まえがき、
この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
フランスやドイツに長く住んで子育てを経験したEsu Keiさんに寄稿を頼みました。1974年から1984年の間フランスとドイツに主婦として滞在していました。
ご寄稿頂いたものを「パリの寸描、その哀歓」という連載にして9回掲載いたしました。
今日の記事はこの連載に無理に入れないで独立した記事にいたしました。
外国でこ息子が重病になった時の母親の心痛ぶりとお医者さんとの交渉が書いてあります。
嗚呼、母親は偉い!男には絶対真似が出来ない!やっぱり女は立派だ!脱帽だ!と男性の私が思いました。そん内容の記事です。
====「6歳の息子が脳膜炎?!」Esu Kei著========
6月のある暑い日の晩、長男(6歳)が、頭痛と発熱でえらくぐずっていた。
その日は6月には珍しいくらいの猛暑で、昼間は子ども達を連れてプールに行った。プールは芋の子を洗うような混雑だったが、子ども達はそんなことは物ともせずよく遊んだ。ちょっと遊びすぎて疲れたのかも知れないと思った。長男はもともと元気のいい子で、病気になるときは高熱があって、ぐんにゃりしていても、少し熱が下がればあっという間に元気になってしまうので、はじめはそれほど心配もせず、翌朝を待ってかかりつけの医師の診察を受けるようになるだろうと予想していた。
ところが、夜が更けるにつれて、騒ぎは大きくなり、抱いてもなお騒ぐという有様に、やはりSOSドクターを呼ぼうということになって、電話をすると、若い男性の小児科医が駆けつけてきてくれた。診断はおたふくかぜの可能性があるとのことだった。SOSドクターは薬も持って来てくれるので、抗生物質と、ほかにも薬をくれて、かかりつけの医師あてに、丁寧なコメントを書いてくれた。(ヨーロッパでは、緊急医でなければ、医師は薬を処方し、患者が薬局で買うようになっている。)
翌朝、かかりつけのファンケル医師に電話をするとすぐ来るようにと言ってくれた。私の感覚では、少なくとも深夜を過ぎてからは眠っていたし、熱も38度台にとどまっているし、抱き起こそうとすると首筋が痛いらしく喚くものの、洋服も着替えていける程度だったので、やや回復して来ているように見えていた。夫に会社に出るのを待ってもらって次男を預け、ベビーバギーに長男を乗せたが、6歳の子にはバギーは小さくて、首の重さを自分で支えられず、首が後ろに倒れてそれが痛いらしい。ベッドの大きい枕を当てて何とか首をまっすぐに支えると静かになる。幸い医院はごく近くである。
ファンケル医師は、枕で頭を支えてバギーに乗せられ、私が診察台にのせるために抱き上げたときに息子が声をあげたのを観察していたに違いない。SOSドクターのコメントを読んでいたが、顔が曇る。私に前日からの状況を尋ね、難しい顔をして首の後ろの痛みに注目していたが、やがて顔をあげて、「抗生剤を飲ませましたか?」と聞いた。私が「はい、指示された通りに2回飲ませました。」と言うと、ドクターの顔はますます険しくなる。何か間違ったことをしたのだろうか?「何か問題でも?」「ちょっと心配すべき状況です。うなじの痛みとこわばりは、メナンジットの可能性を示唆しているように思います。脳に関することですから心配です。」「...(初めて聞く病名である。まさか脳膜炎では???)」「いずれにしても、すぐ病院で検査をして診断をつけなければいけません。抗生物質を飲ませてしまうと、細菌の特定が難しくなることもあるので、さっきそれを確かめたのです。飲んでしまったものは仕方ありません。かりに私の診断が外れれば喜ぶべきことですが、少なくとも、こんなに苦しんでいる子どもを、家で看病することは無理ですから、今は入院させるしかありません。市民病院に行ってください。救急車を呼びますか?それとも自分の車で?」救急車を呼ぶより、自宅にいる夫のほうが早そうだった。「私は運転ができないので、夫を呼びます。」電話を借りて夫に連絡している間に、ドクターは病院充てにコメントをまとめてくれた。
すぐに夫が来てくれて、市民病院までは車で5分ほどである。ファンケル医師が連絡しておいてくれたので、受付でその旨言うと、すぐに救急診療室に通してくれた。
結局、脊髄液の検査、頭蓋のエックス線の検査ばかりでなく、耳や鼻、目などいろいろな緊急検査が行われ、診断はウイルス性のメナンジットであろうというところに落ち着いた。おそらくプールで鼻から水が入るなどして感染したのだろうということだった。細菌性のものであれば、菌を特定し、その菌に効力のある抗生物質で叩くことができるが、ウィルス性の場合はそれができない。ただウィルス性のほうが軽く推移することが多く、対症的な手当をしているうちに治まることが多いし、命にかかわる確率は低く、脳への影響は症状の重さと時間の関係が大きいとのこと。長い一日が過ぎて、家に帰ってから辞書を引くとmeningiteは脳膜炎とある。息子はずっと意識を失うことはなかったし、熱も39度を越さない程度なので、私は息子の強運を信じることができた。
2日ほどで熱も下がり、その後順調に回復したが、首のガングリオンの観察のために留め置かれ、2週間ほどで退院した。
退院手続きするときに驚いたのは、「払いますか?」と聞かれたことだ。「払いません」と答えてもいいのだろうか?夫に聞くと「うちの場合だと、社会保険に入っていないから、私的にかけている傷病保険が降りるまで待ってもらうとか相談ができるようになっているんだろう」とのことだった。夫は小切手帳を持ってきてくれていたから、「払います」の返事ができた。子ども用の4人部屋であったが、日本円で20万円近い金額だった。
しばらくは投薬を受けていたが、いつもの生活に戻った。脳への影響はないだろうとのことだった。ところが冬になって、また似たような症状が出て慌てた。この時は夫が出張中のことで、ファンケル医師に相談すると往診に来てくれた。同じ子どもが短期間に2度というのは考えにくいけれど、脳に関することだからやはり病院に行くべきでしょうと、往診に来た車でそのまま市民病院まで送ってくださった。私は運転しないし、小さい次男もいることを考えての厚意に甘えさせていただいた。市民病院には小児科に空きがなく、診察後救急車を呼んでくれてとなりのコロンブの病院に送られた。病状は重くないので、子どものショックを考えるとタクシーでも良かったのだが、ちょうど夕方のラッシュの時間なので、サイレン付きの緊急車の方がよかろうということになって救急車になった。一緒にいた次男の方がショックを受けてじっと押し黙っていた。
コロンブの病院はヌイイの病院より新しく広かった。すぐに小児科医が来てくれて検査をしたが、前の罹患のリアクションであろうとのことで、観察のための入院と言うことにはなったものの、深刻なことはなさそうだった。ほっと胸をなでおろした途端に、病棟は感染の恐れがあるからと、入れてもらえなかった次男をロビーに一人でおいてきたことが私を責めた。ゆっくりと言い聞かせたり宥めたりする時間もなく、ここで待っててとぞんざいに置いてきたのだ。
2時間以上は立っていただろう。走るように戻ってみると、すっかり暗くなった(驚いたことに電灯は消されていた )ロビーの椅子に倒れるようにもたれて眠っている。抱き上げると涙の痕が胸を突いた。初めて来た病院で、診療時間外のことで誰もいない、どんどん暗くなっていく広い閑散とした場所に、訳もわからずに置いてきぼりにされた3歳にもならない子の絶望を思うと涙が出てきた。「ミー坊、お利口にしていたね。」抱きしめて背中を撫でると、目を開けて、「ママどこにいたの?」「にいたんは?」と聞く声がヒックヒックと震えている。「大丈夫。にいたんは病院にお泊りするけど、大丈夫よ」帰りのタクシーの中で気付くと私はずっと次男を抱きしめていた。
長男は2日ですっかり元気になって退院できた。その後、後遺症のようなものは見られず、エネルギッシュな駄々っ子であるという以外に難題が起きなかったことは喜ぶべきことだった。(終り)
今日の挿し絵代わりの写真はドイツ系の名前のファンケル医師へ敬意をこめてドイツの古都、バンベルグの市庁舎と大学の建物の写真を掲載しました。私が昔よく行った思い出の町です。今日の記事の内容とは全く関係がありません。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真はバンべルグの旧市庁舎です。
2番目の写真はバンべルグの大学の建物の一部です。現在はオットー=フリードリヒ大学の一部となっている旧屠畜場です。
古都、バンベルグとは;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF
この神さびたフランケンの皇帝都市、司教都市は、二股に分流したレグニッツ川の肥沃な谷間の草地に広がっています。レグニッツ川は市街中心部の北7kmでマイン川に合流しています。
ここは大学町としての歴史があります。
1647年に創立した大学(Universität)は、1803年に廃止されましたが、「哲学・神学単科大学(Hochschule)」として新たに生まれ変わります。現在はオットー=フリードリヒ大学としてバイエルン州立の総合大学になっています。
この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
フランスやドイツに長く住んで子育てを経験したEsu Keiさんに寄稿を頼みました。1974年から1984年の間フランスとドイツに主婦として滞在していました。
ご寄稿頂いたものを「パリの寸描、その哀歓」という連載にして9回掲載いたしました。
今日の記事はこの連載に無理に入れないで独立した記事にいたしました。
外国でこ息子が重病になった時の母親の心痛ぶりとお医者さんとの交渉が書いてあります。
嗚呼、母親は偉い!男には絶対真似が出来ない!やっぱり女は立派だ!脱帽だ!と男性の私が思いました。そん内容の記事です。
====「6歳の息子が脳膜炎?!」Esu Kei著========
6月のある暑い日の晩、長男(6歳)が、頭痛と発熱でえらくぐずっていた。
その日は6月には珍しいくらいの猛暑で、昼間は子ども達を連れてプールに行った。プールは芋の子を洗うような混雑だったが、子ども達はそんなことは物ともせずよく遊んだ。ちょっと遊びすぎて疲れたのかも知れないと思った。長男はもともと元気のいい子で、病気になるときは高熱があって、ぐんにゃりしていても、少し熱が下がればあっという間に元気になってしまうので、はじめはそれほど心配もせず、翌朝を待ってかかりつけの医師の診察を受けるようになるだろうと予想していた。
ところが、夜が更けるにつれて、騒ぎは大きくなり、抱いてもなお騒ぐという有様に、やはりSOSドクターを呼ぼうということになって、電話をすると、若い男性の小児科医が駆けつけてきてくれた。診断はおたふくかぜの可能性があるとのことだった。SOSドクターは薬も持って来てくれるので、抗生物質と、ほかにも薬をくれて、かかりつけの医師あてに、丁寧なコメントを書いてくれた。(ヨーロッパでは、緊急医でなければ、医師は薬を処方し、患者が薬局で買うようになっている。)
翌朝、かかりつけのファンケル医師に電話をするとすぐ来るようにと言ってくれた。私の感覚では、少なくとも深夜を過ぎてからは眠っていたし、熱も38度台にとどまっているし、抱き起こそうとすると首筋が痛いらしく喚くものの、洋服も着替えていける程度だったので、やや回復して来ているように見えていた。夫に会社に出るのを待ってもらって次男を預け、ベビーバギーに長男を乗せたが、6歳の子にはバギーは小さくて、首の重さを自分で支えられず、首が後ろに倒れてそれが痛いらしい。ベッドの大きい枕を当てて何とか首をまっすぐに支えると静かになる。幸い医院はごく近くである。
ファンケル医師は、枕で頭を支えてバギーに乗せられ、私が診察台にのせるために抱き上げたときに息子が声をあげたのを観察していたに違いない。SOSドクターのコメントを読んでいたが、顔が曇る。私に前日からの状況を尋ね、難しい顔をして首の後ろの痛みに注目していたが、やがて顔をあげて、「抗生剤を飲ませましたか?」と聞いた。私が「はい、指示された通りに2回飲ませました。」と言うと、ドクターの顔はますます険しくなる。何か間違ったことをしたのだろうか?「何か問題でも?」「ちょっと心配すべき状況です。うなじの痛みとこわばりは、メナンジットの可能性を示唆しているように思います。脳に関することですから心配です。」「...(初めて聞く病名である。まさか脳膜炎では???)」「いずれにしても、すぐ病院で検査をして診断をつけなければいけません。抗生物質を飲ませてしまうと、細菌の特定が難しくなることもあるので、さっきそれを確かめたのです。飲んでしまったものは仕方ありません。かりに私の診断が外れれば喜ぶべきことですが、少なくとも、こんなに苦しんでいる子どもを、家で看病することは無理ですから、今は入院させるしかありません。市民病院に行ってください。救急車を呼びますか?それとも自分の車で?」救急車を呼ぶより、自宅にいる夫のほうが早そうだった。「私は運転ができないので、夫を呼びます。」電話を借りて夫に連絡している間に、ドクターは病院充てにコメントをまとめてくれた。
すぐに夫が来てくれて、市民病院までは車で5分ほどである。ファンケル医師が連絡しておいてくれたので、受付でその旨言うと、すぐに救急診療室に通してくれた。
結局、脊髄液の検査、頭蓋のエックス線の検査ばかりでなく、耳や鼻、目などいろいろな緊急検査が行われ、診断はウイルス性のメナンジットであろうというところに落ち着いた。おそらくプールで鼻から水が入るなどして感染したのだろうということだった。細菌性のものであれば、菌を特定し、その菌に効力のある抗生物質で叩くことができるが、ウィルス性の場合はそれができない。ただウィルス性のほうが軽く推移することが多く、対症的な手当をしているうちに治まることが多いし、命にかかわる確率は低く、脳への影響は症状の重さと時間の関係が大きいとのこと。長い一日が過ぎて、家に帰ってから辞書を引くとmeningiteは脳膜炎とある。息子はずっと意識を失うことはなかったし、熱も39度を越さない程度なので、私は息子の強運を信じることができた。
2日ほどで熱も下がり、その後順調に回復したが、首のガングリオンの観察のために留め置かれ、2週間ほどで退院した。
退院手続きするときに驚いたのは、「払いますか?」と聞かれたことだ。「払いません」と答えてもいいのだろうか?夫に聞くと「うちの場合だと、社会保険に入っていないから、私的にかけている傷病保険が降りるまで待ってもらうとか相談ができるようになっているんだろう」とのことだった。夫は小切手帳を持ってきてくれていたから、「払います」の返事ができた。子ども用の4人部屋であったが、日本円で20万円近い金額だった。
しばらくは投薬を受けていたが、いつもの生活に戻った。脳への影響はないだろうとのことだった。ところが冬になって、また似たような症状が出て慌てた。この時は夫が出張中のことで、ファンケル医師に相談すると往診に来てくれた。同じ子どもが短期間に2度というのは考えにくいけれど、脳に関することだからやはり病院に行くべきでしょうと、往診に来た車でそのまま市民病院まで送ってくださった。私は運転しないし、小さい次男もいることを考えての厚意に甘えさせていただいた。市民病院には小児科に空きがなく、診察後救急車を呼んでくれてとなりのコロンブの病院に送られた。病状は重くないので、子どものショックを考えるとタクシーでも良かったのだが、ちょうど夕方のラッシュの時間なので、サイレン付きの緊急車の方がよかろうということになって救急車になった。一緒にいた次男の方がショックを受けてじっと押し黙っていた。
コロンブの病院はヌイイの病院より新しく広かった。すぐに小児科医が来てくれて検査をしたが、前の罹患のリアクションであろうとのことで、観察のための入院と言うことにはなったものの、深刻なことはなさそうだった。ほっと胸をなでおろした途端に、病棟は感染の恐れがあるからと、入れてもらえなかった次男をロビーに一人でおいてきたことが私を責めた。ゆっくりと言い聞かせたり宥めたりする時間もなく、ここで待っててとぞんざいに置いてきたのだ。
2時間以上は立っていただろう。走るように戻ってみると、すっかり暗くなった(驚いたことに電灯は消されていた )ロビーの椅子に倒れるようにもたれて眠っている。抱き上げると涙の痕が胸を突いた。初めて来た病院で、診療時間外のことで誰もいない、どんどん暗くなっていく広い閑散とした場所に、訳もわからずに置いてきぼりにされた3歳にもならない子の絶望を思うと涙が出てきた。「ミー坊、お利口にしていたね。」抱きしめて背中を撫でると、目を開けて、「ママどこにいたの?」「にいたんは?」と聞く声がヒックヒックと震えている。「大丈夫。にいたんは病院にお泊りするけど、大丈夫よ」帰りのタクシーの中で気付くと私はずっと次男を抱きしめていた。
長男は2日ですっかり元気になって退院できた。その後、後遺症のようなものは見られず、エネルギッシュな駄々っ子であるという以外に難題が起きなかったことは喜ぶべきことだった。(終り)
今日の挿し絵代わりの写真はドイツ系の名前のファンケル医師へ敬意をこめてドイツの古都、バンベルグの市庁舎と大学の建物の写真を掲載しました。私が昔よく行った思い出の町です。今日の記事の内容とは全く関係がありません。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真はバンべルグの旧市庁舎です。
2番目の写真はバンべルグの大学の建物の一部です。現在はオットー=フリードリヒ大学の一部となっている旧屠畜場です。
古都、バンベルグとは;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF
この神さびたフランケンの皇帝都市、司教都市は、二股に分流したレグニッツ川の肥沃な谷間の草地に広がっています。レグニッツ川は市街中心部の北7kmでマイン川に合流しています。
ここは大学町としての歴史があります。
1647年に創立した大学(Universität)は、1803年に廃止されましたが、「哲学・神学単科大学(Hochschule)」として新たに生まれ変わります。現在はオットー=フリードリヒ大学としてバイエルン州立の総合大学になっています。