後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今日は多摩の横山の中の小さな禅寺の写真を撮りに行きました

2018年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム
多摩の横山の中の雑木林の奥にひっそり建っている禅寺があります。
多摩の横山に平行している多摩尾根幹線道路を町田市の小山田緑地への脇道に下ります。
暫く走ると大泉禅寺という鎌倉時代のお寺が雑木林の奥にあります。
何度か行きましたがそのお寺を散策していると心が静まり座禅をしているような気分になります。
私の好きなお寺なので今日も行って写真を撮って来ました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









この大泉寺のある小山田の一帯は小山田氏に支配されていたのです。
小山田氏が1200年前後に大泉寺のある土地に本拠の城を作りました。小山田氏は本拠の城(大泉寺)の他に小野路城、小山田東砦(図師)升 形城(登戸) 小沢城(稲城市川崎市境)を作り、狼煙で連絡を取り合ったといわ れていいます。
この詳しい歴史は、http://www.machida-tky.ed.jp/e-zushi/zushirekishi/pdf/zusinorekisi.pdf に出ています。

1228年創建大泉寺の歴史;
曹洞宗寺院の大泉寺は、補陀山水月院と号します。大泉寺は、小山田別當有重が開基となり、小山田有重が居住していた当地に安貞元年(1228)に起立、無極(永享2年1430年寂)が曹洞宗寺院として開山したといいます。江戸時代には寺領8石の御朱印状を拝領していました。武相卯歳観音霊場四十八ヶ所11番です。

遥かなハイラル(3)ハイラル小学校の同窓会と日中友好

2018年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム
旧友の竹内義信君は内蒙古のハイラル国民学校から引き揚げて来ました。当時、世話になったハイラルへ恩返しをしようと現地の植林事業を何年も根気よく続けました。人間味のあふれる情熱家です。
今日は竹内義信君のハイラル小学校の思い出を書きたいと思います。そして完全に消滅した母校の同窓会を作りハイラル国民学校の詳細な記録を作りました。その本は「草原明珠」という部厚い本で国会図書館にも収められているそうです。
満州のこととなるとシベリア抑留や引揚の悲劇だけが喧伝されていますが、満州が平和だった頃の庶民の生活の歴史は欠落しています。そのことを考えると「草原明珠」は貴重な歴史的な価値があります。

さてハイラルは満州のフルンバイル平原にありました。すぐ西にはソ連の国境が近い所です。蒙古族の住んでいるので、現在の中国では内蒙古自治区になっています。このハイラルに日本人が沢山住んでいました。
1945年に日本が敗戦になるまで海外の領土や占領地に数多くの日本の学校がありました。みんな文部省が管理し指導した日本の教育をしていたのです。ハイラル国民学校もその一つでした。

ハイラル小学校(国民学校)の歴史については「草原明珠」に竹内義信さんが書いています。それによるとハイラル小学校は昭和8年4月1日に開校され昭和20年8月9日のソ連軍の侵攻で消滅します。
その歴史の詳細は省略しますが、最盛時の昭和19年には児童数は400人にも増大し、職員数も20人以上いたそうです。それが昭和20年8月9日のソ連軍侵攻で消えてしまったのです。昭和8年の開校以来12年4ケ月の短い命でした。

ちりぢりになって引き揚げた同窓生がハイラル小学校の同窓会を結成したのは戦後30年も経過した昭和50年代の後半でした。そして第一回の全国同窓会が昭和57年に開催されたのです。そして翌年から毎年のように同窓会が開催され、その同窓会誌も発行されたのです。
その会誌は年に2回のもありましたので全部で40巻以上になります。その全てを合本し、装丁したのが「草原明珠」という部厚い本なのです。「草原明珠」の意味は草原のなかの美しい真珠のようなハイラルという意味です。
その後、同窓生の高齢化によって、この同窓会は平成17年(2005年)に解散したそうです。約20年の活動でした。
そしてこの同窓会は日中友好の活動もしたのです。現在のハイラルにある中国の「文化街小学校」への友好訪問を、正式には5回、非公式に同窓会解散後にも第6回の母校訪問団を出したそうです。
「草原明珠」には中国人の歓迎ぶりに感動したという内容の記載が多かったのです。昔のハイラル小学校の場所にある文化街小学校の先生や児童が情熱的に歓迎してくれたのです。日本側は心のこもったお土産を持って行きました。同窓生のなかには現金を寄付した人もいました。それは中国人にとっても素晴らしい体験だったに違いありません。この「草原明珠」の発刊を祝して文化街小学校の校長の王 紅果先生が暖かい文章を寄せ、旧校舎の改装や校庭の緑化に日本側が協力してくれたことに感謝しています。そして「日中友情の木が永遠に緑でありますように!」という文章で終わっています。

日本側がハイラルの為にしたことはそれだけではありません。前述のように、ハイラルの周辺の草原に十年間にわたる植林事業をしたのです。
ハイラル小学校の同窓生が感傷だけに溺れないで中国人と友情を育んだのが素晴らしいと思います。
これは一つの例に過ぎません。この様な例は40カ所以上の中国の場所での植林事業です。
最近この中国での日本人による植林事業は忘れ去っているようです。残念です。

満州というと日本人は敗戦後のソ連兵の略奪やシべリア抑留を思い出します。引揚者の苦難の逃亡の経験を思い出します。
しかし無法なソ連軍の侵入までは平和な日常が続いていたのです。満州に住んでいた人々の幸せな日常でした。
歴史を振り返る時にそのように静かな日常があったことを忘れるべきではないと思います。

添付の写真は「草原明珠」の写真と4枚の満州にあった日本の小学校の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


1番目の写真は「草原明珠」という同総会誌の写真です。この本は2001年に発刊された720ページの本です。昔存在した日本の小学校のハイラル小学校の同窓会報を復刻し合本、装丁したものです。国会図書館にも納められています。
この本の内容は以下の通りです。
(1) 満州帝国のハイラルと日本の国益
(2) ハイラル小学校(国民学校)の開校と消滅
(3) 同窓会の発足とその解散
(4) 海外の日本の学校の運命と歴史的記録の重要性
(5) 学校の消滅と同窓生の感傷と運命

満州にあった日本人の学校の写真を4枚お送りします。写真の出典は、満州写真館、http://www.geocities.jp/ramopcommand/page035.html です。

2番目の写真は撫順にあった小学校の運動会の風景です。内地の学校の運動会風景と同じです。

3番目の写真は撫順の小学校の体育館で運動をしている児童の様子です。

4番目の写真は撫順にあった幼稚園の風景です。

5番目の写真は日本人小学校と満人小学校の交流会の写真です。壇上に飾られた数多くの人形は日本人児童から満人小学校へ送る贈り物です。