私は仙台生まれ仙台育ちなので武蔵野を見たことがありませんでした。しかし青春のころ国木田独歩の「武蔵野」という随筆集を読んで憧れてしまったのです。ですから武蔵野という言葉を聞くと青春のころの甘い夢を連想して幸せな気分になります。特に広い武蔵野に点々とある雑木林の風景に憧れていました。
その後結婚して東京の郊外に60年くらい住み続けていますが、今でも「武蔵野」の風景を求めて彷徨っています。そして雑木林を見つけると幸せな気分になります。それは私の永遠の恋人のような存在です。
先週も昔のままの武蔵野の雑木林の風景を探し車であちこちを走り回りました。
国木田独歩の「武蔵野」を読んだ方々には武蔵野に憧れる私の気持ちがお分かりと思います。
武蔵野の雑木林はクヌギやコナラやカシワの木が混じっている林です。樹木は他にもエゴノキ、シデノキ、ナラノキ、クリノキ、ヤマザクラなどなど落葉する木々が混じっています。
関東平野は昔、武蔵野とよばれ、雑木林で覆われていました。人々はその雑木林を切り開いて田畑にしました。しかしその一方、雑木林は薪を取り炭を焼くために必要でした。落ち葉は肥料になります。雑木林からは山菜やキノコも採れます。そこで田畑の周囲には雑木林が大切に保存してあります。このような雑木林は里山とも呼ばれ、美しい田園地帯の風景になっています。先週撮った写真をお送りいたさいます。
1番目の写真は八王子市の郊外にある磯沼ミルクファームという広大な牧場です。武蔵野の雑木林に囲まれた牧場です。この牧場ではホルスタイン種やジャージー種などの乳牛を100頭以上飼っていて毎日1トンの牛乳を出荷しているそうです。
2番目の写真は埼玉県所沢市の郊外の畑の向こうに雑木林のある風景です。秋の紅葉も、そして冬の落葉した光景も美しいので四季折々何度も写真を撮りに行く場所です。
3番目の写真は埼玉県南部にある平林寺のそばの雑木林です。
4番目の写真は平林寺の雑木林です。平林寺の境内に入ると裏に広い雑木林があり武蔵野固有の珍しい植物が生えています。植物が好きだった昭和天皇も訪れたそうです。
5番目の写真は磯沼牧場の上に広がっていた雲の写真です。あまり美しかったので家内が思わず写しました。
武蔵野の雑木林は春は淡い緑の瑞々しさ、夏は深緑の木陰の安らぎ、秋は黄、くれない、褐色、とりどりに染められた紅葉の美しさを見せてくれます。そして全ての葉を落とした裸の梢の冬も凛々しさを感じます。詩的なムードが流れています。
私が武蔵野の雑木林に憧れるようになったのは国木田独歩の「武蔵野」を読んでからです。その本によると雑木林が文学作品の対象になったのは明治維新以後のようです。
明治4年生まれ、41年、36歳で亡くなった国木田独歩は「武蔵野」を書いて雑木林の美しさを描きました。
江戸時代以前は松の木や美しい竹林などは文学作品に登場しますが、いろいろな雑木の混じった広葉樹の混生林は美の対象になりませんでした。少なくとも文学作品には取り上げられていません。
この落葉する広葉樹の林の美しさを国木田独歩へ教えたのはロシア人のツルゲーネフです。そのことは末尾に紹介したURLを開けてみると、国木田独歩自身が書いているので明白です。
ロシアの大地にある白樺やダケカンバなどの樺の木の林の美しさをツルゲーネフは活き活きと描いています。国木田独歩は深く感銘を受けます。
彼は明治時代の東京市の西の郊外に広がる田園地帯を広く歩きまわります。そして、そこにあるコナラ、クヌギ、カシ、エゴノキなどなどの雑木林の詩的なたたずまいを文章で表現したのです。四季折々の美しさ、朝や夕方の林の輝きを描いたのです。
それ以来、多くの日本人は雑木林は美しいと認識するようになったのです。勿論、昔の日本人も美しいと思ったに違いありません。しかし文学作品にはほとんど現れませんでした。
下に国木田独歩の「武蔵野」のほんの一部を示します。
・・・自分は明治二十九年の秋の初めから春の初めまで、渋谷村の小さな茅屋に住んでいた。自分がかの望みを起こしたのもその時のこと、また秋から冬の事のみを今書くというのもそのわけである。
九月七日――「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ雲を払いつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌く、――」
これが今の武蔵野の秋の初めである。林はまだ夏の緑のそのままでありながら空模様が夏とまったく変わってきて雨雲の南風につれて武蔵野の空低くしきりに雨を送るその晴間には日の光水気を帯びてかなたの林に落ちこなたの杜にかがやく。自分はしばしば思った、こんな日に武蔵野を大観することができたらいかに美しいことだろうかと。二日置いて九日の日記にも「風強く秋声野にみつ、浮雲変幻たり」とある。ちょうどこのころはこんな天気が続いて大空と野との景色が間断なく変化して日の光は夏らしく雲の色風の音は秋らしくきわめて趣味深く自分は感じた。
まずこれを今の武蔵野の秋の発端として、自分は冬の終わるころまでの日記を左に並べて、変化の大略と光景の要素とを示しておかんと思う。・・・・
この作品に描かれている林は雑木林は里山とも言います。農民が植えて育てた林です。
冬の雑木林は陽が差し込んで明るく暖かいものです。道もなくとも下草の上を散歩するのは実に楽しいものです。
そんな雑木林の周囲を散歩しながら36歳で夭折した国木田独歩の生涯を想います。
小説を沢山書きました。しかし現在世に知られているのは「武蔵野」だけです。
今日は東京の郊外の雑木林の写真だけを掲載しましたが美しい雑木林は全国にあります。
北海道に旅をすると美しい白樺林が畑の周囲を囲んでいます。ああ、これこそツルゲーネフの世界だとロシアの大地を想います。
それにしても林や森は人々の心にいろいろと語りかけてくれます。皆様の近所にも美しい雑木林が御座いますでしょうか。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料===========================
(1)「武蔵野」の詳細な内容は、http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/329_15886.html にございます。
(2)国木田度独歩の経歴を下に掲載して置きます。
国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4年7月15日) - 1908年(明治41年)6月23日)は、日本の小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者。千葉県銚子生まれ、広島県広島市、山口県育ち。幼名を亀吉、のちに哲夫と改名した。筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがある。
田山花袋、柳田国男らと知り合い「独歩吟」を発表。詩、小説を書いたが、次第に小説に専心。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」などの浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされる。
また現在も続いている雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されている。夏目漱石は、その短編『巡査』を絶賛した他、芥川龍之介も国木田独歩の作品を高く評価していた。ロシア語などへの翻訳があるが、海外では、夏目漱石や三島由紀夫のような知名度は得ていない。
その後結婚して東京の郊外に60年くらい住み続けていますが、今でも「武蔵野」の風景を求めて彷徨っています。そして雑木林を見つけると幸せな気分になります。それは私の永遠の恋人のような存在です。
先週も昔のままの武蔵野の雑木林の風景を探し車であちこちを走り回りました。
国木田独歩の「武蔵野」を読んだ方々には武蔵野に憧れる私の気持ちがお分かりと思います。
武蔵野の雑木林はクヌギやコナラやカシワの木が混じっている林です。樹木は他にもエゴノキ、シデノキ、ナラノキ、クリノキ、ヤマザクラなどなど落葉する木々が混じっています。
関東平野は昔、武蔵野とよばれ、雑木林で覆われていました。人々はその雑木林を切り開いて田畑にしました。しかしその一方、雑木林は薪を取り炭を焼くために必要でした。落ち葉は肥料になります。雑木林からは山菜やキノコも採れます。そこで田畑の周囲には雑木林が大切に保存してあります。このような雑木林は里山とも呼ばれ、美しい田園地帯の風景になっています。先週撮った写真をお送りいたさいます。
1番目の写真は八王子市の郊外にある磯沼ミルクファームという広大な牧場です。武蔵野の雑木林に囲まれた牧場です。この牧場ではホルスタイン種やジャージー種などの乳牛を100頭以上飼っていて毎日1トンの牛乳を出荷しているそうです。
2番目の写真は埼玉県所沢市の郊外の畑の向こうに雑木林のある風景です。秋の紅葉も、そして冬の落葉した光景も美しいので四季折々何度も写真を撮りに行く場所です。
3番目の写真は埼玉県南部にある平林寺のそばの雑木林です。
4番目の写真は平林寺の雑木林です。平林寺の境内に入ると裏に広い雑木林があり武蔵野固有の珍しい植物が生えています。植物が好きだった昭和天皇も訪れたそうです。
5番目の写真は磯沼牧場の上に広がっていた雲の写真です。あまり美しかったので家内が思わず写しました。
武蔵野の雑木林は春は淡い緑の瑞々しさ、夏は深緑の木陰の安らぎ、秋は黄、くれない、褐色、とりどりに染められた紅葉の美しさを見せてくれます。そして全ての葉を落とした裸の梢の冬も凛々しさを感じます。詩的なムードが流れています。
私が武蔵野の雑木林に憧れるようになったのは国木田独歩の「武蔵野」を読んでからです。その本によると雑木林が文学作品の対象になったのは明治維新以後のようです。
明治4年生まれ、41年、36歳で亡くなった国木田独歩は「武蔵野」を書いて雑木林の美しさを描きました。
江戸時代以前は松の木や美しい竹林などは文学作品に登場しますが、いろいろな雑木の混じった広葉樹の混生林は美の対象になりませんでした。少なくとも文学作品には取り上げられていません。
この落葉する広葉樹の林の美しさを国木田独歩へ教えたのはロシア人のツルゲーネフです。そのことは末尾に紹介したURLを開けてみると、国木田独歩自身が書いているので明白です。
ロシアの大地にある白樺やダケカンバなどの樺の木の林の美しさをツルゲーネフは活き活きと描いています。国木田独歩は深く感銘を受けます。
彼は明治時代の東京市の西の郊外に広がる田園地帯を広く歩きまわります。そして、そこにあるコナラ、クヌギ、カシ、エゴノキなどなどの雑木林の詩的なたたずまいを文章で表現したのです。四季折々の美しさ、朝や夕方の林の輝きを描いたのです。
それ以来、多くの日本人は雑木林は美しいと認識するようになったのです。勿論、昔の日本人も美しいと思ったに違いありません。しかし文学作品にはほとんど現れませんでした。
下に国木田独歩の「武蔵野」のほんの一部を示します。
・・・自分は明治二十九年の秋の初めから春の初めまで、渋谷村の小さな茅屋に住んでいた。自分がかの望みを起こしたのもその時のこと、また秋から冬の事のみを今書くというのもそのわけである。
九月七日――「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ雲を払いつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌く、――」
これが今の武蔵野の秋の初めである。林はまだ夏の緑のそのままでありながら空模様が夏とまったく変わってきて雨雲の南風につれて武蔵野の空低くしきりに雨を送るその晴間には日の光水気を帯びてかなたの林に落ちこなたの杜にかがやく。自分はしばしば思った、こんな日に武蔵野を大観することができたらいかに美しいことだろうかと。二日置いて九日の日記にも「風強く秋声野にみつ、浮雲変幻たり」とある。ちょうどこのころはこんな天気が続いて大空と野との景色が間断なく変化して日の光は夏らしく雲の色風の音は秋らしくきわめて趣味深く自分は感じた。
まずこれを今の武蔵野の秋の発端として、自分は冬の終わるころまでの日記を左に並べて、変化の大略と光景の要素とを示しておかんと思う。・・・・
この作品に描かれている林は雑木林は里山とも言います。農民が植えて育てた林です。
冬の雑木林は陽が差し込んで明るく暖かいものです。道もなくとも下草の上を散歩するのは実に楽しいものです。
そんな雑木林の周囲を散歩しながら36歳で夭折した国木田独歩の生涯を想います。
小説を沢山書きました。しかし現在世に知られているのは「武蔵野」だけです。
今日は東京の郊外の雑木林の写真だけを掲載しましたが美しい雑木林は全国にあります。
北海道に旅をすると美しい白樺林が畑の周囲を囲んでいます。ああ、これこそツルゲーネフの世界だとロシアの大地を想います。
それにしても林や森は人々の心にいろいろと語りかけてくれます。皆様の近所にも美しい雑木林が御座いますでしょうか。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料===========================
(1)「武蔵野」の詳細な内容は、http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/329_15886.html にございます。
(2)国木田度独歩の経歴を下に掲載して置きます。
国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4年7月15日) - 1908年(明治41年)6月23日)は、日本の小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者。千葉県銚子生まれ、広島県広島市、山口県育ち。幼名を亀吉、のちに哲夫と改名した。筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがある。
田山花袋、柳田国男らと知り合い「独歩吟」を発表。詩、小説を書いたが、次第に小説に専心。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」などの浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされる。
また現在も続いている雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されている。夏目漱石は、その短編『巡査』を絶賛した他、芥川龍之介も国木田独歩の作品を高く評価していた。ロシア語などへの翻訳があるが、海外では、夏目漱石や三島由紀夫のような知名度は得ていない。