後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

高齢者の輝くような生きがい

2016年06月01日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は久しぶりに快晴です。碧い空が広がり、庭の木々の緑が風に揺れています。
こういう光景を見ると、嗚呼、今日も幸せだなあという想いが沁々と胸に広がります。
そこで数日まえに趣味人倶楽部の「きみさん」という方から頂いた宿題の答えを書くことにしました。
まずその方のコメントをご覧下さい。
・・・極く一般の人達の この いばらの道を生きて行く為に 何を信じて日頃 生きる事に精根を使っておられるか?、が知りたいのです。 若い時は体も元気で気力も旺盛、趣味にもボランティアにも力を注げる。 そしてそれが生き甲斐にも繋がり 生きる充実感を体得出来ます、何もこれと言う悩みや困難な問題が無ければ 毎日を自分のやりたい事でおおかた充足した人生を送る事は可能です。
こんな場合ばかりが一生概続けばいいんですが、そうはいかないのが現実の人生というものの実態です そこで・・生きると言う事は まァそんなもの!と悟った人は それはそれでいいんじゃないですか。しかし その ”生きる” と言う事には何かこれと言う『自分の信じるもの』が無いと何の為に毎日あくせくしているのか??と立ち止まって考えてしまう事が普通では出て来るのではないかと思うのです。
 そう云う意味で ”何を信じて毎日を暮らし生きて居られるのでしょう?” とお尋ねした次第です。・・・
このようなご質問に答えを出すために一週間ほど考えました。
その結果、自分が生きていて良かったと感じる場合の一つの例を書いてみたいと思います。
そのような感じをもつことが高齢者の輝くような生きがいなのだと信じています。
そしてそのように感じることが宗教と関係が有るのか否かという問題を書いてみたいと思います。
まず下の写真をご覧ください。 

この1番目の写真は森の中の小屋へ上っていく道の左右にある田圃の光景です。田植えの終わった水田の水面に向こうの雑木林の影が静かに映っています。
このような光景を見ると幸せを強く感じます。同時に輝くような生きがいを感じるのです。
このような感じ方は若い時はありませんでした。高齢になってから感じるようになったのです。

2番目の写真は田圃の傍で自然に茂って咲いていアカシアの花です。眺めると 幸せを感じます。アカシアも人間と同じように生きているのだと感じるのです。

3番目の写真は道路をさらに森深く上って行った所に咲いていた藤の花です。人間が世話をしなくても雑木に絡んで上の枝に垂れ下がりながら美しく咲いています。人間が見なくても森のあちこちに咲いています。

4番目の写真は野生のウツギでしょうか?森影に何気なく咲いています。

5番目の写真は鮮やかな色合いの山ツツジの写真です。ツツジやサツキはよく盆栽でなっていますが、このうように自然林に中に咲いているのを見ると沁々と幸福感につつまれます。そして上の5枚の写真にあるような風景をみると輝くような生きがいを感じるのです。
さてこのように自然の風景を見て喜び、幸せを感じ、それが生きがいになることは宗教と関係があるのでしょうか?
答えは簡単です。無いのでしょう。あるいはあるのかも知れません。
宗教を信じている人にとっては関係があると感じることでしょう。仏教の悟りの境地に時々なれる人は自然の美をより一層強く感じるかも知れません。風景の美しさの向こうに観音様が見えるかもしてません。
キリスト教を信じている人は自然の美しさを見て神の偉大さを感じるでしょう。太陽も星も山も川も全て神様が創ったのです。そうすれば自然の美の向こうに神を見ます。神の永遠の命を感じます。そういう風に感じれば風景の美と宗教は関係があるかも知れません。
無宗教と自称している人も風景を美しいと感じます。それは無意識のうちに自然信仰と関係があるかもしれません。
このように書くと不思議な感じがします。書いたことは全て観念論です。私の主観的な思い込みです。
ですから野暮な批判は勘弁してください。読み流して忘れて下さい。「きみさん」のご質問の答えてになっていなくてご免なさい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

北海道は本州とはあまりにも違う歴史の異文化圏

2016年06月01日 | 日記・エッセイ・コラム
始めに写真をご覧下さい。北海道の雄大な風景です。

上の1番目の写真は富良野の写真です。出典は、 http://turnthetide.blog.so-net.ne.jp/2012-02-18 です。

上の2番目の写真は昨年の10月に帯広で自分で撮った写真です。
写真のような北海道では動植物が本州以南と非常に違います。猿もイノシシも棲んでいません。クマはヒグマですし鹿も蝦夷鹿です。
北海道はこのように動植物が違うようにその歴史も本州以南と非常に違います。
今日は北海道の歴史を簡単にご報告したいと存じます。

日本の本州、四国、九州の旧石器時代は4万年前から12000年前までの28000年間、縄文時代は12000年前から紀元前300年前までの11700年間、そして弥生時代は紀元前300年から紀元後300年までの600年間と言われています。そしてその後は古墳時代を経て大和朝廷の時代へと続くわけです。勿論この時代区分は日本の地方、地方によって異なります。
しかし北海道の歴史は旧石器時代と縄文時代までは本州北部とまったく同じでしたが、それ以後の弥生時代や古墳時代は存在せず縄文時代が続きます。やがてオホーツク文化の影響の強い擦文模様の土器の時代になります。そしてオホーツク文化が北海道北半分に栄えます。特に網走地方にはモヨロ文化という特徴のあるオホーツク文化が栄えます。
そしてその後、鎌倉時代の頃になるとこの北海道北部のオホーツク文化が擦文土器文化と融合しアイヌ文化へと発展したと考えられています。その上、江戸時代では北海道南端の松前藩以外は藩閥体制が存在せずアイヌ民族の集落が栄えたのです。

北海道の歴史を本州以南の歴史と比較すると次のような特異性があります。
(1)本州以南にあった弥生時代や古墳時代は存在せず、縄文時代がそのまま続いた。
(2)3世紀から13世紀にかけてシベリア沿海や樺太や千島のオホーツク沿岸の文化が北海道の北部に栄え、オホーツク文化時代が出来たのです。
(3)オホーツク文化に平行して、北海道中央と南部では擦文式土器を特徴とする擦文文化が栄えたのです。本州の土師器の影響を受けたものでした。
(4)鎌倉時代ころに上のオホーツク文化と擦文文化が融合し、土器は衰退し、煮炊きにも鉄鍋を用いるアイヌ文化になって行ったと言われています。
(5)このアイヌ文化は明治時代まで和人の文化と融合せずに独自の文化圏を維持したのです。
以上のように北海道の歴史にはオホーツク文化や擦文文化やアイヌ文化が存在し、本州以南と比較すると随分異なった歴史を歩んだことになります。

それではオホーツク文化について少し詳しく見てみましょう。
オホーツク人は海に依存して暮らしており、北海道北部と樺太では漁業に、北海道東部では海獣を対象とした狩猟に重点がありました。流氷の影響を受ける道東が冬の漁業に適していなかったためと考えられています。秋にホッケ、冬にタラ、春にはニシンなどの海水魚類を対象とした網漁が行われます。アザラシ、オットセイ、トド、アシカなどの海獣も冬に得られます。夏にはカサゴ・ソイなど様々な魚を獲ったが、その量は冬より少なかったようです。遺物に描かれた絵や船の土製の模型から、オホーツク人が舟を操り、捕鯨を行っていたこともわかっています。
また、弥生時代以降になると本州と同様に家畜である豚と犬を飼い、どちらも食用にしていました。道東では豚飼育は少なく、熊(ヒグマ)をはじめとして様々な狩猟獣を狩っていたようです。毛皮獣の捕獲が多く、交易用の毛皮を入手するための狩りと考えられます。

有名な網走のモヨロ貝塚からは多数のオホーツク文化の遺物が発掘されています。
発掘された大型住居には、海獣、ヒグマなどの骨が丁寧に並べられていました。貝塚からは屈葬された人骨が多数見つかっています。多数出土した物には骨角器、土器、石器があり、また本州で制作されたとみられる鉄の刀(直刀・蕨手刀・毛抜形太刀など)や鉾、大陸から持ち込まれたとみられる青銅の鈴などもあったのです。土器や骨角器にはクジラ・イルカ、クマの彫刻が見られ、牙で熊など動物をかたどった像があり、中には優れた造形の牙製女性像もあるそうです。道具類の比重から海獣の狩猟に重点があったと推測されています。

擦文文化やアイヌ文化についてはよく知られているのでここでは省略いたします。
北海道の特徴は本州以南のような大きな民族の移動が無く、石器時代からアイヌ文化時代になっても同じ北方民族だったと考えられています。
それではここで縄文時代に作られたストーン・サークルの写真を示します。
下の3番目の写真がその北海道のストーンサークルです。

これは北海道の森町にあるストーンサークルです。
写真の出典は、http://aomori-jomon.jp/essay/?p=715です。
このストーンサークルの詳細は写真の出典に出ていますので、是非ご覧下さい。
さて縄文時代は北海道も北東北も同じ文化圏だったということを示すために秋田県のストーンサークルの写真を示します。



この4番目と5番目の写真は秋田県大湯で見つかった日本最大のストーンサークルの写真です。
この2枚の写真の出典は、http://www.kensoudan.com/firu-kita-y/ooyu2.htmlです。
このように独自の歴史を持つ北海道の明治維新のころの北海道人、すなわちアイヌの人の写真を示します。

この6番目の写真は稗や粟のような雑穀を栽培するための畑をアイヌの婦人が耕している様子を示しています。縄文時代から彼等は雑穀のおかゆを食べていたという説もあります。
北海道民族の写真はアメリカに多数あるのです。
大森貝塚の発見で有名なエドワード・モースが昔からの衣装を着ていたアイヌ人の写真を撮影しています。ボストンの近くのセイラムという港町にあるピーボディー博物館に展示してあるそうです。6番目の写真はエドワード・モースの撮ったアイヌの人が畑を耕している写真です。

さて、北海道の歴史については北海道教育委員会のHP(http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/bnh/maizou.htm)で明快に説明してあります。その内容は末尾の参考資料をご覧ください。

以上、北海道の歴史を要約すると以下のようになります。
大和朝廷が宮城県の多賀城まで領有するまでは、北海道と東北地方の北部は続縄文時代とそれに続く擦文文化時代だったと理解できます。
その頃の人々は日本という言葉も知らず、現在のような意味での国家と言う概念も無かったのです。
あるのは大和朝廷に従う人々と従わない蝦夷という区別でした。当時はまだアイヌ人という言葉すらなかったのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料============
(1)北海道教育委員会のHPの抜粋文;http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/bnh/maizou.htm
北海道には、弥生時代や古墳時代という時代区分がなかった。
 北海道は、本州と津軽海峡を挟み、気候も寒冷であるため、本州とはちがう独自の文化を育みました。本州でいう弥生時代、古墳時代の頃は、北海道は「続縄文時代」や「オホーツク文化期」(北海道史年表参照 PDF)を迎えていました。
 北海道に住むあなたの町にも、そのころの時代の遺跡があると思います。平成23年度に市町村で行われた発掘調査の概要を別ページで紹介しています。
 北海道立埋蔵文化財センターでは、色々な遺跡の様子や土器、石器、木製品、土偶などを展示公開しています。
 北海道立埋蔵文化財センターに、土器などを見に出かけませんか。

1  埋蔵文化財包蔵地数一覧
2  埋蔵文化財保護のための事前協議
3  重要文化財  ママチの土面
4  北海道の珍しい土器やアクセサリーなど
5  埋蔵文化財 Q&A
6  出土文化財を見ることのできる主な博物館・資料館
以下省略。

(2)擦文時代(さつもんじだい);https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%93%A6%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3
7世紀ごろから13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて北海道を中心とする地域で擦文文化が栄えた時期である。本州の土師器の影響を受けた擦文式土器を特徴とする。後に土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとってかわられた。

この時代、9世紀(平安時代前期)までは擦文文化と並行してこれとは異質なオホーツク文化が北海道北部から東部のオホーツク海沿岸に広がっており、その後13世紀(鎌倉時代後期)まではその系譜を継ぐトビニタイ文化が北海道東部にあって、擦文文化と隣り合っていた。トビニタイ文化はオホーツク文化に擦文文化が取り入れられたものだが、後期には擦文文化との違いが小さくなった。そこで、トビニタイ文化を擦文文化に含める考えがある。

時代と分布;
擦文式土器の使用の始まりは6世紀後葉から7世紀はじめ(飛鳥時代に相当)にあり、ここから擦文時代が始まる。前代の続縄文時代には、土器に縄目の模様が付けられたが、擦文時代には表面に刷毛目が付けられた。これは土器の表面を整えるため木のへらで擦ってつけたものと考えられており、これが擦文の名の由来である。この土器の表面調整技法は同時期の本州の土師器にも使用されており、この点にも土師器からの強い影響が窺える。土器型式では北大II式までは続縄文土器であり北大III式から擦文土器に含まれる。擦文土器は前代の続縄文土器の影響が残る時期のもの(6 - 7世紀、飛鳥時代)、土師器の影響を最も強く受け東北地方の土師器に酷似する時期のもの(7世紀後半 - 8世紀、奈良時代ころ)、擦文文化独特の土器に刻目状の文様が付けられる時期(9世紀、平安時代前期以降)のものに大別される。独特の刻目状の文様の土器を狭義の擦文土器とする研究者も存在する。

擦文文化からアイヌ文化への移行についてははっきりしたことがわかっていない。これは、確認された遺跡の数の少なさのせいでもあるが、土器が消滅して編年が困難になったせいでもある。11世紀から13世紀(平安時代後期から鎌倉時代後半)に終末を迎えたようである。

分布は現在の北海道を中心とする地域であるが、10世紀から11世紀にかけて(平安時代中期)青森県地方を中心とする北緯40度以北に擦文文化圏が広がったとする見解が複数の研究者から指摘されている。

生活:
擦文時代の集落は、狩猟や採集(狩猟採集社会)に適した住居を構え方をしていた。たとえば、秋から冬にかけてサケ、マスなどの獲物をとる時期には、常呂川や天塩川などの河口の丘陵上に竪穴住居の大集落、つまり本村を構え、他の時期には、狩猟などを営む分村を川の中流より奥に集落を作ったと考えられている。

擦文文化の人々は、河川での漁労を主に、狩猟と麦、粟、キビ、ソバ、ヒエ、緑豆などの栽培植物の雑穀農耕から食料を得ていた。わずかだが米も検出されており、本州との交易によって得ていたと考えられる。

擦文時代には鉄器が普及して、しだいに石器が作られなくなった。普及した鉄器は刀子(ナイフ)で、木器などを作る加工の道具として用いられたと考えられている。他に斧、刀、装身具、鏃、釣り針、裁縫用の針など様々な鉄製品が用いられた。銅の鏡や中国の銅銭も見つかっている。これら金属器は主に本州との交易で入手したが、北方経由で大陸から入ってきたものもあった。製鉄は行わなかったと見られるが、鉄の加工(鍛冶)の跡が検出されている。また青森県五所川原窯で作られた須恵器が北海道各地から出土している。

擦文文化の人々は方形の竪穴式住居に住み、川のそばに大小の集落を作って暮らしていた。前代の続縄文時代後半の住居は検出された例が極めて少なく、実態は不明である。擦文文化から本州の人々と同じくカマドが据えられるようになった。

伸展葬の土坑墓が一般的な埋葬形態である。8世紀後半から9世紀(奈良時代から平安時代前期)には、北海道式古墳と呼ばれる小型の墳丘墓が石狩低地帯(石狩平野西部と勇払平野)に作られた。東北地方北部の終末期古墳と類似しており、東北地方北部との多様な交流関係が窺える。