後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日の日記、待降節の第四の主日のミサに行きました」

2016年12月18日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は待降節の第四の主日なので祭壇の前の4本のローソクの4番目のローソクに火を灯しました。そしてミサを始めました。
いよいよ今週の土曜日はクリスマス・イブのお祝いのミサです。嬉しい気分です。
そんなミサの風景写真をお送りいたします。今日のミサの司式はサレジオ修道会の吉田利満神父さまがなさいました。





日本を愛し、東京の谷中墓地の土になったロシア正教のニコライ

2016年12月18日 | 日記・エッセイ・コラム
幕末にロシア正教を日本へ持ち込んで来たニコライ・カサートキンの一生を想うと私の胸は熱くなります。彼のことを思うと私のキリスト教への信仰が燃え上がります。
ニコライは書道も研鑽し、日本の歴史や佛教も勉強しました。古事記や日本書紀も読破する勉強家でした。明治天皇を敬っていました。日本を強く愛していたのです。そして日本の土になったのです。

ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の7年前の1860年、24歳の時日本へ宣教のために行く決心をします。翌年、函館に着いてから終生日本に居ました。もっとも短期間、2度、祖国へ帰ったことはありましたが。
 着いた1861年はまだ江戸時代です。それから51年後の1912年、75歳で永眠し、谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。
函館着任後に血の滲むような努力をし日本語を習得します。
ニコライの日本を愛する心は強く、数々の感動的なエピソードが残っています。

今日はその中から一つをご紹介します。
1904年、1905年は日露戦争でした。戦争勃発と共に在日ロシア人は一斉に帰国して行きます。ロシア公使のローゼン男爵もニコライに帰国するように薦めます。ニコライは静かに断ったそうです。そして言うのです、「私はロシアに仕える者ではない。主ハリスト(主キリスト)に仕える者である。」と。この言葉に私は感動します。
残留した理由は、日露戦争の間、日本人信者が迫害されるのを予想し、彼らを勇気づける為に残ったと考えらています。案の定、ロシア正教の日本人信徒は「露探」(ロシアのスパイ)と罵倒され、聖堂や集会所が暴徒の襲撃を受けたのです。
ニコライは教書を発表し信徒を慰めます、
「我々には地上の祖国の他に、天に国がある。天の国には民族の別無く皆が平等に生きている。なぜなら全ての人々は皆同じ父(神)の子であり、お互いは皆兄弟であるからです。我々の属する国は主である神が作った教会なのです。信者は平等な会員なのです。天の神、すなわち我らの父の一つの家族としてとどまり、その家族としての義務をそれぞれに果たすようにしようではないか!」

ニコライは日本人信徒の一人一人を強く愛していたのです。ロシアへ逃げ帰るなど考える筈がありません。
1912年、持病の心臓病が悪化し、聖路加病院で天に帰りました。駿河台のニコライ堂から谷中の墓地まで、葬列を見送る人垣が沿道の両側を埋め尽くしました。明治天皇からの「恩賜の花輪」を抱きかかえた人が葬列の中に見えます。神田のニコライ堂から買って来た葬列の写真10枚ほどを見ながらこの文章を書いています。 

東京のお茶の水の駿河台にあるニコライ堂は、1891年、明治24年にニコライによって建てられました。
私は数年前に何度かニコライ堂を訪れ、ある日曜日には9時から12時までの3時間にわたる歌ミサにも出席したことがあります。
私はカトリックですが正教会の礼拝はカトリックに似ていて違和感を感じませんでした。
ニコライの日本への篤い想いを考えながら「イエスの体」のパン片を貰い、神父様の持った十字架へ軽く接吻しました。

ニコライの写真と彼の建てたニコライ堂の写真を掲載いたします。ニコライ堂の写真は数年前に自分が撮ったものです。ニコライ堂は日本にあるキリスト教会のなかでもトップクラスの豪華さと古い歴史がある建物です。

このニコライ堂は一般開放しています。見学は自由です。
日曜日の9時からの歌ミサの礼拝式にも是非出席してみて下さい。信者でなくても歓迎してくれます。
一度ご覧になることをお薦めいたします
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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









===参考資料;ニコライの経歴==================
Wikipedea でニコライ・カサートキンを検索すると以下の紹介があります。
日本へやって来たニコライは、スモレンスク県ベリョーザ村の輔祭、ドミトリイ・カサートキンの息子として1836年に生まれました。母は五歳のときに死亡します。
ニコライはベリスク神学校初等科を卒業後、スモレンスク神学校を経て、サンクトペテルブルク神学大学に1857年入学しました。
在学中に、ヴァーシリー・ゴローニンの著した『日本幽囚記』を読んで以来日本への渡航と伝道に駆り立てられるようになったのです。
そしてニコライは、函館の在日本ロシア領事館附属礼拝堂が司祭を募集しているのを知りました。すかさず志願して採用されたのです。

神学大学在学中の1860年7月7日(ロシア暦)修士誓願し修道士ニコライとなっていたのです。同年7月12日(ロシア暦)聖使徒ペトル・パウェル祭の日、修道輔祭に叙聖(按手)され、翌日神学校付属礼拝堂聖十二使徒教会記念の日に修道司祭に叙聖されたのです。
そして翌年の1861年に函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任しました。

日本では、新島襄らから日本語を教ったそうです。かたわら精力的に正教の布教に努めます。
函館にて日本ハリストス正教会の最初の信者を得ました。その人は後に初の日本人司祭となる沢辺琢磨です。
懐徳堂の中井木菟麻呂らの協力を得て奉神礼用の祈祷書および聖書(新約全巻・旧約の一部)の翻訳・伝道を行います。
1869年、1879年に二度帰国しましたが、それ以降は日露戦争中を含め、日本を離れることなく、神田駿河台のニコライ堂の正教会本会で没します。
1970年谷中墓地改修の折、棺を開けると腐らない遺体が現れたそうです。同年ロシア正教会はニコライを「日本の亜使徒・大主教・ニコライ」、日本の守護聖人として列聖します。日本教会が独立して日本正教会となったのはこのときです。ニコライの遺体は谷中墓地のほか、ニコライ堂(大腿部)、函館ハリストス正教会などにあり、信者の崇敬の対象となっているそうです。
関東大震災で焼失したといわれていたニコライの日記は中村健之介によって発見され、ロシア語原文版が2004年に刊行されました、(Dnevniki Sviatogo Nikolaia Iaponskogo, 5 vols. St. Petersburg: Giperion, 2004)。
注解を加えた日本語全訳は2007年に刊行(『宣教師ニコライの全日記』教文館、全9巻)されます。

列聖以降、日本の亜使徒聖ニコライ、聖ニコライ大主教と呼ばれ、記憶日(祭日)は2月16日(ニコライ祭)となりました。