後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「空海が開いた高野山の思い出」

2024年07月10日 | 日記・エッセイ・コラム
ずいぶん以前に高野山を訪ねたことがあります。懐かしいので風景写真を検索しました。
1番目の写真は大門を抜けて左側に広がるエリアが「壇上伽藍」です。
2番目の写真は高野山のシンボルの高さ48mの根本大塔です。
3番目の写真は最大の聖地とされている奥の院です。約2km続く参道には 約20万基とも言われる様々なお墓が並んでいます。

4番目の写真は奥の院に架かる最奥の橋 御廟橋です。

御廟では 弘法大師空海が今も休まずに瞑想しているとされ そんな弘法大師の元へと毎日欠かさずに食事が届けられています。朝食は朝6時・昼食は10時30分に御廟まで1200年休まずに続いています。
 
 

「弘法大師の説話、『東京の多摩の二度栗』」

2024年07月10日 | 日記・エッセイ・コラム

昔、武州多摩郡の山の根の村には、たいそうできのよい大型の栗がたくさん取れたそうだ。
ある秋のこと、腹をすかせた旅の乞食坊主が、ふらふらとやってきておいしそうに栗を食い散らかしている村の子供たちに「栗を一粒めぐんでくれ」とたのんだそうだ。子供たちはそのみすぼらしい乞食坊主をみて「いいとも食え」といって空の食い残しの殻をほおったそうだ。その乞食坊主は悲しい顔をして次に村の中にある大きなお屋敷にきたそうだ。そこでは大人たちが縁側に腰掛けて栗を食べていたそうだ。乞食坊主は大人達に声をかけて「栗をひとつめぐんでくれ」といったが、大人たちは「いいとも食え」といって空の食い残しの殻を投げつけたそうだ。

乞食坊主はたいそう悲しい顔をして村の外れにあるそれは見るからに貧しい小屋にやってきたそうだ。小屋には17才ほどの若者を頭に弟妹が4人住んでいたそうだ。父母はとうに死んでこの若者がみんなを養っていたようだ。そこにこの乞食坊主がやってきた。この坊主はもう空腹で目もみえなくなっていたそうだ。「どうか栗を一粒でもいいからめぐんでくれ」と頼んだそうだが、この小屋にとっては一粒が一家の全部の栗だった。しかし見ればかわいそうに飢えやつれた坊様である。

若者は弟妹に「いいな」と見まわした。弟妹は兄の心の優しさに気持ちよく応えた。「たった一粒ですがどうぞ食べてください」乞食坊主はたいそう喜んでこれを食べたそうだ。するとどうだろう。 とたんに乞食坊主は元気になり、「ありがとう、みんなの優しい心が天に通じ、裏山に天の恵みをうけることだろう」と言い残し達者な足取りで村を出ていったそうだ。その後、不思議なことに、若者の裏山の栗林には、大型で美味な栗が、春と秋の二度なったそうだ。村人はこれを多摩の二度栗と呼んで大切に扱ったという。若者達はそれから幸せな生活を送ったという。この乞食坊主が実は弘法大師だったのです。

栗の木の写真を示します。出典は、https://www.photolibrary.jp/img136/38135_608267.html です。


「全国を行脚して人々に慕われた空海(弘法大師)」

2024年07月10日 | 日記・エッセイ・コラム

日本人に一番親しみられている僧侶は空海と思います。弘法大師のことです。「弘法も筆の誤り」とか「弘法筆を選ばず」ということは多くの人がよく知っています。私は空海のことを調べたり書いたりすると何故か嬉しくなります。幸せになります。

今日は空海、すなわち弘法大師のことを書きたいと思います。難しい仏教の教理はよく理解出来ませんが空海のことを書きます。
空海は774年に生まれ835年に60歳で亡くなりました。平安時代の初期のお坊さんでした。

天台宗の開祖の最澄とともに奈良仏教から平安仏教へと変えたのです。中国に留学して真言密教を日本へ紹介しました。中国で伝授を受けた奥義や経典・曼荼羅などを体系立てた形で日本に伝えました。

空海は人々を愛し全国の津々浦々を行脚して回ったのです。弘法大師に関する伝説は、北海道を除く日本各地に5,000以上あります。空海が行っていない所にも多くの伝説があるのです。

その上、寺院の建立や仏像などの彫刻などに空海が関係したという多くの伝説があるのです。弘法大師が杖をつくと泉が湧き井戸や池となったという伝承をもつ場所は日本全国で千数百件にのぼるそうです。「独鈷水」などと呼ばれています。

これらの多数の伝説は多くの人々が空海が好きだったことを意味しています。日本人は空海が好きなのです。

空海は835年に60歳で亡くなりました。しかし高野山の人々や真言宗の僧侶の多くにとっては、高野山奥之院の霊廟において現在も空海が生き続けていると信じられています。

しかし空海の入定直後に東寺のある人物が青竜寺へ送った手紙の中に空海を荼毘に付したと取れる記述があるので火葬されたと考えられています。桓武天皇の孫も十大弟子のひとりとして、遺骸の埋葬に立ち会ったといいます。

さて空海は真言密教を確立し高野山を開山したのですが、そのいきさつは以下の通りです。

密教の分野に限っては最澄が空海に対して弟子としての礼を取っていました。しかし、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立するようになり、弘仁7年(816年)初頭頃に訣別します。2人の訣別に関しては、後述の最澄からの理趣釈経の借覧要請を空海が拒絶したことや、最澄の弟子泰範が空海の下へ走った問題もあったのです。

弘仁3年、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇します。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼったのです。

弘仁7年(816年)、修禅の道場として高野山の下賜を請い、7月8日には、高野山を下賜する旨勅許を賜ったのです。翌弘仁8年(817年)、泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の開山に着手し、弘仁9年(818年)11月には、空海自身が勅許後はじめて高野山に登り翌年まで滞在した。弘仁10年(819年)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。

こうして空海は高野山を開山したのです。

この頃、『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』『文鏡秘府論』『篆隷万象名義』などを立て続けに執筆しました。

これらの詳しいことは省略して空海にかかわる写真を示します。

1番目の写真は善通寺(香川県善通寺市)です。

2番目の写真は五島市三井楽 にある空海の『「辞本涯」(日本さいはての地を去るの意)の碑』です。

3番目の写真は大宰府の正殿跡(福岡県太宰府市)です。

4番目の写真は京都の東寺です。

5番目の写真は空海の旧宅跡に建つ弘法大師像(善通寺西院)です。

 

今日は全国を行脚して人々に慕われた空海(弘法大師)をご紹介致しました。

 

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)