老境の特権の一つに考え方が自由になれることがあります。仕事を離れるので、仕事の専門分野から離れた自由な発想が次から次へと生まれてきます。
例えば学校で習った日本の歴史は真実なのだろうか?それにしても学校では、何故、地方、地方の歴史を詳しく教えないのだろうか?
皆様はこんな疑問をお持ちになったことはありますでしょうか?
老境を楽しくするのはこの問題に取り組むのも良いと思います。
そこで今日は、自分の住んでいる土地の歴史について書いてみたいと思います。
歴史と言っても縄文時代と、その前の土器の無かった旧石器時代の歴史です。そんな古いことは知らん!と言わずに、まあ、ご一読下さい。
私が現在住んでいる場所は東京都小金井市です。隣には小平市があり、国分寺市や府中市もあります。少し足を伸ばせば相模原市もあります。これらの町からは旧石器時代の石器や縄文時代の土器が沢山出てきます。大げさに言えば、ザクザク出て来たのです。
ですから関東平野には約4万年前の旧石器時代から人間が住んでいたのは明確な事実です。
ここで注意すべきは当時の人口密度が非常の小さかったことです。旧石器時代には日本全国の人口が数万人しかいなかったのです。
縄文中期の温暖期には人口が30万人くらいに増加したようです。しかし縄文時代の終り頃の寒冷期にはまた減少します。
そして稲作の始まる弥生時代からは増加する一方になりました。このような人口密度を考えながら以下をお読み下さい。
当時の小金井市の周辺には、クヌギやカシワやコナラのような雑木林が昼なお暗く平野を覆っていたのです。そしてその森の中にはイノシシやシカやキツネやタヌキが沢山棲んでいたのです。
人口が現在より非常に少なかったので、食料にするイノシシやシカが非常に多く、簡単に落とし穴で捕らえられました。夏や秋になると野生の果物や栗やクルミも豊富に実ります。
森の切れる開けた土地には石器時代や縄文時代には竪穴住居が散在していたと想像できます。
さて小金井の中町には3万年前の旧石器時代の石器と4500年前の縄文時代中期の環状集落跡が出土した「中山谷遺跡」があります。
縄文中期の環状集落跡から2m50cm下の約3万年前の関東ローム層から多数の石斧、鏃や石器道具が出て来たのです。ですから現在の小金井市には約3万年前から人間が住んでいたのです。
そして約4500年前の環状集落跡を見ると家々が広場の周りに建っています。そして広場の中心が墓地になっていました。
住居跡からは多数の土器や石器や耳飾りが出てきました。
そして住居の土間の下からは亡くなった乳幼児を入れて葬った埋甕が完全な形で出て来たのです。乳幼児が死ぬと悲しくて家の外に葬ることが出来なかったのです。
この「中山谷遺跡」は小金井市の古代の歴史を物語る貴重なものですが、残念ながら展示施設がありません。
そこで隣町の小平市の展示室を何度も訪問しました。
小平市の鈴木遺跡資料館は感動的な展示をしています。
素人の小生が感動したことが1つあります。
それは発掘した地層の断面模型の展示があり、その横に各地層から出てきた旧石器時代のいろいろな石器が示してあるのです。
地層区分から出てきた石器の作られた時代が厳密に分かるのです。大変明快な展示方法です。
その地層の中には鹿児島湾北部の姶良火山が爆発して飛散し、火山灰が積もった第VI層も有るのです。
旧石器時代の35000年前から12000年前までの石器が時代ごとに区分してガラスケースに展示してあります。
そして縄文時代、すなわち新石器時代の石器も縄文土器も展示してあります。石器はどれも精巧に加工してあります。
この展示室の素晴らしさはその黒曜石で出来た鋭利な石器のその精巧さにあります。そして時代推定が科学的に厳密なことにあります。
少し小平市の歴史を詳しく書きすぎました。
皆様の住んでいる町や村の旧石器時代や縄文時代はどのようだったのでしょうか?
あまり長くなるので今日はこれでお終いにします。
今日の挿し絵代わりの写真は相模原市の相模川の岸辺にある遺跡から発見された石器時代の住居跡の写真、縄文時代の家の写真、そして旧石器時代の人々の生活の様子を示す3枚の写真を示します。この5枚の写真は相模原市の特別な歴史園、田名向原展示館へ何度も通い、自分で撮った写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
上の1番目の写真は平らな土地に丸い印をつけた掘っ建て柱の跡が見える旧石器時代の住居跡です。そして竪穴式住居の周囲に置いた石もあります。黒く焦げた炉跡も見つかっています。これが日本で初めて発見された旧跡時代の住居跡の一つなのです。
年代測定は29000年前の九州の姶良(アイラ)大噴火の火山灰層の位置と炭素の同位体による年代測定から約20000年前と判りました。
2番目の写真は上の層に重なっていた5000年前の縄文時代の住居を復元したものです。
この田名向原では2万年前の旧石器時代の住居跡と3000個の精巧な石器の他に5000年前の縄文時代の住居跡、そして1400年前の13基以上の古墳が発見されたのです。
3番目の写真は旧石器時代の女性が木の実を採集している様子を示しています。
4番目の写真は大ツノシカを数人で囲んで倒している様子を示しています。
5番目の写真は旧石器時代に日本に棲んでいた動物を示しています。大ツノシカとイノシシがよく食べられていたようです。
===参考資料:関連記事の紹介============
http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama の2013年1月と2012年12月に次の関連した記事が掲載してあります。
「相模川中流は考古学的史跡の宝庫・・・3層、4層と住居跡や古墳が集中」
「日本の旧石器時代・その悠久の歴史(1)2万年前の住居の発見」
「私の郷土史(2)旧石器時代から江戸時代までの小平市鈴木町の変遷」
「所沢市砂川遺跡と岩宿遺跡から出た旧石器時代の石器の写真と日本の旧石器時代」
はさみやま遺跡:
はさみ山遺跡は、大阪府南東部の藤井寺市の藤井寺公団・野中・藤ケ丘一帯に広がっており、羽曳野丘陵の裾野に広がる段丘に立地する。遺跡およびその周囲は、全体が緩やかな傾斜地となっている。この遺跡は、1974年(昭和49年)、大阪外環状線建設の際に新たに発見されたものである。以後、大阪府教育委員会や藤井寺市教育委員会による調査が続いてきた。
後期旧石器時代の住居跡:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%95%E3%81%BF%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1
1986年(昭和61年)のはさみ山遺跡の発掘調査により、後期旧石器時代(3万年 - 1万3000年前)の住居の構造が明らかになった。住居跡は、深さ約30cmの半地下式(竪穴住居)で、そのくぼ地の周囲には1.0 - 1.7mの間隔をおいて直径14 - 22cmの柱穴が7個あり、その外側には浅い溝がめぐらされていた。住居の範囲は、東西直径約6メートル、南北径5メートル、深さ0.3メートルに渡り、その形状は楕円形、柱は合計13本であったと推定されている。なお、柱穴は円をなして並び、各柱穴がその円の中心に向かって斜めに掘られており、これに木を差し込むと上方でその中心に集まる角度になっていた。すなわち、直径約6mの円錐形の竪穴住居が復元できる。遺物としては、紀元前2万年頃のナイフ形石器、翼状剥片、石核等が出土した。
なお、住居跡とは沢をはさんだ東側から径270cm×160cmの楕円形状の土坑が見つかっている。これは墓(土坑墓)ではないかと推定されている。
土坑墓(どこうぼ)とは、土を掘りくぼめて穴(土坑)をつくり、そこに人の遺体を納めて葬送した遺構。土葬にともなう世界的にポピュラーな埋葬に用いられた遺構であるが、日本では縄文時代~弥生時代に多い墓の形式であり、その場合「土壙」とか「土壙墓」と表記される場合もある。
例えば学校で習った日本の歴史は真実なのだろうか?それにしても学校では、何故、地方、地方の歴史を詳しく教えないのだろうか?
皆様はこんな疑問をお持ちになったことはありますでしょうか?
老境を楽しくするのはこの問題に取り組むのも良いと思います。
そこで今日は、自分の住んでいる土地の歴史について書いてみたいと思います。
歴史と言っても縄文時代と、その前の土器の無かった旧石器時代の歴史です。そんな古いことは知らん!と言わずに、まあ、ご一読下さい。
私が現在住んでいる場所は東京都小金井市です。隣には小平市があり、国分寺市や府中市もあります。少し足を伸ばせば相模原市もあります。これらの町からは旧石器時代の石器や縄文時代の土器が沢山出てきます。大げさに言えば、ザクザク出て来たのです。
ですから関東平野には約4万年前の旧石器時代から人間が住んでいたのは明確な事実です。
ここで注意すべきは当時の人口密度が非常の小さかったことです。旧石器時代には日本全国の人口が数万人しかいなかったのです。
縄文中期の温暖期には人口が30万人くらいに増加したようです。しかし縄文時代の終り頃の寒冷期にはまた減少します。
そして稲作の始まる弥生時代からは増加する一方になりました。このような人口密度を考えながら以下をお読み下さい。
当時の小金井市の周辺には、クヌギやカシワやコナラのような雑木林が昼なお暗く平野を覆っていたのです。そしてその森の中にはイノシシやシカやキツネやタヌキが沢山棲んでいたのです。
人口が現在より非常に少なかったので、食料にするイノシシやシカが非常に多く、簡単に落とし穴で捕らえられました。夏や秋になると野生の果物や栗やクルミも豊富に実ります。
森の切れる開けた土地には石器時代や縄文時代には竪穴住居が散在していたと想像できます。
さて小金井の中町には3万年前の旧石器時代の石器と4500年前の縄文時代中期の環状集落跡が出土した「中山谷遺跡」があります。
縄文中期の環状集落跡から2m50cm下の約3万年前の関東ローム層から多数の石斧、鏃や石器道具が出て来たのです。ですから現在の小金井市には約3万年前から人間が住んでいたのです。
そして約4500年前の環状集落跡を見ると家々が広場の周りに建っています。そして広場の中心が墓地になっていました。
住居跡からは多数の土器や石器や耳飾りが出てきました。
そして住居の土間の下からは亡くなった乳幼児を入れて葬った埋甕が完全な形で出て来たのです。乳幼児が死ぬと悲しくて家の外に葬ることが出来なかったのです。
この「中山谷遺跡」は小金井市の古代の歴史を物語る貴重なものですが、残念ながら展示施設がありません。
そこで隣町の小平市の展示室を何度も訪問しました。
小平市の鈴木遺跡資料館は感動的な展示をしています。
素人の小生が感動したことが1つあります。
それは発掘した地層の断面模型の展示があり、その横に各地層から出てきた旧石器時代のいろいろな石器が示してあるのです。
地層区分から出てきた石器の作られた時代が厳密に分かるのです。大変明快な展示方法です。
その地層の中には鹿児島湾北部の姶良火山が爆発して飛散し、火山灰が積もった第VI層も有るのです。
旧石器時代の35000年前から12000年前までの石器が時代ごとに区分してガラスケースに展示してあります。
そして縄文時代、すなわち新石器時代の石器も縄文土器も展示してあります。石器はどれも精巧に加工してあります。
この展示室の素晴らしさはその黒曜石で出来た鋭利な石器のその精巧さにあります。そして時代推定が科学的に厳密なことにあります。
少し小平市の歴史を詳しく書きすぎました。
皆様の住んでいる町や村の旧石器時代や縄文時代はどのようだったのでしょうか?
あまり長くなるので今日はこれでお終いにします。
今日の挿し絵代わりの写真は相模原市の相模川の岸辺にある遺跡から発見された石器時代の住居跡の写真、縄文時代の家の写真、そして旧石器時代の人々の生活の様子を示す3枚の写真を示します。この5枚の写真は相模原市の特別な歴史園、田名向原展示館へ何度も通い、自分で撮った写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
上の1番目の写真は平らな土地に丸い印をつけた掘っ建て柱の跡が見える旧石器時代の住居跡です。そして竪穴式住居の周囲に置いた石もあります。黒く焦げた炉跡も見つかっています。これが日本で初めて発見された旧跡時代の住居跡の一つなのです。
年代測定は29000年前の九州の姶良(アイラ)大噴火の火山灰層の位置と炭素の同位体による年代測定から約20000年前と判りました。
2番目の写真は上の層に重なっていた5000年前の縄文時代の住居を復元したものです。
この田名向原では2万年前の旧石器時代の住居跡と3000個の精巧な石器の他に5000年前の縄文時代の住居跡、そして1400年前の13基以上の古墳が発見されたのです。
3番目の写真は旧石器時代の女性が木の実を採集している様子を示しています。
4番目の写真は大ツノシカを数人で囲んで倒している様子を示しています。
5番目の写真は旧石器時代に日本に棲んでいた動物を示しています。大ツノシカとイノシシがよく食べられていたようです。
===参考資料:関連記事の紹介============
http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama の2013年1月と2012年12月に次の関連した記事が掲載してあります。
「相模川中流は考古学的史跡の宝庫・・・3層、4層と住居跡や古墳が集中」
「日本の旧石器時代・その悠久の歴史(1)2万年前の住居の発見」
「私の郷土史(2)旧石器時代から江戸時代までの小平市鈴木町の変遷」
「所沢市砂川遺跡と岩宿遺跡から出た旧石器時代の石器の写真と日本の旧石器時代」
はさみやま遺跡:
はさみ山遺跡は、大阪府南東部の藤井寺市の藤井寺公団・野中・藤ケ丘一帯に広がっており、羽曳野丘陵の裾野に広がる段丘に立地する。遺跡およびその周囲は、全体が緩やかな傾斜地となっている。この遺跡は、1974年(昭和49年)、大阪外環状線建設の際に新たに発見されたものである。以後、大阪府教育委員会や藤井寺市教育委員会による調査が続いてきた。
後期旧石器時代の住居跡:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%95%E3%81%BF%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1
1986年(昭和61年)のはさみ山遺跡の発掘調査により、後期旧石器時代(3万年 - 1万3000年前)の住居の構造が明らかになった。住居跡は、深さ約30cmの半地下式(竪穴住居)で、そのくぼ地の周囲には1.0 - 1.7mの間隔をおいて直径14 - 22cmの柱穴が7個あり、その外側には浅い溝がめぐらされていた。住居の範囲は、東西直径約6メートル、南北径5メートル、深さ0.3メートルに渡り、その形状は楕円形、柱は合計13本であったと推定されている。なお、柱穴は円をなして並び、各柱穴がその円の中心に向かって斜めに掘られており、これに木を差し込むと上方でその中心に集まる角度になっていた。すなわち、直径約6mの円錐形の竪穴住居が復元できる。遺物としては、紀元前2万年頃のナイフ形石器、翼状剥片、石核等が出土した。
なお、住居跡とは沢をはさんだ東側から径270cm×160cmの楕円形状の土坑が見つかっている。これは墓(土坑墓)ではないかと推定されている。
土坑墓(どこうぼ)とは、土を掘りくぼめて穴(土坑)をつくり、そこに人の遺体を納めて葬送した遺構。土葬にともなう世界的にポピュラーな埋葬に用いられた遺構であるが、日本では縄文時代~弥生時代に多い墓の形式であり、その場合「土壙」とか「土壙墓」と表記される場合もある。