後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

我が第二の故郷、山梨県北杜市の驚異的な縄文土器と農耕の始まり

2016年08月12日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県北杜市の甲斐駒山麓に小生の山林の中の小屋があります。6畳と4畳半の二間だけの小さな小屋を作りました。しかし40年以上通っているとその北杜市が自分の第二の故郷のようになりました。
第一の故郷は生まれ育った仙台市です。仙台市の歴史はいろいろな記事で書きましたので、今日は、北杜市の縄文時代の驚異的な縄文土器と農耕の始まりをご紹介いたしたいと思います。
その前に北杜市の位置を簡略にご説明いたします。山梨県の西端にあり、釜無川の上流で八ヶ岳と甲斐駒岳の山麓にあります。清里、大泉、白州、武川、須玉などの町や村が合併して出来た広い面積にまたがる市です。
私の小屋は旧武川村にあります。

さて小生の山林の中の小屋から北西に30Kmくらいの所に江戸尻考古館という縄文土器の展示場があります。八ヶ岳の南麓や西南麓は伏流水が地表に現れ数多くの清流になっています。その多くは釜無川に流れくだっております。黒曜石の産地の和田峠も近いことから旧石器時代から縄文時代にかけて比較的多くの人が住んでいました。
特に5000年くらい前の縄文時代中期には住人も多かったらしく大型の土器が多数出土しています。炉跡のある円形の住居跡もあります。出土した土器は大型で、その上、形が奔放でエネルギーに溢れているのです。嗚呼、こんなにも力強い人々が住んでいたのだと驚きます。題目に・・・驚異的な縄文土器という表現を用いましたが、それは誇張ではなく私の実感なのです。
それらの縄文土器は江戸尻考古館(http://www.alles.or.jp/~fujimi/idojiri.html)に収蔵され、一部は常設展示されています。その中から約5000年前の代表的な縄文土器の写真を示します。

1番目の写真は水煙渦巻文深鉢です。
1番目から4番目の写真で示した派手な飾りのついた土器は宗教的な祭器として作られたと想像されます。

2番目の写真は神人交会文深鉢です。

3番目の写真は蛇文装飾深鉢です。

4番目の写真は四方眉月文深鉢です。

5番目の写真は毎日、煮炊きに使用する土器の写真です。
煮炊きに使用する土器は飾りの無い深い壺で、底が平らになっていて炉の真ん中に立て、回りから火を焚いて獣肉や穀類を煮込んで食べていたようです。
底が尖っている土器も多いのですが、それは炉の底土に突き刺し、周囲を石で支えて煮炊きしていたようです。

食材を煮たり蒸したり出来ることは旧石器時代の「焼き」だけの調理方法からみると革命的な進歩なのです。
その進歩を考慮に入れて縄文時代中期や晩期には畑作農業が狩猟採集と並行して行われていたという説もあります。
江戸尻考古館では縄文農耕説の証拠として農耕用に使用されたと推定される石器を体系的に整理して下の写真のように展示しています。

6番目の写真は畑を耕した農耕用の石鍬(いしくわ)と想像されています。

7番目の写真や畑の雑草をとった除草用の小型鍬(くわ)と考えられます。
江戸尻遺跡が縄文農耕説の発祥になっているという説明文をHPから以下に転載いたします。
・・・・ 井戸尻遺跡発掘に取り組み、八ケ岳山麓の考古学において、先駆的な業績をあげた藤森栄一は、戦後まもなく、八ケ岳山麓から出土する考古遺物を検討するなかでこれらの文化構成は、どうしても農耕があったと考えなくては理解がつかないという考え方に達した。縄文時代は、狩猟や採集などを中心とした社会であったとする当時の学会の認識からは、到底納得しえない衝撃的な内容のものであった。これが世にいう「縄文農耕論」である。これらも今日的にみれば、論旨のなかに不十分な点や修正すべき内容のあることはいなめない。
しかし井戸尻考古館では、この意志を受け継ぎ、縄文農耕の立証と文化内容を一貫して追求してきたが、この10年来、面目を一新するような段階に至った。中期の主要な石器群を体系的に把握することに成功したのである。石器は農作業の一連の過程を担う農具であり、その農具の組み合わせからは、常畑(じょうばた)における雑穀栽培を主とした集約的な農法があったという考えに到達している。・・・以下省略

私も縄文人の全部ではないが一部、農業の好きな人だけが自分の家の周囲に小さな畑を作り、野生の稗や粟を、あるいはクリの木や柿の木のような実のなる木を植えていたと考えるのが自然だと思います。
しかし当時はイノシシや鹿や猿が現在よりも非常に多数棲んでいたので家から遠い畑は全て彼らに食べつくされ役に立たなかったと信じています。
自分の山林の中の小屋の周囲では花を植えても、野獣に食べつくされ、とても大規模な農耕など不可能なのです。
農業は山地でなく野獣の来ない広い平野に水田を作るようになった弥生時代から本格的に発達したという理解が正しい理解と思います。

しかし小規模ながら縄文時代にも農耕が行われていたという理解も正しいと思います。その違いは規模の大小と水田の有無である思います。
文化というものは突然変化するものではなく、少しずつ変化して行くのが原則だと思っています。ですから地方によっては縄文文化と弥生文化が並行したり、混合していた時代があると理解できます。
以上が我が第二の故郷、山梨県北杜市の約5000年前の驚異的な縄文土器と農耕の始まりのご紹介です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)