後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本民族が誇りに思うべき地方の歴史・・・五島 列島の無人島に残る天主堂

2016年08月11日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の地方には誇りに思うべき歴史的な風景が沢山あります。
今日は、五島 列島の無人島に残る天主堂の風景写真をお送りします。改定した申請書を提出したので、いずれ国連の世界文化遺産に登録される予定の風景です。

(写真の出典は、http://www1.odn.ne.jp/tomas/nokubi.htm です。)
1番目の写真は長崎県、小値賀(おぢか)町の無人島、野崎島にポツンと残っている石組みの天主堂です。旧 野首(のくび)教会です。
隠れキリシタンの住んでいたこの離島の信者達が明治6年の禁教令廃止後の明治41年に貧しい生活の中で建てた天主堂です。

2番目の写真は同じ野首教会を見上げた写真です。
(写真の出典は、http://yuru-chara.jp/prof-t53.html です。)
この島の生活が厳し過ぎるので、過疎化が進み、10年以上前から完全に無人島になってしまいました。写真に写っている教会は現在、小値賀町の所有になり、町が保存しています。

3番目の写真は内部の写真です。
(写真の出典は、http://chabashira.sowzow.com/juumin/19usagi/usagi_041.html です。)
町役場に予約すると教会の内部も観光客が見ることが出来るようです。

4番目の写真は同じ教会を別な角度から見上げた写真です。
(写真の出典は、http://yumiusa217.blog133.fc2.com/blog-entry-1134.html です。)

5番目の写真は星空の下の教会の写真です。
天気の良い昼間は上の写真のように美しい姿を見せますが、星空の夜はこのように静かに座っています。
(写真の出典は、http://www.asahi.com/travel/aviation/SEB201110040074.html です。)

隠れキリシタンが多く住んでいた五島列島の島々は年々過疎化が進み明治期に建設された天主堂(カトリック教会)だけが島の守り神のように残っています。

五島列島だけでなく長崎県全域にはこのように隠れキリシタンが禁教令の廃止後に建てた美しい天主堂が300もあると言います。

そこで長崎県はそれらの古い教会や修道院をまとめて「世界文化遺産」として認定してもらう準備を進めています。今年の7月に日本政府は国連へ登録の申請書を提出しました。来年度には「世界文化遺産」として認定される予定です。

古い荘厳な教会堂はヨーロッパに幾らでもあります。それらに比べると長崎県の教会は質素すぎます。
しかし何故、それらが「世界文化遺産」になるのでしょうか?

理由はたった一つです。江戸幕府による250年間の過酷な禁教政策と処刑にもかかわらず日本人がキリスト教を信仰したからです。ザビエルたちの宣教師を裏切らなかったからです。古い天主堂や修道院こそが日本民族の誠実さと勇気を示しているからです。

権力者の禁教と弾圧にも耐え忍ぶという事は人間として誇るべき文化なのです。それは外国にはあまり例の無い長崎県や熊本県などの歴史です。
だからこそ「世界文化遺産」なのです。

考えて見ると世界に誇れる日本特有の文化は地方にまだまだ沢山あります。例えば青森県の「ねぶた」祭りや仙台の七夕祭りなど全国に沢山あります。
日本の地方、地方には世界に誇れる文化遺産が沢山あるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料====================
1614年、慶長18年の大禁教令が出て、日本中のキリスト教徒は隠れて信仰を守る行動に入ったのです。それが隠れキリシタンです。
一方、高山右近という大名はキリスト教を捨てる代わりにフィリッピンへ逃げて行ったのです。
幕府は隠れキリシタンを摘発する為に「踏絵」を毎年、明治4年まで続行したのです。明治維新後もキリシタン禁教は厳しく守られていたのです。
しかし、この江戸幕府の厳しい禁教政策にも拘わらず、隠れキリシタンは251年も信仰を守ったのです。
この歴史ほど日本人の勇気と誠実さを証明するものはありません。日本人として世界に自慢したい歴史的事実です。
1614年、慶長18年の大禁教令から251年目の1865年、元治2年に隠れキリシタン達が、下の写真のような大浦天主堂に現れたのです。そしてフランスから来ていたプチジャン神父へ、ザビエルの伝えた天主教(カトリック)を信じてきたことを告げたのです。
しかしそれは早過ぎました。信者たちは多数捕縛され各地の藩へ預けられたのです。それは「浦上番崩れ」ともよばれています。このような刑罰は明治政府にそのまま継承され。完全に禁教令が廃止されたのは明治6年になってからでした。