後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

東京から最も近い天守閣のある本格的な3つの城の写真

2018年12月19日 | 写真
先週、諏訪湖の畔に泊まり、諏訪氏の居城だった高島城の写真を撮って来ました。
考えて見ると箱根の関所から東には天守閣のある本格的なお城は3つしかありません。高島城と行田城と小田原城です。これらのお城は小さいながら美しいので何度も遊びに行きました。なお松本城は遠方過ぎるので含めませんでした。
今日は東京から近いこの3つのお城の写真をお送りします。お城のある風景を見ながら戦国時代の歴史を想って頂けたら嬉しく思います。
1番目から3番目の3枚の写真は諏訪湖の畔にある高島城です。撮影日時:2017年12月。





4番目から6番目の3枚の写真は関東平野の北部にある行田城です。行田へは東北高速道路の久喜インターを出て、一面に広がる水田の中を根気良く車を走らせると行田に行けます。撮影日時:2008年6月7日午後。





7番目から10番目の4枚の写真は東海道にある小田原城です。
城内には子供を喜ばせるために象を飼っていました。2011年02月27日 撮影。最後の2枚の写真だけはお借りしました。








歴史が好きな方々のためにこれら3つの城の歴史を書いておきます。

(1)日根野氏が1598年に築城した高島城
 諏訪支配を復活させた諏訪頼忠は最終的に徳川家康に帰順し、諏訪領有を安堵されました。しかし家康の関東国替えに伴って上野国惣社(現群馬県)に移されました。
 かわって諏訪の領主となったのが、豊臣秀吉の家臣・日根野高吉です。
高吉は諏訪湖畔の高島を城地と定めて天正20年(文禄元年)頃から築城にとりかかり、1598年の慶長3年にはおおよそ完成したものと考えられています。
日根野高吉(?〜1600)は美濃国の生まれ。はじめ美濃斎藤家に仕えましたが、豊臣秀吉の部将となりました。小田原攻めの戦功により諏訪を与えられ、高島城を築城しました。関ヶ原の合戦の直前に死去し、慈雲寺(下諏訪町)に葬られました。

 日根野高吉は高島城を築城し、領内統治の仕組みを作るなど領主としての足固めを進めましたが、慶長5年関ヶ原の合戦直前に死去します。跡を継いだのは子の吉明ですが、翌年に下野国壬生に移されました。そのあと諏訪を与えられたのが諏訪頼忠の子でそのとき惣社の領主となっていた諏訪頼水です。頼水は高吉の築城した高島城に入り、ここに諏訪氏による諏訪統治が約60年ぶりに復活しました。以来10代忠礼のときに明治維新を迎えるまで変わることなく諏訪氏が諏訪の領主として続きました。

(2)1479年に成田顕泰の作った行田城(忍城)
埼玉県、行田市は利根川と荒川の間にある低地です。周りは水を満々と湛えた水田が果てしなく広がっています。江戸時代にはこの水田はほとんど沼や湖でした。そんな湖沼を外堀代わりに忍城を作ったのが、熊谷を本拠にしていた戦国武将の成田顕泰(あきやす)です。1479年に完成しています。外堀のような湖沼が周りに広がり、敵が近づけない難攻不落の名城でした。その後111年間、1590年の秀吉による関東平定まで成田氏の城として存続しました。
1590年の秀吉の小田原城攻略の時には、城主の成田氏長が北条氏に味方します。
石田三成の率いる軍勢が忍城を取り囲みました。三成は湖沼の地形を巧みに利用して水攻めに出ました。利根川と荒川へ延長14kmもの堤を築き、多量の水を流し込んだそうです。今でも堤の一部が三成堤という名で残っています。
深い水で完全に囲まれましたが、なかなか落城しません。それを見た人々は、「城が浮いているから落城しない。浮き城だ!」と言い合ったそうです。
しかし、小田原城が落ちた後では、忍城も開城せざるを得ません。
江戸時代には徳川の城として、親藩、譜代16人の城主が在城する。
上の写真にある白い天守閣は三階櫓と称する建物で1702年に完成しました。1639年に忍城に城番になった阿部忠秋が城の大改修をした時に作りました。
幸い、阿部氏はその後184年間城主を務めます。明治維新後、城は取り壊され民間へ払い下げになりました。現在の三階櫓は1988年に行田市によって再現された建物です。

(3)北条早雲家が作った建築者不明の小田原城
北条氏は、居館を今の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山(現在の小田原高校がある場所)を詰の城としていていました。だが、建築者は、不明です。 居館部については北条氏以前の大森氏以来のものとするのが通説です。
北条早雲から3代目の当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵の城といわれていました。
そして上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えたのです。
江戸時代に居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭部分となります。
この城の最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭です。
八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだのです。
慶長19年(1614年)、徳川家康は自ら数万の軍勢を率いてこの総構えを撤去させます。
田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる重要な立場だったのです。

高島城と行田城と小田原はあまり有名ではありません。しかしその歴史を調べると戦国時代から徳川の江戸幕府が出来るまでの動乱の時代の地方、地方の実態が浮き彫りになってくるのです。それぞれの地方には激しい時代の変化と武将の興亡があったのです。その動乱に巻き込まれた農民や町人を想うと粛然としたき気持ちになります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)