後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ひどく時代遅れになってしまった80歳の小生

2016年06月10日 | 日記・エッセイ・コラム
最近しきりに、80歳の自分が時代遅れになってしまったという想いが湧いてきます。
何故そういういうように思うのか分かりませんが、数日前に宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に関する小文を書いたときつくづくそんな想いが湧いてきたのです。
一つには「銀河鉄道999」は知っているが「銀河鉄道の夜」は知らない若い人々が多くなってきたからかも知れません。その上、「銀河鉄道の夜」には現在の人々には理解困難な部分が多いような記述が沢山あるのです。そのような作品が好きな自分は間違いなく時代遅れです。
今日は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を実例にして何故、自分がひどく時代遅れになったと感じれるかをご説明したいと思います。
まずこの「雨ニモマケズ」の内容に従って私は贅沢を望まず国家のために役に立つ人間になろうと思っていたのです。それは単なる思いだけで実行は出来ませんでしたが。
この考え方は戦後すぐに文部省の中学校の国定教科書のこの詩が掲載されていたことに影響を受けたお陰と思います。
私の中学校では特攻隊帰りの教師が教えていたので「国家の復興のため」を強調し過ぎたのかも知れません。
ところで最近考えてみると、私が目標にしていた「自分は質素な生活をして国家の為になる」という考え方が古いようです。
その上、この詩の内容が現在という時代に合わない部分があちこちにあるのです。それではこの詩を読んでみましょう。

「雨ニモマケズ」  宮澤賢治

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭の
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

上にはこの詩に続いて書いてあった賢治の信仰告白の部分をつけてあります。普通、この宗教的な部分は削除されています。

この詩の中で現在の時代とかけ離れた部分を3ケ所だけご紹介します。
(1)一日ニ玄米四合ト  味噌ト少シノ野菜ヲタベ
こんな食生活は現代離れし過ぎています。
(2)ヒドリノトキハナミダヲナガシ  サムサノナツハオロオロアルキ
この部分は賢治が日照り続きや寒い夏で東北地方の農民が困るのを憂い悲しんでいる部分です。
しかし現在の米の生産量は年度にもよりますが北海道が1位で、続いて青森県そして秋田県、岩手県、宮城県、新潟県となっています。
東北地方の冷害による米の減収はあまりにも古い話です。稲の品種改良のお陰です。賢治がサムサノナツハオロオロアルク必要がなくなったのです。それは時代遅れです。
(3) ミンナニデクノボートヨバレ
現在の日本では差別用語廃止で「デクノボー」と呼ぶ人はいません。時代が違うのです。

この詩が好きな私も時代遅れなことは明白です。
何故、この詩が好きなのでしょうか?その理由はこの詩が賢治の祈りの文章だから好きなのです。この詩の内容のような人間になりたいのでお釈迦さま助けて下さいという祈りなのです。
このような解釈は、「賢治と法華経」http://matome.naver.jp/odai/2138154465952826401 に説明してありますから省略します。
皆様よくご存知のように、賢治は生涯、法華経の行者でした。24歳のときに国柱会に入信して、以来、亡くなるまで法華経を説きます。
遺言にも『国訳妙法蓮華経』を千部印刷し、周りに頒布するよう書いています。
経のお釈迦様の教えに触れて無上の道に導かれるようにするのが、自分の生涯の仕事だったのです。ですから「雨ニモマケズ」は法華経の祈りを描いたものだといわれています。
そして賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と信じていたのです。この部分は「宮沢賢治生誕百年に寄せる 「雨ニモマケズ」入門」を検索して児玉 正幸さんの説明をお読み頂ければ良いと思います。

今日の結論です。賢治の作品のいろいろな部分は時代遅れだが、その趣旨や歌い上げられている精神は決して時代遅れではないのです。
同じように私の知識は時代遅れになってしまいましたが、精神は絶対に時代遅れではないのです。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日、青梅市の吹上しょうぶ公園で撮って来た写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









「梅雨の晴れ間、今日は青梅市吹上しょうぶ公園に行きました」

2016年06月10日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は梅雨の間の晴れ日で朝から快晴です。青梅市の郊外の山の中にある吹上しょうぶ公園に行きました。山からの風に吹かれて菖蒲の花の間を歩いていると夢幻の世界に踏み込んだような気分になります。
周囲の風景が良いので家内も満足していました。
場所については、http://www.city.ome.tokyo.jp/koen/shobu_koen.html をご覧ください。
吹上しょうぶ公園の写真を3枚お送りいたします。
JR青梅駅からタクシーで10分くらいの所です。車の有料駐車場は1日400円で入園料は1人200円です。公園内に簡単な軽食を出しているテントがあり昼食が食べれます。流石に梅ジュースは美味でした。





間も無く邯鄲の夢も店仕舞い、し残した2つの趣味

2016年06月10日 | 日記・エッセイ・コラム
一生の間に一度はしてみたいという趣味があります。しかし80歳の老境に至った現在は儚い夢として終わりそうです。
そこで、せめてその趣味を2つ書き残したいと思います。
(1)スウェーデンの古民家を忠実に再現し、そこに住み込む趣味。
最近、田舎暮らしが流行のようで雑誌やテレビでよく紹介されています。
もう随分と昔の話ですが、1972年、ストックホルムの大学へ集中講義に行ったことがあります。その折に、その大学のエケトロプ教授が自宅に招待してくれました。
驚いたことに彼は田舎暮らしを満喫していたのです。
郊外のプラタナスの大樹の下に、藁葺と白壁の中世風の農家を造って住んでいるのです。夏の終わりに数日泊めてくれました。
学者らしく、昔の農家の設計図を探し出し、忠実に再現した古民家です。
家の再現で苦労したのは釘を一本も使わないで造ることだったと言います。内装はすべて白っぽい北国の板材、柱は太い丸太の表面を磨いたもの。屋根は意外にもそんなに厚くない麦藁葺。年間雨量の少ない乾燥した北国なので、日本の合掌造りの屋根のように急斜面で部厚くはないのです。
建坪50坪ぐらいで、大きな室内は、寝室、食堂、炊事場、風呂場、トイレを北欧の材木で区切り、ドアもすべて同じ板材です。木製の蝶番(ちょうつがい)と閂(かんぬき)が付いています。
一番の特徴は一階の右半分を使用した炊事場兼食堂。部屋の真ん中に石造りの大きな竃(かまど)があり、その上には分厚い鉄板が乗せてあります。炊事の時にはその鉄板の上に鍋を三、四個置き、薪で煮炊きをするのです。深い鉄鍋を逆さに伏せればオーブンにもなります。
大きな石造の煙突が家の中心を貫き、その余熱で二階の寝室の暖房にするのです。
寝室には電気が無く、灯りはローソクです。
昔のスウェーデンの農家との違いは炊事場と食堂に電燈と冷蔵庫があるだけ。テレビはありませんでした。
木の香を楽しみ、夕食後は石の竃(かまど)の前に座り、コケモモでピンクに色づけしたスウェーデンの蒸留酒を飲みます。古い農家を再現するときの苦労話を聞きながらその強い酒を少しずつ飲みます。
夜が更ければ寝室へ引き揚げます。窓の外には白夜の牧草地が薄暗く広がっていて、遠くに馬の親子が立っているのがぼんやり見えます。このような白夜の風景が珍しく、いつまでも外を眺めていたものでした。
当時はデジカメがありませんでした。写真も撮りませんでした。そこで昔泊めて貰ったあのスウェーデンの古民家に似た画像をいろいろ探しました。似ている古民家の写真を見つけましたので下にお送りいたします。

(写真の出典は、http://fuucaarchi.exblog.jp/tags/%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3/ です。)

(写真の出典は、http://hanatomo31.exblog.jp/16424403 です。)
1番目の写真の古民家では外壁が板壁になっていますが、私が泊まった家は窓から上の部分は白い土壁でした。屋根は藁葺でした。
日本でも古民家を復元して住んでいる人がいます。羨ましい趣味です。しかし80歳の私には古民家を復元する元気がもうありません。
この世でし残した儚い夢として終わりそうです。
古民家をテレビで見る楽しみだけですが、見るたびにスウェーデンの古民家に泊まったことを懐かしく思い出します。
(2)8頭のサラブレット馬を飼う趣味。
これも昔のことですが、1989年、オハイオ州コロンバス郊外にサラブレットを八頭も飼っている中年女性に会ったことがありました。
彼女は大学で計測器の操作を担当していた技術者です。
毎年夏の終わりごろ、職場の教授、学生を家族連れで馬小屋前のバーベキューパーテイーに招待してくれるのです。
子供も大人もおとなしいサラブレットに乗れるので人気があるパーティです。
馬小屋といっても、中心の通路に向かい八頭の馬の個室があります。
そして通路の先は百坪ぐらいの屋内乗馬スペースになっています。冬でも馬に乗れるようになっているのです。
女性用の乗馬服に身を固めた飼い主が客の座っているテーブルを回りながら談笑します。私のテーブルにも回って来ました。
私が、「8頭とも姿が素晴らしい。馬を飼うとは良い趣味ですね」と言いました。
彼女は「とてもお金がかかるのですよ」と答えます。そして続けて言ったのです。「幸い、いや不幸と言うべきか、5年前の離婚の時、大きな慰謝料を貰ったのです。それで少女時代からの夢であった馬を飼うことにしたのです」と。何か少し淋しそうです。
「いつまでも続けるのですか?」「学科主任に契約は延長しないと言われたので、来年は馬も手放してコロンバスから出ていきます。仕事も面白かったし、念願の馬も八頭も飼えたし、この土地には楽しい思い出だけです」「お元気で引越しをなさってください」「有難うございます。またいつか会えるでしょう」
それ以来、彼女に会うことはないが、馬を見ると彼女の輝く、そして少し淋しそうな顔を思い出します。
欧米の趣味にはスケールの大きいものもあると吃驚しました。そして心にゆとりがあり無理が無いのです。
日本にも馬を飼う趣味の人がいます。
木曾の御岳山の中腹で日本古来の木曽駒を飼っているのです。その写真を下に示します。

(写真の出典は、http://ameblo.jp/rv9084/entry-10717580893.html です。)

私は子供のころ馬に蹴とばされたことがあります。それ以来、馬が怖くて近寄れません。しかし家内が大学時代に乗馬クラブにいたので、その影響で私も馬が好きになりました。九州の野生馬や北海道の道産馬も見に行ったことがあります。九州の「都井岬」には、江戸時代の高鍋藩の藩営牧場があり、100頭ほどの「御崎馬」が野生化して自然の中に棲んでいます。
そして木曽駒は5、6回も見に行きました。ここの感動的なことは広い牧場を数頭の木曽駒が何時も走り回って、遊んでいることです。馬が遊びで疾駆している光景は感動的な光景です。厩舎に入って馬にも触れますし、乗馬もできます。家内が乗馬を楽しんでいました。それも随分と昔になったものです。
馬を飼うという趣味もこの世の儚い夢として終りそうです。
このような古民家に住む趣味と馬を飼う趣味は出来ませんでしたが、心残りはありません。そのような趣味があることを知っただけでも幸せでした。さて皆様はどのような趣味をし残したでしょうか?お聞かせくだされば幸せです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)