参拝して来ました。
それではまず5枚の写真をご紹介いたします。
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1番目の写真は西遊記の絵で、出典は、http://4travel.jp/travelogue/10706944 です。
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2番目の図面は玄奘が629年から645年までの16年間のインドへの旅の行程を示す図面で、出典は、「中国思想史」http://www42.tok2.com/…/yasu…/chinashisoushi/12tenjikuhe.htm です。
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3番目の写真は埼玉県にある玄奘塔の脇にある玄奘の像です。
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4番目の写真は玄奘塔の門です。
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5番目の写真は玄奘塔で、その基部に現状の遺骨の一部が埋まってあります。
数年前に私が訪れた埼玉県にある慈恩寺の玄奘塔はお寺から少し離れた畑の中にありました。
石塔は十三重で高さは約15mあり、慈恩寺が管理しています。
三蔵法師の遺骨が埼玉県に来た経緯を簡単に書きます。
三蔵法師の遺骨は、宋の時代に長安(現西安)から南京にもたらされた後、太平天国の乱で行方不明になりましたが、第2次大戦中に南京を占領していた日本軍が、偶然にも土木作業中に法師の頭骨を納めた石箱を発見(昭和17年)しました。
頭骨は、当時の南京政府(汪兆銘政権)に還付され、昭和19年に南京玄武山に玄奘塔を建立し奉安されるとともに、日本へも分骨されたのです。 ここで重要な事実は日本軍が発見し、日本の傀儡政権であった南京政府が日本へ贈ったという事実です。
この事実が最近の中国側からの返還要求の理由になっているのです。
それはさておき、日本へ渡った頭骨は、当初芝増上寺に安置されましたが、折しもその頃の東京は空襲の被害が広がり、一時埼玉県蕨市の三学院に移され、さらに三蔵法師の建立した大慈恩寺にちなんで命名された慈恩寺に疎開しました。 第2次大戦後、日本の仏教界が正式な奉安の地を検討した際に、三蔵法師と縁の深い慈恩寺が奉安に最適の地とされ、昭和25年に十三重の花崗岩の石組みによって玄奘塔が築かれました。 その後、慈恩寺から台湾の玄奘寺(昭和30年)や奈良の薬師寺(昭和56年)へも分骨されています。
この遺骨は考古学的にも文献学的にも本物であるという証明は不可能です。
(2)中国の反日感情による三蔵法師の遺骨の返還要求
2005 年 4 月の東京新聞の報道が以下のように示してあります。
「国内2寺院に眠る三蔵法師の霊骨、『反日』飛び火 仏教界で騒動に」;
http://www.asyura2.com/0505/asia1/msg/111.html
「西遊記」の三蔵法師として有名な玄奘法師の頭骨片が、日本の二つの寺院に存在する。戦時中、南京政府から「日中友好」で贈られたものだ。だが、中国の仏教界から「当時の南京政府は日本の影響下にあった傀儡(かいらい)政府。事実上、日本が強制的に持ち帰った」と、返還を求める声が出る。反日デモが続く中、インターネット上には「日本は泥棒」の記述も。霊骨をめぐる騒動の行方は-。
「『玄奘法師の霊骨を返してほしい』という声が、中国の仏教界から噴出している。日本が戦利品として持ち帰ったもので、自主的に返還すべきだという主張だ。北京や洛陽などの寺院から『返還されればウチにほしい』という争奪戦も起きている」
玄奘法師の正式の墓がある中国の興教寺(西安市)と交流があり、同寺の名誉会員である受川宗央氏(70)は、霊骨をめぐる中国の現状を解説する。
玄奘法師の骨は、国内では慈恩寺(さいたま市)と薬師寺(奈良市)に奉安されている。骨が日本に渡った経緯は数奇だ。一九四二年、中国の南京を占領していた日本軍が工事中に石棺を掘り起こし、石棺に刻まれた記述から玄奘法師の骨と判明したという。
慈恩寺の大嶋見順住職(79)によると、日本軍は骨を南京政府に引き渡し、南京政府が一部を日本仏教連合会(現・全日本仏教会)に贈呈。四四年、日本に運ばれ、戦災を避けるために慈恩寺に預けられた。
・・・中略・・・
反日感情が高まる中国内のネット上の書き込み内容も激しい。
「『日本は玄奘の霊骨を盗んでいった泥棒』という過激なものもある。玄奘がインドから持ち帰った教典翻訳の拠点とした(中国の)大慈恩寺のHPにも『傀儡政府との取り決めで持ち去った』と記されている」と話すのは、国内の主要な宗派が加盟する全日本仏教会の幹部だ。・・・以下省略・・・
(3)日本、台湾、中国各地にある玄奘法師の遺骨に関する学問的研究
坂井田夕起子『誰も知らない『西遊記』 玄奘三蔵の遺骨をめぐる東アジア戦後史』 龍渓書舎,
この本の概要は、ある図書館員の「読書日記」2013に紹介してあります。
http://tsysoba.txt-nifty.com/booklog/2014/04/2013-b6a1.html
目次
序章 /三つの『西遊記』(pdfファイルでご覧いただけます) 玄奘はなぜ日本にやってきたのか
第一章 玄奘、南京で発見される/遺骨の発見と日本分骨の謎/玄奘の遺骨は本物か?/玄奘塔の再建と日本への分骨
第二章 玄奘、日本へわたる/“西遊記の玄奘さま”慈恩寺へ/水野梅暁と玄奘/玄奘三蔵霊骨塔の完成/奘公の舎利いずこに在りや?
第三章 玄奘、台湾へわたる/高森隆介と玄奘の遺骨/戦後台湾の「中国仏教会」/台湾への分骨
第四章 玄奘、日本各地を旅する/藤井草宣と菅原恵慶の告発/埼玉名栗の鳥居観音/大阪岸和田の靖霊殿/青森弘前の忠霊塔/青森浪 岡の薬王院/兵庫篠山の少林寺
第五章 玄奘、中国で政治に翻弄される/玄奘、中国各地を旅する 南京 北京 天津 四川 広州/玄奘、中国革命に翻弄される
第六章 玄奘、日本と中国そして台湾を結ぶ/日華仏教文化交流協会の成立/奈良の薬師寺/台湾の玄奘大学
(4)信仰の対象としてのお釈迦さまの遺骨や三蔵法師の遺骨の真贋は問うべきではない!
さて最後に私の主張を書かせて下さい。
仏舎利塔とはお釈迦さまの遺骨の上に建てた塔です。そして日本でよく見られる五重塔の中心の柱の下にはお釈迦さまの遺骨が埋まってあります。ですから仏教の信者が五重塔に手を合わせて拝むときはお釈迦さまの遺骨を拝んでいるのです。
勿論遺骨は本物ではなく蝋石で作った米粒のようなものだそうです。そこでご飯のことを隠語で「舎利」とも言います。
私はカトリックなので日曜日毎にイエス様の肉体の一部を聖なるパン(聖餅)として神父さまから頂いて食べます。勿論、聖餅はイエス様の肉体ではありません。しかし私は肉体の一部と想います。
ですからお釈迦さまの遺骨や三蔵法師の遺骨が偽物でもその真贋を問うべきでないと想います。
さてそれでは日本にあるという三蔵法師の遺骨は中国側へ返すべきでしょうか?
答えは簡単です。武力で奪ったものは返したほうが良いに決まっています。しかし中国側に日本人の篤い信仰を説明して遺骨の一部を残して貰えば良いのです。同じ仏教を篤く信仰しているのなら中国側も絶対に協力する筈です。
以上が中国の返還要求をしている日本にある玄奘三蔵法師の遺骨への私の想いです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)