後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「老境をすごく楽しくする(4)住んでいる町の旧石器時代の歴史」

2016年08月03日 | 日記・エッセイ・コラム
老境の特権の一つに考え方が自由になれることがあります。仕事を離れるので、仕事の専門分野から離れた自由な発想が次から次へと生まれてきます。
例えば学校で習った日本の歴史は真実なのだろうか?それにしても学校では、何故、地方、地方の歴史を詳しく教えないのだろうか?
皆様はこんな疑問をお持ちになったことはありますでしょうか?
老境を楽しくするのはこの問題に取り組むのも良いと思います。
そこで今日は、自分の住んでいる土地の歴史について書いてみたいと思います。
歴史と言っても縄文時代と、その前の土器の無かった旧石器時代の歴史です。そんな古いことは知らん!と言わずに、まあ、ご一読下さい。
私が現在住んでいる場所は東京都小金井市です。隣には小平市があり、国分寺市や府中市もあります。少し足を伸ばせば相模原市もあります。これらの町からは旧石器時代の石器や縄文時代の土器が沢山出てきます。大げさに言えば、ザクザク出て来たのです。
ですから関東平野には約4万年前の旧石器時代から人間が住んでいたのは明確な事実です。
ここで注意すべきは当時の人口密度が非常の小さかったことです。旧石器時代には日本全国の人口が数万人しかいなかったのです。
縄文中期の温暖期には人口が30万人くらいに増加したようです。しかし縄文時代の終り頃の寒冷期にはまた減少します。
そして稲作の始まる弥生時代からは増加する一方になりました。このような人口密度を考えながら以下をお読み下さい。

当時の小金井市の周辺には、クヌギやカシワやコナラのような雑木林が昼なお暗く平野を覆っていたのです。そしてその森の中にはイノシシやシカやキツネやタヌキが沢山棲んでいたのです。
人口が現在より非常に少なかったので、食料にするイノシシやシカが非常に多く、簡単に落とし穴で捕らえられました。夏や秋になると野生の果物や栗やクルミも豊富に実ります。
森の切れる開けた土地には石器時代や縄文時代には竪穴住居が散在していたと想像できます。

さて小金井の中町には3万年前の旧石器時代の石器と4500年前の縄文時代中期の環状集落跡が出土した「中山谷遺跡」があります。
縄文中期の環状集落跡から2m50cm下の約3万年前の関東ローム層から多数の石斧、鏃や石器道具が出て来たのです。ですから現在の小金井市には約3万年前から人間が住んでいたのです。
そして約4500年前の環状集落跡を見ると家々が広場の周りに建っています。そして広場の中心が墓地になっていました。
住居跡からは多数の土器や石器や耳飾りが出てきました。
そして住居の土間の下からは亡くなった乳幼児を入れて葬った埋甕が完全な形で出て来たのです。乳幼児が死ぬと悲しくて家の外に葬ることが出来なかったのです。
この「中山谷遺跡」は小金井市の古代の歴史を物語る貴重なものですが、残念ながら展示施設がありません。

そこで隣町の小平市の展示室を何度も訪問しました。
小平市の鈴木遺跡資料館は感動的な展示をしています。
素人の小生が感動したことが1つあります。
それは発掘した地層の断面模型の展示があり、その横に各地層から出てきた旧石器時代のいろいろな石器が示してあるのです。
地層区分から出てきた石器の作られた時代が厳密に分かるのです。大変明快な展示方法です。
その地層の中には鹿児島湾北部の姶良火山が爆発して飛散し、火山灰が積もった第VI層も有るのです。
旧石器時代の35000年前から12000年前までの石器が時代ごとに区分してガラスケースに展示してあります。
そして縄文時代、すなわち新石器時代の石器も縄文土器も展示してあります。石器はどれも精巧に加工してあります。
この展示室の素晴らしさはその黒曜石で出来た鋭利な石器のその精巧さにあります。そして時代推定が科学的に厳密なことにあります。

少し小平市の歴史を詳しく書きすぎました。
皆様の住んでいる町や村の旧石器時代や縄文時代はどのようだったのでしょうか?
あまり長くなるので今日はこれでお終いにします。

今日の挿し絵代わりの写真は相模原市の相模川の岸辺にある遺跡から発見された石器時代の住居跡の写真、縄文時代の家の写真、そして旧石器時代の人々の生活の様子を示す3枚の写真を示します。この5枚の写真は相模原市の特別な歴史園、田名向原展示館へ何度も通い、自分で撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


上の1番目の写真は平らな土地に丸い印をつけた掘っ建て柱の跡が見える旧石器時代の住居跡です。そして竪穴式住居の周囲に置いた石もあります。黒く焦げた炉跡も見つかっています。これが日本で初めて発見された旧跡時代の住居跡の一つなのです。
年代測定は29000年前の九州の姶良(アイラ)大噴火の火山灰層の位置と炭素の同位体による年代測定から約20000年前と判りました。

2番目の写真は上の層に重なっていた5000年前の縄文時代の住居を復元したものです。
この田名向原では2万年前の旧石器時代の住居跡と3000個の精巧な石器の他に5000年前の縄文時代の住居跡、そして1400年前の13基以上の古墳が発見されたのです。

3番目の写真は旧石器時代の女性が木の実を採集している様子を示しています。

4番目の写真は大ツノシカを数人で囲んで倒している様子を示しています。

5番目の写真は旧石器時代に日本に棲んでいた動物を示しています。大ツノシカとイノシシがよく食べられていたようです。

===参考資料:関連記事の紹介============
http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama の2013年1月と2012年12月に次の関連した記事が掲載してあります。
「相模川中流は考古学的史跡の宝庫・・・3層、4層と住居跡や古墳が集中」
「日本の旧石器時代・その悠久の歴史(1)2万年前の住居の発見」
「私の郷土史(2)旧石器時代から江戸時代までの小平市鈴木町の変遷」
「所沢市砂川遺跡と岩宿遺跡から出た旧石器時代の石器の写真と日本の旧石器時代」

はさみやま遺跡
はさみ山遺跡は、大阪府南東部の藤井寺市の藤井寺公団・野中・藤ケ丘一帯に広がっており、羽曳野丘陵の裾野に広がる段丘に立地する。遺跡およびその周囲は、全体が緩やかな傾斜地となっている。この遺跡は、1974年(昭和49年)、大阪外環状線建設の際に新たに発見されたものである。以後、大阪府教育委員会や藤井寺市教育委員会による調査が続いてきた。
後期旧石器時代の住居跡:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%95%E3%81%BF%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1
1986年(昭和61年)のはさみ山遺跡の発掘調査により、後期旧石器時代(3万年 - 1万3000年前)の住居の構造が明らかになった。住居跡は、深さ約30cmの半地下式(竪穴住居)で、そのくぼ地の周囲には1.0 - 1.7mの間隔をおいて直径14 - 22cmの柱穴が7個あり、その外側には浅い溝がめぐらされていた。住居の範囲は、東西直径約6メートル、南北径5メートル、深さ0.3メートルに渡り、その形状は楕円形、柱は合計13本であったと推定されている。なお、柱穴は円をなして並び、各柱穴がその円の中心に向かって斜めに掘られており、これに木を差し込むと上方でその中心に集まる角度になっていた。すなわち、直径約6mの円錐形の竪穴住居が復元できる。遺物としては、紀元前2万年頃のナイフ形石器、翼状剥片、石核等が出土した。
なお、住居跡とは沢をはさんだ東側から径270cm×160cmの楕円形状の土坑が見つかっている。これは墓(土坑墓)ではないかと推定されている。
土坑墓(どこうぼ)とは、土を掘りくぼめて穴(土坑)をつくり、そこに人の遺体を納めて葬送した遺構。土葬にともなう世界的にポピュラーな埋葬に用いられた遺構であるが、日本では縄文時代~弥生時代に多い墓の形式であり、その場合「土壙」とか「土壙墓」と表記される場合もある。

こんなしみじみとした人生があるのですね

2016年08月03日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日の読売新聞に、既に亡くなった画家、山内龍雄氏(1950年ー2013年)とその作品を世界へ紹介し、藤沢市に山内龍雄芸術館を私財を投じて作った須藤一實氏のことが出ていました。
お二人の人生の軌跡をみると、心が静まります。嗚呼、こんなにもしみじみした人生があるのだと感じ入ります。
詳しく調べました。そうしたら、神奈川県全域と東京都多摩地域に約221万部を発行されている「タウンニュース」とう地域新聞の藤沢版に詳しく掲載されていました。
今日は自分の美に対する信念を貫いた画家、山内龍雄氏と、その作品に魅了され無名の画家を世に紹介し、記念館まで作った須藤一實氏の2人の人生を短くご紹介致します。
なお詳細は末尾の「参考資料」にあります。

それでは、現在67歳の須藤 一實さんの独白からご紹介します。
(タウンニュース、藤沢版;掲載号:2016年4月22日号http://www.townnews.co.jp/0601/i/2016/04/22/329829.html )

「山内」に取り込まれた人生

 ○歳月をかけて削り込んだキャンバスに油絵具で色を乗せる。画家・山内龍雄氏が唯一無二の技法で描き出すのは「無の境地」だ。2013年に山内氏が亡くなるまでの30年間、山内作品だけを扱う画商として、二人三脚で歩んできた。開館した芸術館は、山内芸術を広く伝えるための拠点。「彼は死ぬまでにやろうとしたことをやったと思う。今度は俺の仕事だ」

 ○高校卒業後に勤務した貿易会社が倒産。銀座の画廊の画商に転職した。美術を学んだ経験もなく「絵で商売するなんて思っていなかった」と言うが、転職後は「水を得た魚」。ピカソやセザンヌなどの数々の名画を扱い、魅せられた。そんな中、画廊に現れたのが山内氏だった。取り出した小さな絵はキャンバスの側面がボロボロ。「ずいぶん年季が入った絵だと驚いた」と話す。生活に困り金が必要という山内氏からその絵を買ったことが後の人生を変えた。

 ○「この人のための画商になる」。北海道を拠点にする山内氏との手紙のやりとりを通じて人となりを知り、そう決意し独立した。「はぐれもの同志、息があった」と笑顔。「山さんを世界の舞台に持っていくつもりで頑張る」と伝えると、「すーさんを世界的な画商にする」と返ってきた。2007年以降には海外での展示も実現。各国で「見たことのない絵画」と絶賛された。

 ○1992年5月の夜、自らが出産する夢を見た。うなされるほど痛みを感じる夢。子を産み、目を覚ますと電話が鳴った。「すごい絵ができちゃった」。当時、創作に行き詰っていた山内氏からだった。「産みの苦しみのエネルギーが伝わってきたんだと思う」。「老賢者と少年が浮かび上がってくる」というその絵は代表作として芸術館にも並ぶ。「あの絵は彼の精神だ」。画商になったのも、芸術館を作ったのも、そこを訪れる人も全て「山内芸術を助けるため。山内に取り込まれた気がする」。これからも山内氏とともに生きる。・・・・・

こうして須藤 一實の人生が変わってしまったのです。
須藤は、画商の会社を辞め、1988年に独立し、山内の作品を紹介するためだけの画廊、ギャラリー・タイムを 設立したのです。
それ以後、山内が描く全ての絵画は、須藤を通して世の中に出ることになったのです。
山内は画を描くためだけに生き、須藤は、山内の制作と生活を支え続けたのです。
そんな山内と須藤の、画家と画商との美しい関係は、山内が亡くなる2013年まで続きます。
そして2016年には藤沢市の自分の私有地に山内龍雄芸術館を自力で作ってしまったのです。

山内龍雄は1950年 北海道 厚岸町上尾幌に生まれ、北海道で21歳から独学で画を描き出します。
油彩画のキャンヴァスを自分で作った道具を使って紙のようになるまで薄く削る方法を編み出し、過去に全く前例のない独自のマチエールを作り出したのです。
その画は、油彩画の本場であるヨーロッパで「新しい絵画様式が日本から生まれた」と評価されたそうです。
下の参考資料の写真にあるように山内龍雄の絵画は華やかな色彩がありません。水墨画のような世界です。日本の伝統的な無常感が漂っているようです。なぜか東洋的な精神性が感じられるのです。東洋の精神の判る西洋人にも感動を与える作品です。
考えてみると山内は上野の芸術大学にも学んでいません。中央の画壇とは全く無縁です。
北海道の質素な家に住み、まったく独りでキャンバスを削り、600点以上の絵画を須藤 一實に託して旅立って行ったのです。生前にその作品はあまり売れませんでした。
しかし須藤 一實の友情を信じ安らかに亡くなったに違いありません。
そんな一生もあるのですね。
一方、画商の須藤 一實は魅了された山内龍雄の絵画だけを売り続ける画商になったのです。画商としてそれは一つの幸せな人生に違いありません。
こうして須藤 一實の人生が変わってしまったのです。
2人の人生を考えてみると何故かしみじみとします。
多くの人々はお金や名誉を追う人生を送ります。華やかなものに憧れます。
しかし今日ご紹介した2人の男の人生は違います。でも2人の人生は幸だったと私は信じています。
皆様のご感想をお送り頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=====================
(1)画家、山内龍雄の作品と記念館などの写真
下の1番目の写真に彼の代表作の写真を示します。

1番目の写真のように山内の絵画は抽象画的です。


2番目の写真は須藤が開催した山内のある個展の光景です。

3番目の写真は2016年に藤沢市に出来た山内龍雄芸術館です。

4番目の写真は北海道にある山内龍雄の家と想定される写真です。

5番目の写真は1990年の山内龍雄の写真です。北海道厚岸町上尾幌のアトリエにて。
出典;http://www.yamauchitatsuo.net/ryakureki.html

(2)画家、山内龍雄の軌跡

2007年からは海外での展覧会をしている。オーストリア、ドイツ、台湾で個展を開催した。
2013年、アトリエで死去。2016年に須藤によって山内龍雄芸術館が神奈川県藤沢市にできる。

1950年 北海道 厚岸町上尾幌に生まれる
1971年 初めて筆をとる
1984年 須藤一實と出会う
1988年 須藤との二人三脚が始まる。山内龍雄を紹介するための画廊 ギャラリー・タイム設立
    ギャラリー・タイム主催で初めての山内展を銀座で開催 以降、毎年開催
1990年 ギャラリー・タイムより「山内龍雄画集」発行
1992年 代表作「老賢者と少年」ができる
1993年 NICAFに出展 (97年、99年も同展に出展)
2000年 ギャラリー・タイム 山内作品の常設画廊を銀座8丁目に開廊
2006年 ギャラリー・タイム 銀座2丁目並木通りに移転
2007年 ギャラリー・タイムより「YAMAUCHI Tatsuo」画集を発行
    アートマークギャラリー(オーストリア・ウィーン)で山内龍雄展 開催
2008年 ミューワ美術館(オーストリア・グラーツ)で山内龍雄展 開催
    芸術家協会(ドイツ・インゴルスタット)で山内龍雄展 開催
2009年 学学文創志業大楼(台湾・台北)で山内龍雄展 開催
    ギャラリー・タイム 京橋2丁目に移転
2010年 芸術家協会(オーストリア・ザールフェルデン)で山内龍雄展 開催
2013年 釧路市内の自宅アトリエにて逝去
2014年 ギャラリー・タイムより 冊子「山内龍雄」発行
    軽井沢現代美術館(長野県)にて追悼展 開催
2015年 ギャラリー・タイム 神奈川県藤沢市に移転
   長野県東御市の梅野記念絵画館にて回顧展開催
2016年 神奈川県藤沢市に山内龍雄芸術館開館

(3)孤高の画家、山内龍雄の孤独な私生活:
http://members2.jcom.home.ne.jp/myanagi/jcom_yamauchi_002.htm より転載。
画家・山内龍雄は家庭を持たず、生まれ育った北海道上尾幌の
野原の一軒屋でただ一人生活し、絵を描いている。集落から離れ、
車で5分間は走らなければ人の気配がするところまで到達しない。
その集落にしても店舗は一軒もない。
「50メートル先の木の実がポツンと落ちる音が聞こえる」静寂の
中に住んでいる。
こうした画家が現実に存在するということに、驚く。

 例えばゴッホの生涯を引用して画家の生き方を語っても、現代
ではおとぎ話となり、そんな画家が存在するはずがないと断定で
きるだろう。絵だけに専念して他のすべてを犠牲にする生活を現
代日本の人間がするだろうか。ところが北海道・上尾幌に山内龍
雄がいた。

 開拓者としてここを切り拓いた父親が昭和20年初旬に自ら建て
た家が、彼の現在の住まいであり、2階がアトリエになっている。
昭和25年に生まれた山内は高校卒業後郵便局に3年勤め、そこを
辞めた後、釧路で数年生活し絵を描く。その時期は画家などとの
交流もあったが、その後、上尾幌のこの家に帰り絵を描く生活を
続け今日に至る。すべて独学で学び、独自のマチエールをものに
して、毎年、作品を発表している。これまでは寡作で、納得のい
く作品ができるまで発表することはなかった。

 作品の制作が始まると、彼は3時間以上の睡眠をとらないため
の目覚まし時計を用意し、とことん自分の世界に向き合っていく。
夜も昼の区別もなく、ただただ制作に熱中する。なぜなのだろう
か。
『見えてくるものがあるんだね。そこから自分の絵ができてくる
 時の快感は何事にも変えがたい。絵に引っ張られているんだね。
 しかたがないね。』

 山内の制作風景を見た者はわずかしかいない。人間嫌い、とし
て通っている彼のもとには近くの集落の人間もほとんど寄り付か
ない。又逆に、彼のアトリエを訪ねても制作中はいくら親しい友
人でもそこに入ることはできない。生前二人で暮らしていた母親
も、アトリエの扉の前に握飯を置いて中には入らなかった。現在
でも、彼のもっとも近くにいるのは、毎日、家の周りにやってく
る蝦夷鹿や動物たちかもしれない。

 夜になれば漆黒の闇に包まれる。天気の好いときは満点の星が
空を飾るが、それすらも恐ろしい孤独の世界で、彼は憑りつかれ
たように制作に没頭する。バッハの音楽を時には大音響で響かせ
ながら。睡眠を抑制し、空腹状態でいることが制作するときのコ
ンディションとしては重要なことだという。