後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

何故、富士山、富士五湖、忍野八海、北口富士浅間神社などが世界文化遺産か?

2016年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム
国連のユネスコの世界遺産には3種類に分かれています。知床や白神山地のような自然遺産と、京都の文化財や白川郷の合掌造り集落などの文化遺産、と日本にはまだ無い複合遺産の3種類です。
自然遺産とは文字通り非常に美しい景観の山や湖や海の組み合わせが主なものです。一方文化遺産とは人類の遺産として残すべき人間の作った特別な文化のことでです。
複合遺産とはこの2種類の遺産が複合したもので、日本にはまだありません。

今日、ご紹介する「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」は文化遺産に分離されます。
これは富士山にまつわる信仰や宗教と、芸術活動に対して認定されたものです。
従って富士山や富士五湖や幾つかの浅間神社がそれぞれ単独で認定された訳ではありません。
しかし観光客を集めるためもあって、「世界遺産の忍野八海」を見に行こうとか「世界遺産の北口富士浅間神社」をお参りに行こうという表現がよく使われています。
しかしこの表現は、文化という二文字が省略されているので、しばしば誤解を招くことになります。

さて、2013年に認定された「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」には、それを証明する構成資産が全部で25箇所もあるのです。この25の構成資産の全部を一まとめにして世界文化遺産に認定されたのです。
すなはち富士山、富士五湖、忍野八海、北口富士浅間神社などが世界文化遺産に認定された理由はそれにまつわる文化が貴重だったからなのです。

一昨日、この25の構成資産の一つである北口富士浅間神社の写真をいろいろ撮って来ました。その写真の説明の前にまず全体的な説明をいたします。

静岡県と山梨県にまたがる富士山は古来より信仰の対象とされ、その上、芸術上の主要な題材としてされてきました。
その日本人の富士山にまつわる宗教活動と芸術活動が国際的に非常に貴重だと認められたのです。

それでは芸術活動とは具体的に何を意味するのでしょうか?
今から約1,200年前、奈良時代にはすでに富士山を題材にした歌が、日本最古の歌集である「万葉集」に詠まれています。
また、富士山は、『竹取物語』や『伊勢物語』などの古典作品をはじめ、俳句や漢詩、夏目漱石や太宰治の文学作品にも取り上げられてきました。
絵画の世界では、平安時代から富士山は絵画に描かれるようになります。現存する最古の絵画は、秦致貞の『聖徳太子絵伝』です。
そして江戸時代になると、富士登山が「富士講」等を通じて庶民に爆発的に人気となると、富士山も多くの絵師に描かれるようになりました。葛飾北斎の『冨嶽三十六景』や歌川広重の『不二三十六景』、『東海道五拾三次』など、様々な場所から見た富士山が浮世絵に描かれています。浮世絵が海外に輸出されるようになると、ゴッホやモネなど、西洋の芸術家にも大きな衝撃を与えました。

それでは一方の宗教活動とは何でしょうか?
それは富士山信仰のことです。富士山そのものを信仰の対象としたもので修験道の山行きとそれを支える幾つかの登山口にあるそれぞれの浅間神社です。修験道の山行きが重要なので吉田口や須走口から登る登山道などもこの文化遺産に含まれているのです。

それでは構成資産の一つである北口富士浅間神社を一昨日撮って来た写真に従ってご紹介いたします。

1番目の写真は本殿です。元和元年(1615)鳥居土佐守創建です。一間社入母屋造、向拝唐破風造、檜皮葺屋根、安土桃山様式で 昭和28年、国指定重要文化財に指定されました。

2番目の写真は修験者と僧侶に導かれた富士講の行列です。この写真こそ富士山信仰の修験道の山行きの出発前の行列なのです。
「六根清浄、・・・」と唱和すれ声が杉並木に神秘的にこだましていました。

3番目の写真も2番目と同じ僧侶に導かれた富士講の行列です。富士信仰は修験道で神仏混交の信仰です。

4番目の写真は本殿前から見た杉の巨木の並んだ参道の写真です。

5番目の写真は本殿とその右下に和服の女性と黒人が写っている写真です。和服の女性が本殿の横での無料の抹茶の席へ誘っています。

6番目の写真は本殿横の野点の様子です。和菓子も上等で茶のたて方もなかなかなものでした。実に優雅な野点でした。

7番目の写真は家内とそこで仲良くなったジャマイカ人の男性の写真です。リオ五輪で金メダルを三個とったウサイン・ボルトの従兄弟だという人と家内がボルトのポーズをとってふざけています。

以上の写真はあくまでも25構成資産のたった一つのご紹介です。
北口富士浅間神社は山中湖に行く道の途中にあるので、昔から何度も寄りました。
いつも人影の少ない静かな神社でしたが、一昨日は参拝客が多くて、野点の抹茶のサービスまでありました。これも世界文化遺産に認定されたお陰でしょうか。
今度は寄なかった忍野八海にはいつも中国人の観光客が溢れ、中国語が飛び交っています。

世界自然遺産は美しい自然の保護に役にたちます。世界文化遺産は各地の貴重な文化の保存に役にたちます。しかしあまりにも観光客が増大すると逆効果になる恐れが感じられます。何故か考えさせる問題です。そんなことを考えながら写真を撮ってきました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料===============
構成資産とは、富士山が「信仰の対象」「芸術の源泉」となった価値を具体的に証明できる文化資産のこと。山体だけでなく、古より富士山と関わりを持つ周囲の神社や登山道、風穴、溶岩樹型、湖沼などがあります。世界文化遺産としてふさわしい価値を有している、富士山の構成資産のすべてをご覧ください。

構成資産は全部で25箇所! これぜーんぶで「世界遺産」なんです!
http://www.fujisan223.com/reason/kouseishisan/
1. 静岡県・山梨県
富士山(富士山域)
「信仰の対象」と「芸術の源泉」の価値を持つ、標高約1,500m以上の重要な地域に9件の構成要素が存在。

1-1. 静岡県・山梨県
山頂の信仰遺跡群
火口壁に沿って神社等の宗教関連施設が分布し、山頂部で宗教行為が体系化されたことを示しています。
1-2. 富士宮市
大宮・村山口登山道(現 富士宮口登山道)
富士山本宮浅間大社を起点とし、村山浅間神社を経て山頂南側に至る登山道。資産範囲は六合目以上です。

・・・中略・・・
1-5. 富士吉田市/冨士河口湖町
吉田口登山道
北口本宮冨士浅間神社を起点とし、山頂を目指す登山道。18世紀後半以降、最も多く利用されています。
1-6. 富士吉田市
北口本宮冨士浅間神社
浅間大神が祀られていた遙拝所を起源とし、1480年には鳥居を建立。富士講とのつながりが強いとされる。
・・・以下省略・・・・
そして静岡県の三保の松原が25番目の構成資産になっています。

日本の原子力発電が再稼働、その危険性を忘れないようにしよう!

2016年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム
2011年3月の東日本大震災の前までは54基の原子力発電装置が正常に運転されていました。
一基あたり大体100万キロワットの発電をしていましたので、合計約5000万キロワットの電力が原子力発電によってまかなわれていたのです。それは日本の総需要の30%弱でした。
その54基のうち福島にあった4基の原発が大津波に襲われ水素爆発をしたのです。放射性物質が吹きあがりました。
爆発した原発の近隣の市町村からは人々が避難し、長期間、無人となり荒れ放題になりました。
その後、定期点検などで運転を長期間停止する原発が続きました。その結果、1年間ほど日本では原発がまったく発電していなかった期間がありました。
その後、厳しい安全性の検査が合格して、今年から数基の原発がまた発電を始めたのです。
しかし運転再開後の原発の安全性を徹底的に維持しなけらばなりません。
それには原発の危険性を再確認し、それを忘れないようにすることが非常に重要であると信じます。
日本には「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という言い方があるように、最近、あの原発の爆発のことを忘れてしまうような雰囲気があります。
そこで今日は福島の4つの原子力発電装置が何故爆発し、どのような被害を受けたか振り返ってみましょう。
それではまず爆発後の原発発電装置の写真をご覧ください。





写真の出典は、http://www.asyura2.com/11/genpatu8/msg/430.html です。
この航空写真は Air Photo Service Co. Ltd によると発表されていました。非常に精密な写真で、現場の様子が手に取るように良く分かります。この写真は始め国内では報道されず外国で公開されていました。

1号炉から3号炉が水素爆発したのです。燃料棒がメルトダウンして多量の水素を発生したのです。炉心圧力容器の底が損傷して核燃料の一部が格納容器へ漏れ出したのです。4号炉は燃料棒の貯蔵水槽が吹き上がりました。その上、強力な水素爆発も起きたようです。
これらの爆発によって冷却水を送る脆弱な配管類も壊れたのです。その結果、冷却水がメルトダウンした炉心に送りにくい状況が現在でも続いています。結果として、汚染水を入れる強大な多数のタンクが福島第一原発の広大な敷地内に林立しています。

それでは住民が避難して無人となった市町村はどうなったのでしょうか?
人々がいなくなったので田畑が荒れ果てました。餌をやる人がいなくなったので多数の家畜が死に絶えました。田畑にはイノシシが跳梁している地域もあります。
原発の爆発から3年後の2014年1月に住民が避難した福島県の浪江町に入った人がいます。
その方の「福島第一原発20Km圏内の現状を見る」という報告記事をご紹介いたします。
尚、その詳細は、http://blog.goo.ne.jp/s-sakai3104/e/2ec597de565066f68beeee5b2fa29e57 に御座います。

・・・ 宮城県方面からから国道6号を南下し、南相馬市小高地区から浪江町に進入します。
原発事故に伴い設定されていた警戒区域が、昨年5月28日午前0時に解除されてから 早8ヶ月が経ち、現在の現状がどうなっているのか気になるところです。道路わきの風景写真を示します。

警戒区域が解除され、新たに年間放射線量に応じて「帰還困難区域(50ミリシーベルト以上)」「住居制限区域(20~50ミリシーベルト以下)」「避難指示解除準備区域(20ミリシーベルト以下)」 の3つの区域に再編されています。

警戒区域の全解除=立ち入りが可能になるというわけではありません。警戒区域は全てなくなりましたが、放射線量が高い地域は原則立ち入り禁止が続きます。それが散在しているのです。
「帰還困難区域」については、今後5年を経過しても生活が可能とされる年間放射線量20ミリ・シーベルトを下回らない地域とされてますから、警戒区域指定の時期と変わらないのです。
むしろ今後4年間は立入が制限され住民の帰還をさせないと宣告した状態です。もう一枚、風景写真を示します。

警戒区域では検問所があって警察官が1人ひとり立入許可証の確認をしています。いったん中に入ると浪江町内は自由に走行できたけど、現在は6号から町内への交差点は、すべてバリケードで閉鎖しており、決まった数箇所の出入り口からしか入れなくなってました。
住居制限地域も同様のようで、そこにはガードマンが立っていて、やっぱり立入許可証の提示を求められます。

ちなみに「住居制限区域」」は年間放射線量が20ミリシーベルトを下回るのに数年掛かると思われる地域で、一時帰宅は可能であり除染で線量が下がれば帰還可能な区域です。

海岸線を見たことろ、 周辺では道路の復旧工事や圃場に散乱した瓦礫撤去を細々とやっていた印象です。
振り返って国道6号側を見たところ、瓦礫は全然片付いていません。やっと散乱していた瓦礫を集積して所々に山にしているだけでした。
宮城、岩手の津波被災地は復旧が進まない進まないと言われながらも、瓦礫の片付けと撤去はほとんど終わってきています。
それに対して原発事故の影響地域は、進まないどころか間もなく3年になろうとしてるのにほとんど震災津波被害の状態のままといった印象でした。 道路わきには当時走行していたであろう車が、衝撃の激しさを物語るようにグシャグシャになってひっくり返ったままの状態です。 元は田んぼと思われる場所にも車が点在したままです。 放置された車の向こうに、津波で破壊された住宅が見えます。
一階は流されて吹き抜け状態の住宅ですが、けっこう立派な家が多いのです。・・・・

以上にご紹介した状況は2年前のものであります。現在はもう少し復興はしたと存じます。
しかし2014年から5年を経過しても生活が可能でない「帰還困難区域」があちこちに散在して残っているのです。住民にとって普通の生活が出来にくいのです。従って避難指示解除準備区域でも帰る人が少ないといいます。

このように原子力発電装置には大きな危険が伴っているのです。
停電の場合の自家発電装置の設置や水素爆発を防ぐ放出弁の設置など数々の改良はなされましたが、原発の危険性を忘れずに慎重に運転することが非常に重要なのです。
現在、数基の原発が再び運転され始めました。
私個人は再び運転を始める原発の数を可能なかぎり少なくし、太陽光発電や水力発電や火力発電で不足分をまかなってほしいと願っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)