今日は久しぶりに快晴です。碧い空が広がり、庭の木々の緑が風に揺れています。
こういう光景を見ると、嗚呼、今日も幸せだなあという想いが沁々と胸に広がります。
そこで数日まえに趣味人倶楽部の「きみさん」という方から頂いた宿題の答えを書くことにしました。
まずその方のコメントをご覧下さい。
・・・極く一般の人達の この いばらの道を生きて行く為に 何を信じて日頃 生きる事に精根を使っておられるか?、が知りたいのです。 若い時は体も元気で気力も旺盛、趣味にもボランティアにも力を注げる。 そしてそれが生き甲斐にも繋がり 生きる充実感を体得出来ます、何もこれと言う悩みや困難な問題が無ければ 毎日を自分のやりたい事でおおかた充足した人生を送る事は可能です。
こんな場合ばかりが一生概続けばいいんですが、そうはいかないのが現実の人生というものの実態です そこで・・生きると言う事は まァそんなもの!と悟った人は それはそれでいいんじゃないですか。しかし その ”生きる” と言う事には何かこれと言う『自分の信じるもの』が無いと何の為に毎日あくせくしているのか??と立ち止まって考えてしまう事が普通では出て来るのではないかと思うのです。
そう云う意味で ”何を信じて毎日を暮らし生きて居られるのでしょう?” とお尋ねした次第です。・・・
このようなご質問に答えを出すために一週間ほど考えました。
その結果、自分が生きていて良かったと感じる場合の一つの例を書いてみたいと思います。
そのような感じをもつことが高齢者の輝くような生きがいなのだと信じています。
そしてそのように感じることが宗教と関係が有るのか否かという問題を書いてみたいと思います。
まず下の写真をご覧ください。
この1番目の写真は森の中の小屋へ上っていく道の左右にある田圃の光景です。田植えの終わった水田の水面に向こうの雑木林の影が静かに映っています。
このような光景を見ると幸せを強く感じます。同時に輝くような生きがいを感じるのです。
このような感じ方は若い時はありませんでした。高齢になってから感じるようになったのです。
2番目の写真は田圃の傍で自然に茂って咲いていアカシアの花です。眺めると 幸せを感じます。アカシアも人間と同じように生きているのだと感じるのです。
3番目の写真は道路をさらに森深く上って行った所に咲いていた藤の花です。人間が世話をしなくても雑木に絡んで上の枝に垂れ下がりながら美しく咲いています。人間が見なくても森のあちこちに咲いています。
4番目の写真は野生のウツギでしょうか?森影に何気なく咲いています。
5番目の写真は鮮やかな色合いの山ツツジの写真です。ツツジやサツキはよく盆栽でなっていますが、このうように自然林に中に咲いているのを見ると沁々と幸福感につつまれます。そして上の5枚の写真にあるような風景をみると輝くような生きがいを感じるのです。
さてこのように自然の風景を見て喜び、幸せを感じ、それが生きがいになることは宗教と関係があるのでしょうか?
答えは簡単です。無いのでしょう。あるいはあるのかも知れません。
宗教を信じている人にとっては関係があると感じることでしょう。仏教の悟りの境地に時々なれる人は自然の美をより一層強く感じるかも知れません。風景の美しさの向こうに観音様が見えるかもしてません。
キリスト教を信じている人は自然の美しさを見て神の偉大さを感じるでしょう。太陽も星も山も川も全て神様が創ったのです。そうすれば自然の美の向こうに神を見ます。神の永遠の命を感じます。そういう風に感じれば風景の美と宗教は関係があるかも知れません。
無宗教と自称している人も風景を美しいと感じます。それは無意識のうちに自然信仰と関係があるかもしれません。
このように書くと不思議な感じがします。書いたことは全て観念論です。私の主観的な思い込みです。
ですから野暮な批判は勘弁してください。読み流して忘れて下さい。「きみさん」のご質問の答えてになっていなくてご免なさい。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
こういう光景を見ると、嗚呼、今日も幸せだなあという想いが沁々と胸に広がります。
そこで数日まえに趣味人倶楽部の「きみさん」という方から頂いた宿題の答えを書くことにしました。
まずその方のコメントをご覧下さい。
・・・極く一般の人達の この いばらの道を生きて行く為に 何を信じて日頃 生きる事に精根を使っておられるか?、が知りたいのです。 若い時は体も元気で気力も旺盛、趣味にもボランティアにも力を注げる。 そしてそれが生き甲斐にも繋がり 生きる充実感を体得出来ます、何もこれと言う悩みや困難な問題が無ければ 毎日を自分のやりたい事でおおかた充足した人生を送る事は可能です。
こんな場合ばかりが一生概続けばいいんですが、そうはいかないのが現実の人生というものの実態です そこで・・生きると言う事は まァそんなもの!と悟った人は それはそれでいいんじゃないですか。しかし その ”生きる” と言う事には何かこれと言う『自分の信じるもの』が無いと何の為に毎日あくせくしているのか??と立ち止まって考えてしまう事が普通では出て来るのではないかと思うのです。
そう云う意味で ”何を信じて毎日を暮らし生きて居られるのでしょう?” とお尋ねした次第です。・・・
このようなご質問に答えを出すために一週間ほど考えました。
その結果、自分が生きていて良かったと感じる場合の一つの例を書いてみたいと思います。
そのような感じをもつことが高齢者の輝くような生きがいなのだと信じています。
そしてそのように感じることが宗教と関係が有るのか否かという問題を書いてみたいと思います。
まず下の写真をご覧ください。
この1番目の写真は森の中の小屋へ上っていく道の左右にある田圃の光景です。田植えの終わった水田の水面に向こうの雑木林の影が静かに映っています。
このような光景を見ると幸せを強く感じます。同時に輝くような生きがいを感じるのです。
このような感じ方は若い時はありませんでした。高齢になってから感じるようになったのです。
2番目の写真は田圃の傍で自然に茂って咲いていアカシアの花です。眺めると 幸せを感じます。アカシアも人間と同じように生きているのだと感じるのです。
3番目の写真は道路をさらに森深く上って行った所に咲いていた藤の花です。人間が世話をしなくても雑木に絡んで上の枝に垂れ下がりながら美しく咲いています。人間が見なくても森のあちこちに咲いています。
4番目の写真は野生のウツギでしょうか?森影に何気なく咲いています。
5番目の写真は鮮やかな色合いの山ツツジの写真です。ツツジやサツキはよく盆栽でなっていますが、このうように自然林に中に咲いているのを見ると沁々と幸福感につつまれます。そして上の5枚の写真にあるような風景をみると輝くような生きがいを感じるのです。
さてこのように自然の風景を見て喜び、幸せを感じ、それが生きがいになることは宗教と関係があるのでしょうか?
答えは簡単です。無いのでしょう。あるいはあるのかも知れません。
宗教を信じている人にとっては関係があると感じることでしょう。仏教の悟りの境地に時々なれる人は自然の美をより一層強く感じるかも知れません。風景の美しさの向こうに観音様が見えるかもしてません。
キリスト教を信じている人は自然の美しさを見て神の偉大さを感じるでしょう。太陽も星も山も川も全て神様が創ったのです。そうすれば自然の美の向こうに神を見ます。神の永遠の命を感じます。そういう風に感じれば風景の美と宗教は関係があるかも知れません。
無宗教と自称している人も風景を美しいと感じます。それは無意識のうちに自然信仰と関係があるかもしれません。
このように書くと不思議な感じがします。書いたことは全て観念論です。私の主観的な思い込みです。
ですから野暮な批判は勘弁してください。読み流して忘れて下さい。「きみさん」のご質問の答えてになっていなくてご免なさい。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)