後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今夜はマリアさまの被昇天のお祝いのミサへ行ってきました」

2016年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年、8月15日はマリアさまの被昇天のお祝いのミサがあります。
マリアさまが天に上げられた日を祝うのです。

今夜7時からカトリック小金井教会のミサへ家内と共に行きました。
ミサの中の「共同祈願」の一つとして次のようなお祈りをしました。

「終戦の日にあたり、戦争の惨禍と多数の人の犠牲を思い起こし祈ります。主の愛の教えを心にとめ、戦争の根を絶つために、すべての力を注ぐことができますように。」

そしてマリアさまのお取次ぎによってこの世界に真の平和がくるように祈りました。
今日はカメラを持って行かなかったので代わりのに2枚の写真をお送り致します。

1番目の写真は長崎の大浦天主堂の写真です。

2番目の写真は浦上天主堂の2014年8月9日の夜の平和祈願ミサの風景です。
写真の出典は、http://www.nagasaki.catholic.jp/cms/?p=2055 です。

カトリック長崎大司教区は2014年8月9日(土)20時から浦上教会で、髙見三明大司教主司式による平和祈願ミサを行った。今年のテーマは「明日へつなごう平和の願い」。この日予定されていたたいまつ行列は台風の影響のため中止となり、ミサ前の聖堂ではロザリオの祈りが唱えられた。

 集まった約1,000人の信者らは、被爆マリアと共に、世界平和とすべての戦争犠牲者のために祈りました。

全国200市町村の空襲による焼け野原を忘れないで!

2016年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様、今日は太平洋戦争の終戦記念日です。
日本の300万人におよぶ犠牲者の鎮魂を深く祈る日です。そしてアジアの2千万人とも言われている犠牲者のご冥福をお祈りします。
その上、ヨーロッパ戦線での何千万人の犠牲者に心を寄せる日です。あれは人類史上で初めての一番大規模で悲惨な戦争でした。
あれから茫々71年。人々は決して悲劇の数々を忘れません。想像を絶するいろいろな悲劇が起きました。
しかし今日は自分の目で見た大空襲のことにだけ絞ってご報告したいと思います。

終戦当時、私は9歳、国民学校の3年生でした。1945年7月10日の明け方、故郷の仙台市が一面紅蓮の炎を上げて燃えているのを高台から何時までも見ていました。仙台の空には低空でゆっくり飛んでいる B-29が何機も見えます。その機体が下の一面の炎で白く光っています。

まず、すっかり焼け野原になってしまった仙台市の写真をご覧下さい。

この写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E7%A9%BA%E8%A5%B2 です。
仙台市の南の高台の向山に家があったので防空壕から抜け出して、広瀬川の崖の上に立ちました。足元の広瀬川の北側の市街地が一面に燃えています。
10日の午後に燃え尽きた中心街まで歩いて行きました。まだ荼毘に付していない黒焦げの遺体が道端に数体ありました。

現在、インターネットで仙台空襲のことを調べますと次のように書いてあります。(出典は1番目の写真と同じです。)
・・・7月9日、アメリカ陸軍航空軍第20航空軍所属の第58爆撃飛行団に出撃命令が出され、日本時間の午後4時3分、B-29、131機がテニアン西飛行場を離陸し出撃した。不具合で引き返したものを除く123機が仙台に到達した。
7月10日午前0時3分、高度約3,000メートルより、2、3機から5機くらいの編成で25波に分かれ、仙台市内を約2時間にわたって空襲した。
焼夷弾10,961発による絨毯爆撃と高性能爆弾8個により、仙台市中心部は焦土と化した。市街地が焼け野原と化したため、「仙台駅から西公園が見えるようになった」との体験談が語られている。被害は、死者2,755人、被災人口57,321人(全市の約26%)、被災戸数11,933戸(全市の約23%)にのぼり、東京以北の都市では最大規模となった。・・・

このような米空軍による無差別空襲は1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続きました。
そして全国(内地)で200以上の都市が被災し、焼け野原になってしまったのです。そして多くの国宝・重要文化財も焼失したのです。
全国の空襲による犠牲者は、原爆の犠牲者約20万人を含めて50万人と言われています。

もう一度書きます。全国津々浦々の200の市町村が空襲されたのです。そしてその空襲による犠牲者が原爆による犠牲者も含めると50万人もあったのです。その様子を示す写真をもう2枚示します。

(写真の出典は、https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8c/Air_raid_Kofu-City.jpgです。)
2番目の写真は焼け野原になった甲府市の様子です。

(写真の出典は、http://www.huffingtonpost.jp/2015/03/12/tokyo-firebombing-70th-gifanimation_n_6854922.htmlです。)
3番目の写真は東京の亀戸の空襲後の写真です。

このような一般市民を対象にした無差別攻撃は3月10日の東京大空襲から本格的に開始されました。攻撃の主体は多数の焼夷弾を束ねた大きな焼夷弾束で行ったのです。焼夷弾束は落下途中でバラバラの焼夷弾に分かれ同時に多数の家に火をつけたのです。燃えやすい日本の家屋は実に簡単に燃え上がったのです。
このような一般市民に対する無差別攻撃は、ボーイングB-29による爆撃のみならず、英米の機動部隊艦載機や硫黄島などからの攻撃機による爆撃や機銃掃射というかたちでも行われました。

その上、沿岸部の都市では艦砲射撃によっても攻撃されたところもあるのです。釜石や室蘭は徹底的な艦砲射撃も行われ、日立、清水、浜松など製鉄所や軍需工場がある工業都市が攻撃されました。

また、B-29は関門海峡や主要港湾への大規模な機雷投下も行い日本の海上輸送を妨害したのです。
外地でも、1945年5月31日には台北へも大空襲が行われたのです。

このようにアメリカ軍は日本本土の徹底的な焼失攻撃と破壊攻撃を繰りかえしたのです。そして広島と長崎の原爆投下でとどめを刺したのです。

このような戦争の悲惨さを忘れることなく子々孫々に伝承し、平和を守って貰いたいと念じます。
今日の8月15日に当たり、全ての戦争犠牲者の鎮魂と冥福を祈ります。後藤和弘