後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

サクラソウと日本人の美意識の変化

2016年12月05日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人の花々に対する美意識が最近とても変わって来たと思います。
日本古来の楚々とした花々よりも華麗な西洋の花々の方が美しいと思う人が圧倒的に多くなってきました。何故か淋しい思いをする私は、時代に取り残された人間なのでしょうか?
そんな想いを込めて今日は日本サクラソウと西洋サクラソウの花の写真をご紹介致します。
数年前に可憐な日本サクラソウに魅了され埼玉県の自生地の「田島ヶ原」へ毎年、足を運んだ時代がありました。4月になるとまだ花が咲いていないかと何度も通ったものです。

1番目の写真は2008年の4月に田島ヶ原で撮った日本サクラソウの写真です。ここは江戸時代から有名な自生地なのです。

2番目の写真は田島ヶ原でサクラソウが密生している場所を探して撮った写真です。
広い草原に細い歩道がめぐらせたあります。その歩道を春風に吹かれながら歩いて行くと青草の間に小さなサクラソウが控えめに咲いています。
しみじみ美しいと思います。
そこで日本サクラソウの花を買おうと隣町の石塚園芸を訪問しました。
しかしニホンサクラソウの姿がありません。皆無です。
その代わり西洋サクラソウの花が広い温室いっぱいに咲いていたのです。
石塚園芸へ家内と何度も行っているうちにご主人の石塚健壽さんとは親しくなりました。
彼はいろいろな意味で感動的な花の栽培家だったのです。精魂こめて交配し20種の西洋サクラソウの新種を作ったのです。
そして新種の西洋サクラソウをオランダの新種の花の祭典、フロリアード2012へ出展し、金賞一席と特別賞を受賞したのです。

3番目の写真は2012年に特別賞受賞の湖畔の夢です。帰りがけに石塚さんが私に一鉢下さいました。

4番目の写真は石塚園芸の温室内に咲いている西洋サクラソウです。交配して作った白い花も見えます。

5番目の写真も石塚園芸の温室内に咲いている西洋サクラソウです。「湖畔の夢」が溢れています。このような温室が3棟あります。そして春に種を植え、大切に育てて12月の末から1月いっぱい花が咲くのです。
3棟ある温室はシクラメンの栽培とサクラソウの栽培の季節が違うので使いわけるそうです。

石塚健壽さんにニホンサクラソウは何故売っていないのですかと聞きました。
日本サクラソウも美しいと思いますよ。しかし圧倒的に多くの人が西洋サクラソウの方が綺麗だと思っているようですよ。とにかく売れるのです。こんなに一杯ある西洋サクラソウが1月になるとアッと言う間に売れてしまうのです。その花を囲んだ家族の笑顔を想像するとこの商売が止められないのです。こんなことを言っていました。
昨日も石塚健壽さんに会ってきましたが現在はシクラメンの季節でサクラソウはまだ咲いていませんでした。

サクラソウといい、シクラメンとといい、日本の家々に飾ってあるのは多くは西洋の花々になっています。
何故か淋しい思いをする私は、時代に取り残された人間なのでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=======================
(1)ニホンサクラソウの栽培の歴史、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%BD%E3%82%A6
江戸時代の中ごろから、荒川の原野に野生するサクラソウから本格的な栽培が始まり、種子まきを繰り返すうちに、白、桃、紅、紫、絞りなどの色変わりや、大小さまざまな花形の変わり品が生まれ、名称が付けられた。やがて江戸時代後半になると品種数も非常に増え、文化元年(1804年)から新花を持ち寄り品評することが始まった。栽培者は旗本や御家人など武士階級が多く、「連(れん)」と呼ばれる2~3のグループが成立し、新品種の作出を競い合った。文化から天保(1804年~1844年)にかけてがもっとも盛んな時代であった。熱心な女性の愛好家もいて、寒天を流し固めた重箱に一品種ずつ挿し並べて鑑賞したという文献もある。幕末には各地に広まり、文久2年(1866年)にはサクラソウとしては現存最古の番付が発行されている。現在栽培される約300品種のうち、その半数が江戸時代から株分けで伝えられたもので、その花は多様な花型と繊細な花色が特徴で、他の多くの日本の伝統的な園芸植物と共通している。品種ごとに鉢植えで育て、花時には「花壇」と呼ばれる屋根付きの五段構造の展示台に配色よく飾る。鉢は「孫半土(まごはんど)」という、本来食品容器として作られた瀬戸焼の陶器が使われた。これはサクラソウのデリケートな花色をよく引き立てる。
愛好者層が武士中心であったので、明治維新前後には衰退の危機にも見舞われたが、やがて愛好者も増え、新花の作出も再び盛んになった。この頃に生まれた名花にも今に伝えられているものがある。やがて太平洋戦争により、サクラソウの栽培も下火になったが、戦後次第に復興し、昭和31年(1956年)に愛好者のグループである「さくらそう会」が発足、関西にも「浪華さくらそう会」が生まれた。この他全国各地に愛好会ができ、今に続いている。

6番目の写真は田島ヶ原サクラソウ自生地の写真です。
埼玉県さいたま市桜区の「田島ヶ原サクラソウ自生地」は国の特別天然記念物に指定されている貴重な群落である(桜区の区名も桜ではなくサクラソウに因んで命名されている)。荒川流域のこの一帯は、下流の戸田ヶ原、浮間ヶ原などとともに、江戸時代からサクラソウの名勝地として人々に親しまれてきた。しかし、度重なる治水工事や工場の開発などによって、原野の植生が変わり、サクラソウの群落も範囲を狭められていった。この群落を守るため、大正9年(1920年)に天然記念物に、昭和25年(1950年)に特別天然記念物に指定された。

(2)プリムラ・マラコイデス(西洋サクラソウ)
http://www.yasashi.info/hu_00008.htm
中国雲南省、四川省に分布するサクラソウの仲間です。本来毎年咲く多年草ですが、高温多湿に弱く花後に枯れてしまうことが多いため、園芸では一年草として扱うことが多いです。秋にタネをまいて翌春の花を楽しむのが一般的です。日本へはヨーロッパ経由で明治末に渡来しました。葉や茎に白い粉が付くので、ケジョウザクラ(化粧桜)の和名があります。
野生種は草丈20cm~50cm、主な開花期は早春~春です。花茎を長く伸ばして段状にたくさんの花を付けます。花茎は3cm~5cm、色はピンク、淡紫、白などがあります。多くの園芸品種があり、草丈、花の色や大きさなどは様々です。サクラソウの名前で苗が流通することも多いですが、従来のサクラソウ(日本サクラソウ)とは別種の植物です。
20世紀前半にイギリスを中心に品種改良が行われた。

7番目の写真はフロリアード2012でオランダのベアトリクス女王陛下とその足元にある石塚園芸のサクラソウ3種の写真です。2012年4月に撮った写真です。

「パリの寸描、その哀歓(5)皮膚科?精神科?」

2016年12月05日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回はフランスやドイツに長く住んで子育てを経験したEsu Keiさんに寄稿を頼みました。ご主人の仕事のため1974年から1984年の間滞在しました。
日常の生活で感じたことを飾らず素直な、そして読みやすい文章で綴ったものです。

連載の第5回目は、「皮膚科?精神科?」です。子供を育てる女性の美しい繊細さが胸を打ちます。
お楽しみ頂けたら嬉しく思います。
==== 「パリの寸描、その哀歓(5)皮膚科?精神科?」、Esu Kei著=========
長男が8歳の時だった。なんだか頭のてっぺんのつむじが大きくなったというか、禿げてきたように見えて気になっていた。最初は気のせいだと思っていたが、どうもだんだん大きくなるようなのだ。友人に「禿げてるように見える?」と聞くと、迷わず即座に「ホントだ!」という応え。ヨーロッパでは若くて頭頂の禿げている人はとても多いが、8歳から禿げるのはいかにも可哀想だ。私はすぐに小児科のファンケル医師のところに飛んで行って皮膚科の医師を紹介してもらった。
 紹介されたのは歩いて行ける距離にある皮膚科医だった。次男を友人に預けて、早速出かける。インターフォン越しに通された待合室は高級な応接間のようにきれいで、広い。淡く渋い色でまとめたカラーコーディネイトは完璧だ。完全予約制だから私達だけしかいない。高級できれいな部屋作りをしている人はどちらかと言うと神経質な人が多いから、躾がいいとは言えない子どもを連れた私はちょっと緊張する。
すぐに診察室に呼ばれた。40歳前後に見える女性ドクターである。髪を無造作に後ろに束ねた飾り気のない様子にちょっと安心した。出された用紙に名前や住所を書き、健康手帳(母子手帳のようなもの)を見せ、初対面の挨拶と診療の手続きをしてから、私は息子の頭頂が禿げてきたことを手短に説明する。医師は息子の頭をちょっと見てから「まずお母さんの話を聞きたいので、あなたはそこで遊んでいてちょうだい」と診察室のおもちゃや、本のあるコーナーに息子を誘導する。そして私と向き合う形で座り、いろいろ質問する。私たちが夫の仕事の都合でフランスにきて3年余りたち、息子たちはフランスの小学校や幼稚園に通っていること。日本語学校にも週に一回行っているとか、家での様子や、休日の過ごし方、学校の勉強のことまで聞かれるままに答えた。随分と長い面接で、髪の毛とは関係なさそうなのに何故こんなに詳しい話を?と不思議に思った。話し終えると医師は「今あなたの位置からは息子さんは見えませんが、私の方からは彼の様子を観察していたのです。予想通りでした。彼は自分で髪の毛を抜いているのです。『チック』ってご存知ですか?」「あっ、はい、知っていますが、髪を抜くチックがあるとは驚きました。」「チックは実にいろいろな形で出ます。彼はたまたま髪を抜くというだけなのです。」「なるほど… 治りますか?」「大丈夫です。今度はサトルと話しますので、あなたは席を外してください。」
 私は息子から少し離れて、彼が見えないところに身を置き、医師の顔も見ないようにしていた。話は全部聞こえる。「サトル、大事な話だからきちんと聞いてね。あなたは自分でも気づかずに、自分で髪の毛を抜いているの。それで頭が剥げてきているの。そんなこと続けていると、いまに大きな禿になってしまうの。学校で友達に見つかったらからかわれるかもしれない。そんなのいやでしょ? 止めなくちゃね。でも癖になっているし、気付かずにやってるから、止めるの難しいかもしれないわね。それで今から私がいい方法を教えるから、それを毎日やるという約束を守ってちょうだい。わかりましたか?」そういうと医師は白い紙に定規を使って14の大きなマスを書き、一つ一つのマスの端に日付を入れた。その紙を息子に見せて「髪の毛を抜かないように自分で注意しましょう。そして毎晩寝る前に今日は髪の毛を抜いたかどうかしっかり思い出してみて、抜かなかった日は、このマスの日付のところにあなたの好きな絵を描くの。自動車でも、動物でもいいのよ。今日は抜いちゃったという日は大きなバツをかくの。毎日必ずよ。2週間たったら、この封筒に入れて、お母さんに切手をもらって貼って、自分でポストに入れに行くのよ。」そう言いながら、医師は自分の住所を書いた封筒に、マスを書いた紙を入れると息子に渡した。
そして息子に待合室で少し待つようにと言って室外に出し、私の方に向き直り、「難しいことではないのですが、彼の自覚と、ご両親の協力が必要です。お父さんやお母さんはこれ以後髪の毛のことは一切口にしないでください。マスに絵を描くか、バツを書くかも、彼の責任で決めるのが大事なのです。実際には抜いているのに絵を描いてしまうことがあっても、黙っていてください。さっきお母さんから長くお話を聞いたのは、彼の能力や家庭や学校での様子を知りたかったからなのです。お母さんは毎晩『ドクターとのお約束はすませた?』と聞いてあげてください。それだけです。」私はすっかり感心してしまった。このドクターは皮膚科医であり、小児精神科医であると思った。
 彼女は私から話を聞きながら、息子のことも、私のことも観察していたと思う。そして息子の自主性を引き出してなおすことができると判断したのだと思う。その晩、夫には「心配ないそうよ。気にしなくていいらしいわ。」とだけ言った。夫は病気のこととなると大変な心配性で、しかもそれを口に出さずにはいられない質なので、髪の毛のことは家では口にしないということが守れそうになかったから… 彼は「良かったね。」と安心した様子だった。これで大丈夫と私は確信した。
 2週間たち、色鉛筆で果物やら花やらを描き、バツも5,6カ所くらいはあったが、息子は宿題の紙をポストに投函した。ドクターから早速、息子宛てにお返事をいただいた。もちろん封を切らずに息子に渡す。息子は読んでから私に見せてくれた。「あなたは、ちゃんと約束を守っていますね。でもまだ時々髪の毛を抜くことがあるようですから、また2週間続けてみましょう。髪の毛を抜かないように自分で気を付けましょう。」とあり、新しい2週間分のカレンダーとドクターの住所を記した封筒が入っていた。
 さらに2週間経って、まだバツは2つ、3つくらいはあったようだったが宿題を送り、「よく頑張りましたね。もう心配ないでしょう。そろそろ髪の毛もまた生えてきているかもしれません。これからも気を付けてね」というお返事をいただいた。それ以後このような問題は全く起きなかった。
 子ども自身の自主性と責任感にまかせる、しかも医師と子ども自身の信頼関係をもってというやり方は、私の胸に深く残った。万一、家庭内の何らかの原因で(親か、子どもに何か問題があって)この解決方法がうまくいかなくても、このドクターならきっと次の策を持っていたことだろう。賢いやり方に感服する。
 チックという症状は、子どもに何かストレスがあると出てくると聞いている。息子はフランスの学校と日本語学校にいくという二重生活だったし、もともと集団生活が苦手で振舞いに問題があって、私が叱らなければならない場面も多かったから、ストレスフルな生活だったと思う。こういう時、医師が親を責めないでいてくれるのは有難い。責められると親が緊張するから、それが子どもに自然と伝わって問題はなおややこしくなると思う。こんな名医のおかげで、薬も一切使わずに息子の問題は一カ月余りで解決した。
 息子の髪がすっかり元通りになおってから私は夫にこの尊敬すべきドクターの話をし、経緯を話した。「もし貴方に話したら、あなたが黙っていてくれないと思って言えなかったの」と言うと、「そうだったのか、俺なら、毎日何回も髪の毛抜くなとか、禿げちゃうぞとか絶対言ったな」と笑っていた。やっぱり… (続く)

今日の挿し絵の写真は記事の内容とは関係がありません。フランスの文化や雰囲気が伝わって来るようなシスレーの絵画3点です。

シスレー 「サン=マルタン運河の眺め」1870  50 x 65 cm   オルセー美術館、パリ

シスレー 「ポール・マルリの洪水」1876  Oil on canvas  50 x 61 cm  ルーアン美術館

シスレー 「 モレのウジェーヌ通り、冬 」 1891 | 46.7 x 56.5 cm | メトロポリタン美術館

アルフレッド・シスレー(Alfred Sisley, 1839年 - 1899)は、フランス生まれのイギリス人の画家。
シスレーは1839年、裕福なイギリス人の両親のもとパリに生まれた。父親ウィリアム・シスレーは絹を扱う貿易商で4人兄弟の末っ子だった。
1857年、18歳のときにロンドンに移り叔父のもとでビジネスを学ぶが、商業よりも美術に関心を持ちターナーやコンスタンブル等の作品に触れた。4年後中断してパリに戻り、フレデリック・バジールのすすめでマルク=シャルル=ガブリエル・グレールのアトリエで学び、クロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワールらと出会う。彼らは共に、スタジオで絵を描くことより戸外で風景画を制作することを選んだ。このため、彼らの作品は当時の人々が見慣れていたものより色彩豊かで大胆であったため、展示されたり売れることはあまりなかった。彼らの作品は当時のサロンの審査員からは受け入れられなかった。1860年代、シスレーは父親の援助により他の画家たちよりは経済的に恵まれた立場あった。当時はとくにルノワールと親しく、ルノワールはシスレーの父親やシスレーと恋人の肖像画等を描き、前者を1866年のサロンに出品している。
1866年、シスレーはパリに住むブレトン人ウジェニー・レクーゼク (1834年-1898年、マリー・レクーゼクとしても知られる)と交際を始める。二人の間には息子ピエール (1867年生) と娘ジャンヌ (1869年)が生まれた。当時シスレーはアヴニュー・ド・クリシー近くに住んでおり、パリ在住の画家の多くが集まるカフェ・ゲルボワの常連ともなっていた。
1868年、シスレーの作品はサロンに出展され入選を果たすが、あまり評価されなかった。
1870年、 普仏戦争勃発し、ブージヴァルに住んでいたシスレーは敵兵により家・財産を失い、翌年には父が破産、経済的必要を満たすために作品を売るしかなくなる。しかしシスレーの作品はなかなか売れず、以後彼は死ぬまで困窮した中で生活することになる。 1871年、パリ・コミューンを避けルーヴシエンヌにほど近いヴォワザンへ移住。その後、アルジャントゥイユ、ブージヴァル、ポール=マルリにも移住。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%83%BC より抜粋しました。

トランプ氏、台湾総統と電話!台湾と断交した日本の薄情さ

2016年12月05日 | 日記・エッセイ・コラム
トランプ氏政権の主要人事が着々決まって行きます。非常に有力な共和党関係の人物が閣僚になっていきます。
その上、国防長官には強面の元中央司令官が決まりました。
これでトランプ氏の外交が軍事力と経済力でロシアと中国と対決しながら相手の譲歩を引き出す強い外交政策をとるのではないかと考えられます。
そのトランプ氏が驚くべきことにアメリカと国交の無い台湾の総統の蔡英文氏と電話会談をしたのです。
日本は1972年に共産主義中国との国交樹立のため、台湾を犠牲にして台湾と断交したのです。それは田中角栄政権の時でした。
戦後、日本の賠償を放棄してくれた蒋介石総統を裏切ったのです。
その上、50年間も日本の領土だった親日的な台湾人を見放すように国交を断絶してしまったのです。
「台湾と断交しなければ国交をしない」という共産主義中国の理不尽な要求に屈したのです。
日本人は義理人情に篤いと言います。それを自慢する日本人も多数います。
「外交は義理人情で行なってはいけない」と偉い人は説教します。
私は1972年以来、台湾と断交した日本人の薄情さが、ずっと気になっていました。それは何時までも取れない喉にひっかった小骨のようなものでした。
私は北京や瀋陽に親しい友人がいました。台湾の人とも親しくしてきました。
ですから今回のトランプ氏と台湾の総統の蔡英文氏との電話会談のニュースを見て少し安堵しました。
多くの高齢な日本人の心が癒されたと思います。
そこで以下の情報を提示したいと思います。

(1)トランプ氏と台湾の総統の蔡英文氏と電話会談(朝日新聞、電子版より)
トランプ次期米大統領は2日、台湾の蔡英文(ツァイインウェン)総統と電話会談した。政権移行チームが明らかにした。米外交筋によると、1979年の米中国交正常化に伴って米国と台湾が断交して以来、米国の大統領や次期大統領が、台湾総統と電話会談をしたことが公になることは初めて。
 トランプ氏は2日のツイッターで、蔡氏を「台湾総統(The President of Taiwan)」と呼び、「私の当選祝いのために電話をくれた。ありがとう」と書き込んだ。「私に電話した」という部分が大文字で記されており、蔡氏からの申し出であったことを強調したかったとみられる。
 米政府は公式には、外交関係がない台湾の総統を名前で呼ぶことが多いが、トランプ氏は肩書で言及した。
米政府はこのほか、高官が訪米する際は会談場所を政府施設ではなく、ホテルなどを使うことが多かった。いずれも台湾を国家と認めない中国への配慮のためだ。
 トランプ氏の政権移行チームによると、会談では、蔡氏からトランプ氏に対して当選への祝辞を伝えた。トランプ氏も今年5月に総統に就任した蔡氏を祝った。その上で、両者は「経済、政治、安全保障での緊密な関係が台湾と米国の間にある」と確認し合った。

(2)日本が台湾と断交した経緯
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%8F%B0%E9%96%A2%E4%BF%82%E5%8F%B2 より抜粋)
1967年9月、佐藤栄作首相は、中国側の激しい批判キャンペーンにもかかわらず、台湾を訪問し、蒋介石総統と会見。同年11月には、後に総統を世襲することになる蒋経国国防部長が日本を公式訪問した。
これまで戦後から国連の常任理事国を務めた台湾は、中国と比べて国際的に認知されていた。しかし、1970年頃からベトナム戦争を背景とした中国と米国との接近、西側主要国(英仏伊加)と中国との国交正常化など、国際社会の中で中国が立場を顕示しはじめた。また、日本国内でも一部の親中派議員による「日中国交回復促進議員連盟」発足等の動きも見られるようになる。
こうした国際情勢の中で、1971年の第26回国際連合総会のアルバニア決議(2758号決議)により常任理事国の権限が中国側に傾き、中国の常任理事国入りが決定され、台湾は国連を追放された。日本は、中国の国連加盟に賛成であるが、台湾の議席追放反対を政府方針とし、アルバニア決議に反対票を投じた。また、二重代表制決議案の共同提案国となり提出したが表決されず、佐藤首相は国内のマスコミや野党から激しく追及された。
翌年1972年のニクソン訪中は日本に衝撃を与え、1972年9月29日、田中角栄政権は、中国大陸を支配する中華人民共和国政府を「中国の唯一の合法政府」と承認し、国交を樹立した(日中国交正常化)。その際、日本は、日中共同声明に日華平和条約の遡及的無効を明記することに応じない代わりに、大平正芳外相が「日華平和条約は存続の意義を失い、終了した」との見解を表明。これに対し、中華民国外交部は即日、対日断交を宣言した(日台断交)。・・・

国と国との外交交渉は個人的な感情を反映してはいけないという考え方も理解出来ます。
しかし私は中國大陸も台湾も何度も訪問し親しい友人を持っていました。中国大陸の人々は台湾の人々に強い親近感を持っていました。逆もその通りでした。
ですから私は何故、日本は台湾と断交したのか理解出来ませんでした。現在でも理解出来ません。

1番目の写真は1960年6月の台北訪問時にて、蒋介石総統の隣で観衆に手を振ったドワイト・D・アイゼンハワー米大統領の写真です。出典はアイゼンハワー大統領を検索して得た写真です。
2番目と3番目の写真は台湾の風景写真を検索して、借用した写真です。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)