後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

コンピューターが高齢者へもたらす はかり知れない恩恵

2016年12月08日 | 日記・エッセイ・コラム
今更、言うまでも無く現在の世界においてコンピューターのもたらしている恩恵ははかり知れないものがあります。
特に老齢で車の使えなくなり、スーパーに行って食料品が買えなくなった高齢者にとっては生活の必需品です。
私の友人は山の中に独りで住んでいますが、コンピューターで食品を注文して着払い宅急便で取り寄せて生活をしています。
遠方の病院へいくときはブログを通して親しくなった人が車で送り迎えをしてくれます。
生活に必要な物は何でもコンピューターでも取り寄せられる時代なのです。
その上、山の中の独り暮らしの高齢者はメールで親類や知人と交流も出来ます。
しかしコンピューターの使えない高齢者もいます。どうしますか?
簡単です。コンピューターの使える息子や親しい知人へ電話で頼めば良いのです。
全国には過疎地に住んでいる高齢者が沢山います。
その生活を直接あるいは間接的に支えているのがコンピューターなのです。

話は飛びますが、昔、私は「初歩のラジオ」という雑誌を参考にして真空管式のラジオを作っていました。
当時はラジオを作るために真空管を数本買ってきます。コンデンサーや抵抗もいろいろな種類を買い揃えます。
ところが現在は半導体素子が取って代わり、真空管もコンデンサ-も抵抗も全て消えてしまいした。
シリコンで出来た半導体素子には、トランジスタや集積回路(IC・LSI)、抵抗、コンデンサなどに使われています。そして、テレビ、携帯電話、コンピュータといったほとんどに全ての電気製品に内蔵されているのです。
その上、自動車や各種産業機器などにもコンピュータなどの形で組込まれています。今や半導体素子無くしてはこの世が成り立ちません。
あの懐かしい真空管もコンデンサ-も抵抗も全て忽然と消えてしまったのです。
隔世の感です。

さてそれはそれとして私の場合はコンピューターのお陰で2つの良いことがありました。
一つは撮った写真を瞬時にしてコンピュータに取り込め、それを皆様へ送り届けられることです。
二つ目はブログを毎日書いているお陰で親しい友人が出来ることです。
この二つについて写真に従って説明します。

1番目の写真は昨日、城ケ島からの帰りに諸磯湾で撮ったヨットの見える風景です。船体の白さと空の淡い青が美しいと思っています。

2番目の写真は特に気に入った木造艇の雰囲気のあるヨットの写真です。7年前にブログを通して知り合った友人に乗せて貰ったヨットに雰囲気が似ているのです。

3番目の写真は油壺湾に静かに舫うヨットたちの写真です。

さてコンピューターの第二の恩恵はブログを通して友人が出来ることです。
例えば7年前にHootaさんという方と親しくなりました。
彼は北欧風の全長41フィートの大型艇、Bambino号で東京湾や伊豆七島周辺を帆走している方でした。

4番目の写真は千葉県の保田港に係留してあったBambino号を初めて訪問した時の写真です。2009年04月15日に撮った写真です。
その日の夕方から夜にはHootaさんとビールを飲みながら歓談しました。
彼が言ってました。「皆さん、普通の人々で生活の仕方を工夫してヨットに使うお金を作っていると思いますよ。」「職業や年齢も色々です。皆さん、気持ちの良い方々で話がすぐ通じますよ」。
そして2009年05月9日には私を駿河湾でのセイリングに誘ってくれたのです。

5番目の写真は駿河湾を傾いて疾走中のBambino号の姿です。

私はブログはバーチャルな世界なので親友なんて出来ない。そう思っていました。しかし色々なブログを読み、感動し、そして幾人かの人へコメントやメールを送りました。自然な成り行きで、そのうちの何人かの人と実際お会いし、お話を聞くことになりました。
Hootaさんもそのようにして出来た友人の一人でした。

Hootaさんは本当に海の男です。忍耐強くて、優しくて、天候の変化に従順なのです。そんな男と友人になれたのもコンピューターのお陰です。

コンピューターのもたらす恩恵はその他にもいろいろありますが、今日はこの位にしておきます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の日記、城ケ島までドライブしました」

2016年12月08日 | 日記・エッセイ・コラム
最近、紅葉に飾られた富士山や甲斐駒岳や八ヶ岳の写真を撮ろうとして山にばかり行っていました。

しばらく海を見ていないので、今日は三浦半島の突端の城ケ島まで車を走らせて来ました。

帰路は紺青の海を見ながら、城ケ島、三崎港、油壺、佐島、葉山と細い旧道をゆっくりとドライブを楽しんできました。

1番目の写真は城ケ島の京急ホテルの前から撮った富士山です。
2番目の写真は城ケ島の荒磯の写真です。
3番目の写真は油壺湾に係留されているヨットの写真です。







「パリの寸描、その哀歓(7)フランスの保健所の役目」

2016年12月08日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回はフランスやドイツに長く住んで子育てを経験したEsu Keiさんに寄稿を頼みました。ご主人の仕事のため1974年から1984年の間滞在しました。日常の生活で感じたことを飾らず素直な、そして読みやすい文章で綴ったものです。

連載の第7回目は、「フランスの保健所の役目」です。フランスでは外国人旅行者の治療は保健所が無料でするという驚くような話です。
お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

===「パリの寸描、その哀歓(7)フランスの保健所の役目」、Esu Kei著=======
 フランスを離れドイツに暮らすようになってから、ちょっとした用事でパリに出かけたことがある。その頃私は体調がちょっと不安定で、時々前触れもなくひどい頭痛に悩まされることがあった。ホルモンの変化と関係があると医師から言われたことがある。その日も街を歩いているうちに、目をつむって歩きたいほどの頭痛で、何とかしなければと思った。フランスにいるときに常用していた薬の名前はわかっていたので、薬局に飛び込んで、その薬を買おうとしたが、医師の処方箋がないと売れないと断られた。それは一般的な薬なので、以前には処方箋なし買っていたものだ。旅行者なので、医師のアポイントをとって診察を受けるのは時間に余裕がなく難しいし、薬は今すぐにも飲みたいのだと説明すると、ここ1年前から薬の規制が厳しくなっていて、抗生物質でなくても、大抵の薬を買うのに処方箋が必要になったのだという。保健所に行けば必要な対応してくれるからと、近くの保健所を教えてくれた。道は分かりやすかったので、すぐに行ってみると、古いビルの一角にそれはあった。
入り口の受付で、要件を言うと、「ドクターと話してください」と、すぐに大きな面接室のようなところに通された。古い応接間のような家具の配置と言い、落ち着いておしゃれな色調といい、私が保健所として思い浮かべるイメージとはえらく違う高級感に驚いてしまった。すぐに背広にネクタイ、清潔な白衣もおしゃれな中年の紳士が現れて、「どうしました?」と聞かれた。私が持病があって、頭痛がおきることはよくあるが、旅行中で薬を持っていないので…と経緯を説明するとすぐに薬に名前を確かめて処方箋を書いてくれた。お礼を言って、お金をどう払うのかと聞くと、無償だという。驚いて旅行者なのに?と聞くと、「フランス人であれ、外国人であれ、フランスにいる人の健康を守るのが我々の役目ですから」という答えが返ってきた。なるほど。防疫の意味からも納得できる。
すぐに 薬局に戻って薬を買い、水をもらって1錠飲むと、コップを返してお礼を言っている間にも頭痛が消える。うそのようだが、私は薬の効きが良い体質のようだ。ただ体に合わないときは、悪い反応も即座に出るので注意は必要で、知っている薬を飲むようにしている。
それにしてもどこの国でも保健所と言うのは個人の旅行者にもこんなに開かれた所なのだろうか? 日本も? おかげさまで予定を変えることなく、夫に頼まれた用事を済ませて無事にハンブルクに帰ることができた。(続く)

今日の挿し絵の写真は印象派のカイユボットの絵画3点です。
彼の作品展が東京の六本木で開催された時、見て感動した『床削りの人々』を第一番にお送りします。この絵が1875年のフランスの官展で落選したことが信じられませんでした。嗚呼、審査員は眼が無かったのでしょうか?!


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


1番目の写真は『床削りの人々』(Les Raboteurs de parquet)(1875)、(オルセー美術館)です。

2番目の写真は『ヨーロッパ橋』(Le Pont de l'Europe)(1876)、(オードロップゴー美術館)です。

3番目の写真は『イエール、雨』(L'Yerres, pluie)(1875)、(インディアナ大学美術館)です。

ギュスターヴ・カイユボット(Gustave Caillebotte、(1848年8月19日 - 1894年2月21日))は、フランスの画家で、印象派絵画の収集家。印象派の画家たちの経済的支援者であった。富裕な衣料製造業者の子として、パリ10区のフォーブル・サン・ドニ通り(fr:Rue du Faubourg-Saint-Denis)に生まれた。
1873年、パリ国立美術学校に入学したが、あまり登校しなかった。1874年、ドガ、モネ、ルノワールらを知った。1875年の官展に『床削りの人々』を持ち込んだが、「粗野」を理由に拒否された。
彼は印象派絵画の収集家でもあったので、ピサロ、モネ、ルノワール、シスレー、ドガ、セザンヌ、マネの、計68点を、フランス政府に遺贈する気でいたが、当時印象派絵画はまだ『日陰者』で、ルノワールの2年間の折衝ののち、政府は漸く38点を受け入れた。現在はオルセー美術館へ移管されている。
カイユボット自身の作品は、1950年代になって子孫が漸く市場に出した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%A6%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%88 より抜粋しました。