読めば気持ちが晴れ晴れする。気分が良くなる。そして最後にちょっと考え込む。
そんな記事を毎日書きたいと思いっています。
今日は初冬の風物詩としての干し柿作りの風景、村上市の塩引き鮭作りの風景、そして信州の寒天干しの風景を取り上げました。
毎年、この時期になると農家の軒先に干し柿が釣り下がります。その光景は見ていただけで心が暖かくなります。寛ぎます。そのような故郷の思い出があるのか都会の家でも干し柿を作る人がいます。
我が家でも毎年少しだけ渋柿を買ってきて軒先に吊るします。
戦前、戦後の砂糖が無かった時代に干し柿の甘さに魅了されたものです。その頃は初冬になると都会の家々の軒先にも干し柿があったのです。私が干し柿のある風景が好きなのは郷愁なのでしょう。
美味しい干し柿を作るには2つの条件が必要です。寒い乾いた風が吹き抜けることと、充分な太陽の光にあてることです。
ですから山梨や長野、そして山形などの東北地方が美味しい干し柿の産地なのです。
そこで山形と山梨の農家の干し柿がある風景写真を下に示します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/34/5b55ed51c8e55471f7670e89cedc8c60.jpg)
1番目の写真は山形県上山市の干し柿のある風景です。背景の雪の山は蔵王山です。
写真の出典は、https://ssl.yamagatakanko.jp/gallery/…/img/food/food012.html です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/e5/a5aaab0836e8e37dd46ff030c78813a4.jpg)
2番目の写真は山梨県 甲州市の甘草屋敷のころ柿づくりの風景です。
甘草屋敷とは高野家の大きな家のことです。江戸時代に薬用植物である甘草の栽培をして幕府に納めていた家なので、「甘草屋敷」と呼ばれてきれてきました。
江戸時代の「甲州甘草文書」によると、八代将軍徳川吉宗治世の享保5年(1720)に幕府御用として甘草の栽培と管理することになったのです。
そして高野家の甘草園は年貢諸役を免除され、以後同家が栽培する甘草は、幕府官営の薬園で栽培するための補給源として、また薬種として幕府への上納を負うこととなりました。
この2番目の写真の出典は、https://tokuhain.arukikata.co.jp/hokuto/2018/11/post_27.html です。
干し柿が初冬の農家の軒先を飾るころのなると新潟県の村上市では塩引き鮭が軒先に吊るされます。
村上の三面川(みおもてがわ)での鮭の遡上が始まり、塩引き鮭が作られるのです。
鮭の町、村上ではそれぞれの家庭で塩引き鮭を作るそうです。村上市庄内町は「鮭塩引き街道」として有名です。
毎年この時期になると大きな塩引き鮭が軒先にぶら下がっている風景写真が新聞にでます。
そうすると北海道の川をさかのぼっている数多くの鮭たちの写真を思い浮かべるのです。ヒグマがその鮭を取っている知床の川の風景を連想するのです。東の北海道の標津へ旅した時サーモンセンターという立派な建物があり、種々の生きた鮭が遡上する様が見られて感動しました。
寒い季節の到来です。雪が野山を覆う風景を思います。ですから村上の塩引き鮭の風景は私にとって初冬の風物詩なのです。下に村上の塩引き鮭の写真を示します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/f1/4b8be9709a6adb4eadf7d4485e1c7304.jpg)
3番目の写真は新潟県、村上の軒先に吊るされた塩引き鮭の写真です。
写真の出典は、http://www.senamiview.com/blog/log/eid196.html です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/76/b0ae5a4722ee64a4499f9c3bbffbd6f7.jpg)
4番目の写真は室内で天井から吊るした多量の塩引き鮭の写真です。
写真の出典は、https://www.murakami-salmon.com/driedfield/ です。
そしてもう一つの初冬の風物詩は信州の雪の田圃に広がる寒天干しの情景です。寒天とは冬の空を意味しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/0a/1955a4a10a3ebc8afe8425530c18f29c.jpg)
5番目の写真は信州の雪の田圃にえんえんと広がる寒天干しの光景です。昔、信州を旅した時に何度も見た懐かしい風景です。
この写真の出典は、http://homepage1.nifty.com/hottayukio/syasin/KANTEN.htm です。
寒天の作り方です。
海で採ったテングサをを大きな釜で煮溶かし、四角形のトコロテンにして、それを凍らせては干し上げるのです。カビたり腐る前に干しあげるためには寒風が吹き太陽光の射す信州でないとうまく行きません。
信州の寒天作りに関して面白い話があるので下に、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%92%E5%A4%A9 から抜粋して示します。
江戸時代初期の1685年、京都府伏見の旅館『美濃屋』の主人、美濃太郎左衛門が、戸外に捨てたトコロテンが凍結し、乾物になっているのを偶然発見したのです。
これを黄檗山萬福寺を開創した隠元禅師に試食してもらったところ、精進料理の食材として活用できると奨励されたそうです。隠元は「冬の空」を意味する漢語の寒天という名前をつけたのです。
さらに、天保年間(1830年から1843年)に信州の行商人の小林粂左衛門が諏訪地方の農家の副業として寒天作りを広め、角寒天として定着しました。
明治14年、ロベルト・コッホが寒天による細菌培養法を開発したため、寒天の国際的需要が増えます。このため、第二次大戦前は寒天が日本の重要な輸出品になっていましたが、第二次世界大戦中は戦略的意味合から輸出を禁止してしまったのです。
現在、寒天はあまり料理に使われていませんが寒天にも面白い歴史があったのです。
冒頭に、「読めば気持ちが晴れ晴れする。気分が良くなる。そして最後にちょっと考え込む。そんな記事を毎日書きたいと思いっています。」と書き込みました。
そこで最後に、ちょっと考え込む問題を出したいと思います。
「干し柿と塩引き鮭は縄文時代には重要な食べ物だったのでしょうか?」
私が想像した答です。
干し柿と塩引き鮭は簡単に作れる保存食なのです。縄文時代から作っていたと考えるのに無理はありません。
柿は野生の渋柿を採集して来て竪穴式の家の周りで干したに違いありません。石器のナイフで皮は剥いたのでしょう。
縄文時代は鮭が現在より多量に日本の川をさかのぼっていた筈です。しかし塩は貴重品でしたから海水に何度も浸けて、乾かすことを繰り返して作ったのでしょう。
現在でも柿も鮭も皆天然のものです。自然食品です。それらを食べると自然に対する憧れと感謝を感じるのです。ですから気持ちが晴れ晴れしま。気分が良くなるのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
そんな記事を毎日書きたいと思いっています。
今日は初冬の風物詩としての干し柿作りの風景、村上市の塩引き鮭作りの風景、そして信州の寒天干しの風景を取り上げました。
毎年、この時期になると農家の軒先に干し柿が釣り下がります。その光景は見ていただけで心が暖かくなります。寛ぎます。そのような故郷の思い出があるのか都会の家でも干し柿を作る人がいます。
我が家でも毎年少しだけ渋柿を買ってきて軒先に吊るします。
戦前、戦後の砂糖が無かった時代に干し柿の甘さに魅了されたものです。その頃は初冬になると都会の家々の軒先にも干し柿があったのです。私が干し柿のある風景が好きなのは郷愁なのでしょう。
美味しい干し柿を作るには2つの条件が必要です。寒い乾いた風が吹き抜けることと、充分な太陽の光にあてることです。
ですから山梨や長野、そして山形などの東北地方が美味しい干し柿の産地なのです。
そこで山形と山梨の農家の干し柿がある風景写真を下に示します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/34/5b55ed51c8e55471f7670e89cedc8c60.jpg)
1番目の写真は山形県上山市の干し柿のある風景です。背景の雪の山は蔵王山です。
写真の出典は、https://ssl.yamagatakanko.jp/gallery/…/img/food/food012.html です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/e5/a5aaab0836e8e37dd46ff030c78813a4.jpg)
2番目の写真は山梨県 甲州市の甘草屋敷のころ柿づくりの風景です。
甘草屋敷とは高野家の大きな家のことです。江戸時代に薬用植物である甘草の栽培をして幕府に納めていた家なので、「甘草屋敷」と呼ばれてきれてきました。
江戸時代の「甲州甘草文書」によると、八代将軍徳川吉宗治世の享保5年(1720)に幕府御用として甘草の栽培と管理することになったのです。
そして高野家の甘草園は年貢諸役を免除され、以後同家が栽培する甘草は、幕府官営の薬園で栽培するための補給源として、また薬種として幕府への上納を負うこととなりました。
この2番目の写真の出典は、https://tokuhain.arukikata.co.jp/hokuto/2018/11/post_27.html です。
干し柿が初冬の農家の軒先を飾るころのなると新潟県の村上市では塩引き鮭が軒先に吊るされます。
村上の三面川(みおもてがわ)での鮭の遡上が始まり、塩引き鮭が作られるのです。
鮭の町、村上ではそれぞれの家庭で塩引き鮭を作るそうです。村上市庄内町は「鮭塩引き街道」として有名です。
毎年この時期になると大きな塩引き鮭が軒先にぶら下がっている風景写真が新聞にでます。
そうすると北海道の川をさかのぼっている数多くの鮭たちの写真を思い浮かべるのです。ヒグマがその鮭を取っている知床の川の風景を連想するのです。東の北海道の標津へ旅した時サーモンセンターという立派な建物があり、種々の生きた鮭が遡上する様が見られて感動しました。
寒い季節の到来です。雪が野山を覆う風景を思います。ですから村上の塩引き鮭の風景は私にとって初冬の風物詩なのです。下に村上の塩引き鮭の写真を示します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/f1/4b8be9709a6adb4eadf7d4485e1c7304.jpg)
3番目の写真は新潟県、村上の軒先に吊るされた塩引き鮭の写真です。
写真の出典は、http://www.senamiview.com/blog/log/eid196.html です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/76/b0ae5a4722ee64a4499f9c3bbffbd6f7.jpg)
4番目の写真は室内で天井から吊るした多量の塩引き鮭の写真です。
写真の出典は、https://www.murakami-salmon.com/driedfield/ です。
そしてもう一つの初冬の風物詩は信州の雪の田圃に広がる寒天干しの情景です。寒天とは冬の空を意味しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/0a/1955a4a10a3ebc8afe8425530c18f29c.jpg)
5番目の写真は信州の雪の田圃にえんえんと広がる寒天干しの光景です。昔、信州を旅した時に何度も見た懐かしい風景です。
この写真の出典は、http://homepage1.nifty.com/hottayukio/syasin/KANTEN.htm です。
寒天の作り方です。
海で採ったテングサをを大きな釜で煮溶かし、四角形のトコロテンにして、それを凍らせては干し上げるのです。カビたり腐る前に干しあげるためには寒風が吹き太陽光の射す信州でないとうまく行きません。
信州の寒天作りに関して面白い話があるので下に、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%92%E5%A4%A9 から抜粋して示します。
江戸時代初期の1685年、京都府伏見の旅館『美濃屋』の主人、美濃太郎左衛門が、戸外に捨てたトコロテンが凍結し、乾物になっているのを偶然発見したのです。
これを黄檗山萬福寺を開創した隠元禅師に試食してもらったところ、精進料理の食材として活用できると奨励されたそうです。隠元は「冬の空」を意味する漢語の寒天という名前をつけたのです。
さらに、天保年間(1830年から1843年)に信州の行商人の小林粂左衛門が諏訪地方の農家の副業として寒天作りを広め、角寒天として定着しました。
明治14年、ロベルト・コッホが寒天による細菌培養法を開発したため、寒天の国際的需要が増えます。このため、第二次大戦前は寒天が日本の重要な輸出品になっていましたが、第二次世界大戦中は戦略的意味合から輸出を禁止してしまったのです。
現在、寒天はあまり料理に使われていませんが寒天にも面白い歴史があったのです。
冒頭に、「読めば気持ちが晴れ晴れする。気分が良くなる。そして最後にちょっと考え込む。そんな記事を毎日書きたいと思いっています。」と書き込みました。
そこで最後に、ちょっと考え込む問題を出したいと思います。
「干し柿と塩引き鮭は縄文時代には重要な食べ物だったのでしょうか?」
私が想像した答です。
干し柿と塩引き鮭は簡単に作れる保存食なのです。縄文時代から作っていたと考えるのに無理はありません。
柿は野生の渋柿を採集して来て竪穴式の家の周りで干したに違いありません。石器のナイフで皮は剥いたのでしょう。
縄文時代は鮭が現在より多量に日本の川をさかのぼっていた筈です。しかし塩は貴重品でしたから海水に何度も浸けて、乾かすことを繰り返して作ったのでしょう。
現在でも柿も鮭も皆天然のものです。自然食品です。それらを食べると自然に対する憧れと感謝を感じるのです。ですから気持ちが晴れ晴れしま。気分が良くなるのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)