後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

パリの寸描、その哀歓(2)パリ的交通渋滞

2016年12月02日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
このブログではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回はフランスやドイツに長く住んで子育てを経験したEsu Keiさんに寄稿を頼みました。ご主人の仕事のため1974年の秋から84年の間滞在しました。
日常の生活で感じたことを飾らず素直な、そして読みやすい文章で綴ったものです。
何気ない書き方ですが、人々の息づかいが感じらるのです。ユーモアもペーソスがあります。そして温かい人間愛がそこはかと感じられるのです。
連載の第ニ回目は、「パリ的交通渋滞」です。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

===「パリの寸描、その哀歓(2)パリ的交通渋滞」Esu Kei著====
ある日のこと珍しく中心市街へ出て帰りが丁度ラッシュアワーに当たってしまった。何故かその日は特別に混んでいた。パリの道路では車線がないので、適当に走る人が多い。困るのは物理的に通れるところを縫って走る車も多いということである。その日の渋滞では、カミオンも、タクシーも、乗用車も、正に缶詰状態(フランス語では瓶詰≪embouteille≫という)。僅かな空間に割り込もうとする身勝手ドライバーの多いこと。結果...道路の隙間をモザイクのように埋め尽くした車、車、車...前後左右どうにも動けない。信号は最早ないも同然。私が乗っていたのは路線バス。あちこちで苛立ったクラクションの音。車から体を半分乗り出し、こぶしを振り上げている人の怒鳴り声。バスの中ではにっちもさっちもいかないと諦めた乗客が妙に静かである。運転手も「渋滞で遅れ、ご迷惑をかけます。」なんてことは言わない。見ればわかることだし。そのうちに誰かが電話したのだろう、プーパープーパーとパトカーがやってきた。誰も動けない道路のどこを通ってくるかといえば、なんと堂々と歩道を走ってくるのである。幸いパトカーは小型で、パリの歩道は人々がちょっとよければ車一台くらいは通れるところが多い。警官が手動で交通整理を始めるのだと誰もが思った。パトカーから3人の警官が降りてきた。どうしたものかと大渋滞を見回し、顔を見合わせ、両手を広げ、肩をすくめ(例の “為す術なし!”のポーズ)、またパトカーに乗り込み、プーパープーパーと間抜けな音を立てて戻っていった。タクシーをはじめ、車、車のクラクションとブーイング!... さてこの後どうなったか?
一台のタクシーから運ちゃんが降りると、自分の車の前にいる車の何台か(10台前後?)を誘導して、歩道に並べ始めたのである。それが呼び水となって、あちこちでタクシーの運ちゃんたちが同じことをする。集まって相談しなくても、やるべきことは分かっているとばかりに交通整理を始めたのだ。こうしてある程度隙間ができると、もう誘導は止めて素早く車に戻り、自分が先ずそこを通る。そのためにも自分の車はちゃんと車道に残しておくのだ。どんな大渋滞でも、ほんの数パーセント車が減ると流れはできるのだ。私の乗っているバスも、動き出した。乗客は知らない者同士、お互いに顔を見合わせて、“Enfin, on se debrouille comme ca!(やれやれ、なんとかなったわ)” ”Tant mieux(良かった)”とか呟いて頷き合っている。車の流れができてきた。それでもいつもは30~40分の道のりをこの時ばかりは1時間半もかかったのである。
さてあの後、歩道に退避させられた車がどうなったか、再び渋滞が起きなかったかどうかは分からない。でも誰かが何とかしたにちがいない。
ああいう時のタクシーの運ちゃん達の機転(自分の車が最優先ではあるが)と連係プレーはすごい。大いに褒めたたえられるべきところである。パトカーが尻尾を巻いて逃げ出した後だからこそなのである。その前に勝手に歩道に車を誘導すれば警察の交通課は黙って見過ごしたかどうかは分からない。
私はこの文の中でタクシーの運転手さんたちを運ちゃんと呼んだが、それは親しみと尊敬を込めてのことだからお許しいただきたい。パリの運転手さんたちにはそう呼びたくなる風情があるのだもの。(続く) 

さてこの記事の挿し絵として私の好きなモネの「サン・ラザール駅 」を示します。
この絵が描かれた1877年の頃のパリの街路には貴族を乗せた馬車だけがのどかに走っていたのです。自動車が増えだしたのは1909年にT-型フォードが多量生産されるようになってからです。
モネが活躍していた頃の交通機関の主流は蒸気機関車だったのです。
そんな頃のパリの風景をご想像して頂き、現在の交通渋滞と比較して考えると興味が深まります。
何年も前にパリでこのモネの「サン・ラザール駅 」を見た時の感動を思い出します。

サン・ラザール駅 (La gare Saint Lazare) 1877年
75.5×104cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)
印象派最大の画家のひとりクロード・モネの代表的な作品のひとつ『サン・ラザール駅』は1877年の第3回印象派展に出品された30点あまりの画家の作品群で最も批評家たちの注目を集めた絵画だったそうです。1837年に建設されたフランス初の鉄道の発終着駅≪サン・ラザール駅≫を描いた8作品の中の1点で、公式な許可を得て駅舎の中で描いたことが知られています。

「今日の日記、甲斐駒岳の麓の小屋に行ってきました」

2016年12月02日 | 日記・エッセイ・コラム
帰りの中央高速自動車道度で後ろの窓から家内が夕日に染まる空の写真を撮りました。一日中、快晴で富士山、南アルプス連峰、甲斐駒岳、そして八ヶ岳が鮮明に見えました。新鮮な空気の中をゆっくり車を走らせて来ました。





今週から待降節、そして間もなくクリスマスがやって来ます

2016年12月02日 | 日記・エッセイ・コラム

(この絵画は1130年頃に建てられたノルウェーの世界遺産のウルネスの木造教会です)

先日の11月27日の日曜日はクリスマスを待つ「待降節」の始まりでした。
カトリックでは祭壇の上に太いローソクを4本立て待降節の間の日曜日に一本ずつ火を灯してからミサを始めます。アドベント(待降節)の歌を唄いながら子供がローソクに火を灯します。
こうして待降節が始まると、嗚呼、クリスマスの季節がやって来たなと何となく楽しくなります。
そこで今日はクリスマスにまつわる話を書いてみたいと思います。
まずイエスさまが生まれたいきさつを書きます。
ローマ帝国の占領地であった中近東にイエス様が生まれました。ローマから派遣された総督がその地方を統治しています。丁度、マッカーサー司令官が敗戦後の日本を統治していたような状態です。その地方はユダヤ教の地でした。
現在のイスラエルの死海のそばのナザレという町があります。そこに大工のヨゼフとマリアが住んでいます。

当時のローマ皇帝が全領土の人口を正確に調べることにしました。ヨゼフとマリアは自分の郷里のベツレヘムへ行き登録しなければならないのです。この政策ではローマ帝国領の住民全員が出身地へ帰って戸籍簿へ登録する必要があったといいます。
ヨゼフとマリアがベツレヘムという町の郊外にやっと着いたときは夜も更け、どの宿屋も満員でした。仕方が無いので馬屋の中の少しでも温かい所に寝ることにしました。明け方に、マリアが一人の男の子を産みます。生まれた赤子は飼葉桶の藁の中に寝かせました。イエスはこうして生まれたのです。

飼葉桶の赤子は成長して、新しいユダヤ教を広めました。イエス様は異教徒や下層に生きる人々を差別なく大切にしました。
ユダヤ民族もあらゆる民族も差別しないという教義のためギリシャ、ローマ、アフリカと広まり、ついには世界中に広まりました。
そしてキリスト教と呼ばれる世界宗教に育っていったのです。

クリスマスは、この赤子がベツレヘムで生まれた誕生日です。
もちろん2000年位前の大昔のことですから、正確な月日は分からないと考えたほうが学問的には正しいと思います。
誕生日はヨーロッパに伝わって北欧の冬至祭と一緒になり、古くから12月25日の明け方に生まれたということになりました。ですから24日はイエス様の生誕前夜祭(クリスマスイヴ)と言います。

キリスト教信者はイエスが2000年位前の実在の人間で、新約聖書に書いてある数々の奇蹟をおこしたと信じている人々のことを言います。またイエス様は神から遣わされ、後にピラト総督の裁判によって処刑され、3日後に復活し、現在は神の右の座についていると信じている人々です。
そうして信者にとってはイエス様は現在でも生きていると信じています。
この感覚を日本人へ分かりやすく説明するとき、私は何時も四国のお遍路さんの気持を説明します。お遍路さんは「同行二人」と信じて苦難の道を歩き通すのです。同行二人とは弘法大師と自分の二人という意味です。いつも弘法大師様が付いてきて下さるから、苦しい道も歩き通せるのです。

さて2000年も前に死んだイエスさまの誕生日を何故いつまでも祝うのでしょうか?
その説明は2008年の12月の待降節の折に山本量太郎神父様がして下さいました。
子供が山本神父さんへ聞きます、「イエスさまは、ずうっと昔に死んでしまったのに、なぜ毎年誕生日のお祝いをするの?」
返事に困った神父さんが(イエスさまがよく聞き返したように)、「どうして、そう思ったの?」と聞き返したそうです。
女の子はおじいちゃんが大好きでした。毎年おじいちゃんの誕生日のお祝いの宴が楽しいのです。ところがある年からその楽しい宴会が突然なくなりました。おじいさんが死んでしまったからです。死んだら誕生日はお祝いしない。女の子は悲しい理解をしました。でも教会では毎年クリスマスにイエス様の誕生をお祝いします。

山本神父さまはこの思いもかけない質問に一瞬戸惑います。が、次の瞬間あたかも精霊がおりてきたような感じで、良い返事を思いつきました。
「それはね。イエスさまは今でも生きているからですよ。いや毎日私達の中に生まれているから、誕生日をお祝いするのですよ」、続けて山本神父さんがおっしゃいました。
「この答えに女の子は納得した様子ですが、一番よく納得したのは私自身でした」
この一言で教会中が笑い出しました。
山本神父様の説教はこれだけでした。いつも説教が簡潔なのです。でも意味が深いのです。
クリスマスはそういう意味のお祝い日なのです。

今日のクリスマスにまつわるお話はこれでお終いです。
挿し絵代わりの写真は1130年頃に建てられたノルウェーの世界遺産のウルネスの木造教会の絵画と写真です。出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%9C%A8%E9%80%A0%E6%95%99%E4%BC%9A です。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

この教会が建築されたのは、1130年前後と推測されています。ウルネスの教会建築は、キリスト教建築とヴァイキング建築が結びついた、いわゆる「ウルネス様式(en:Urnes style)」と呼ばれます。
考古学的調査によれば、現存する教会よりも前に1つあるいは2つの建物があったと考えられています。