後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

老いの悲しみ、淋しさと道端に花々のある風景

2016年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム
人にもよりますが、ほぼ70歳以上になると老いというものを意識するようになります。
そうすると人生の全ての束縛から解き放されて、毎日が実に明るく、楽しくなるものです。これを老いの華やぎと言うこともあるようです。
しかし同時に老いの悲しみや淋しさが時々、湧き上がって来ます。
老いの悲しさや淋しさにはいろいろな原因があります。
その原因の一つに親、兄弟、や恩人や友人がみんな、みんな亡くなってしまうことがあります。自分独りだけがこの世に取り残されているのです。
亡くなって淋しさを感じるのは親や恩人だけではありません。戦後、読みふけった数多くの本の作家もみんな亡くなってしまいました。
思い出すままに書くと、遠藤周作、堀田善衛、北杜夫、井上靖、三島由紀夫、内田百閒、船橋聖一、山本周五郎、水上勉、武田泰淳、新田次郎、開高兼、大岡昇平、石川達三、林芙美子、火野葦平、檀一雄、高見順、大仏次郎、川端康成、谷崎潤一郎、志賀直哉、などなど。
歌で勇気づけられた美空ひばりが亡くなったときは悲しいショックを受けました。
そして戦後の映画でよく見た俳優が次々に亡くなって行くのです。まだ存命の方もいますが、テレビではめったに見えません。
その俳優を思い出すままに書いてみます。
山本富士子、原節子、岸恵子、高峰秀子、山田五十鈴、司葉子、浅丘ルリ子、若尾文子、佐田啓二、三船敏郎、緒形拳、菅原文太、池部良、仲代達矢、フランキー堺、 渥美清、高倉健、などなどです。

此の世に私の知っている人が皆いなくなるのです。私を知っている人も皆いなくなるのです。
これほど悲しく淋しいことはありません。
この老いの寂寥感は普通は忘れています。老境の遊びに取り紛れているので悲しさや淋しさをあまり感じません。
しかし都会の雑踏の中を歩いている時など、フッと寂寥感に襲われます。まわりにこんなにも人が歩いていても、私を知る人は一人もいません。それほど孤独なことはありません。
そして誰も居ない高原の道路を車で走っている時も、フッと寂寥感が心に湧き上がってきます。写真をご覧下さい。

この1番目の写真は甲斐駒岳の麓の高原の道路の写真です。私の車が小さく頼りなげに写っています。暗い曇りの日だったので一層淋しい風景に見えました。
しかしこの道路の道端には色とりどりの花々が沢山咲いていたのです。
花々の美しさに誘われて車を停めました。

2番目の写真は車を停めた道路わきに咲いていた花々の写真です。
車から降りて何枚も何枚も写真を撮りました。その中から3枚の写真をお送り致します。





車から降りた途端に心を暗くしていた寂寥感がすっかり吹き飛んでしまったのです。
私のそんないい加減さに自分ながら驚いてしまいます。

そうして発見したのです。「花々は老人の淋しさや悲しさを吹き飛ばす」という発見です。
おおげさな書き方ですね。この花々を育てているのは傍の別荘に住んでいるご婦人です。
以前、少し話をしたことがあります。花が好きだから、楽しいから植え、育てているそうです。何故、お好きなのですかと問えば、「理由はありません。好きだから植えているのです」と静かに話していました。 

老いの悲しさや淋しさが道端の花々で消えていまったのです。それだけの話です。
でも蛇足を書きたいのです。
お葬式に行くと沢山の花々が飾ってあります。あの花々は残った遺族や友人の悲しみをいやしてくれているのです。そして故人も天上から花々を見て別離の悲しみをやわらげているのです。
花々は悲しみをやわらげるだけではありません。花言葉というものがあるように人と人の美しい絆も作ってくれます。愛を強めてくれます。でもあまり長くなるので、その話題は別稿に譲りたいと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)