懐かしいので写真を示します。写真はインターネットからお借りしました。
懐かしいので写真を示します。写真はインターネットからお借りしました。
現在、日本の仏教は八つの宗派があります。天台宗・真言宗・浄土宗・浄土宗真宗本願寺派・真宗大谷派・曹洞宗・臨済宗・日蓮宗です。宗派の違いによって焼香の方法や葬儀でのマナーなどが異なります。
そして東京には75の曹洞宗のお寺があるのです。その幾つかを以下にご紹介いたします。
恵比寿台雲寺 |
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1番目の写真は台雲寺の本堂です。
東長寺結の会納骨堂 龍樹堂 |
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杉並 下高井戸駅近永代供養付墓所 |
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曹洞宗雲居山 宗参寺 |
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心源院 のうこつぼ |
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泉岳寺 |
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普門山 慈眼寺 |
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明王山 威徳院 |
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慈眼寺 のうこつぼ |
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嶺雲寺 |
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誰でも子供の頃の思い出は懐かしいものです。それは人生のとっても大切なものです。今日は私がある山里で子供僧になった思い出を書いてみたいと思います。そして父の弟の孝元和尚のことも書きたいと思います。父の実家は兵庫県の田舎のお寺だったのです。
まず子供僧の写真をご覧ください。
1番目の写真は東京のあるお寺が企画した子供のお寺の生活体験の写真です。子供が袈裟を着て檀家回りに出発しようとしている場面です。写真の出典は、https://www.hongwanji.or.jp/project/report/000842.html です。
私も子供僧になった体験がありました。それは小学生の4,5年の頃、終戦直後のことでした。父方の祖父が住職をしていたお寺の小僧になったのです。夏の1ケ月の間だけ毎日意味も分からないお経を本堂で唱えるのが日課でした。
誰もお経の意味を説明しないのでチンプンカンプンの呪文のようでした。大人になってから思い出して調べました。般若心経と観音経と大悲心陀羅尼 の3つを唱えていたのです。
特に大悲心陀羅尼 はインドの古語の音を漢字で表現したものなので今でも意味が分かりません。
そのお寺は曹洞宗で兵庫県の山里の小さな集落にありました。
小高い場所に建っていたので集落の農家や水田が箱庭のように見下せました。
集落の農家は全てお寺の檀家です。家々には金色に輝く立派な仏壇があります。そんな風景写真を示します。
2番目の写真は私が夏の間だけ子供僧になった田舎のお寺によく似た寺の写真です。
正面の石段を登ると本堂があり右に庫裏がありました。左には鐘楼があり朝夕鐘の音を下の集落へ送っていました。
この写真は「山里のお寺の写真」を検索して多くの写真から選びました。非常によく似ている寺の写真を選んだのです。
3番目の写真はお寺から見下ろした集落の風景に似た写真です。
この写真は「山里の風景写真」を検索して多くの写真から選びました。
集落の家は全て祖父のお寺の檀家でした。米や野菜を寄進してお寺の一家の暮らしを支えていたのです。日本の伝統文化です。
4番目の写真は寺の本堂での法要の様子です。
私も小坊主として後ろの方に座り知っているお経を一緒に唱えました。この写真は「お寺の法要の風景写真」を検索して多くの写真から似ているものを選びました。
毎年夏のお盆に行う施餓鬼供養の写真です。近隣のお寺から僧侶に来てもらい太鼓や銅鑼を打ち鳴らし賑やかな供養でした。この写真は「施餓鬼供養の風景写真」を検索して多くの写真から選びました。
さてこの夏の間だけの小僧体験で一番印象深かったのは檀家一軒一軒を回ってその仏壇にお経を上げたことでした。
私とすぐ下の弟が子供用の墨染の衣を着ます。復員してきた叔父の孝元和尚が紫色の豪華な衣を着て小坊主二人を従えて檀家回りをするのです。
5番目の写真は京都のあるお寺で撮った子供の僧たちの写真です。当時私と弟はこんな袈裟姿をしました。子供用の袈裟は優しかった叔父の孝元和尚が仕立て屋に頼んで特に作ったものです。この写真の出典は、https://temple.nichiren.or.jp/5061018-rengeji/event/shamongo/ です。
檀家回りでは集落の家を、一軒、一軒と回りその家の仏壇にお経を上げるのです。お盆の間の重要な行事です。訪問先の家の仏壇へお経を唱えると、その後に冷たいソウメンがでます。
紫色の豪華な衣を着た叔父が気取って少しだけソウメンを食べます。どの家もソウメンを出すので少しだけ食べます。
そしてお布施を3つくれるのです。大きな紙包みの布施と小坊主のための2つの小さな紙包みの布施をお盆にのせて差出します。
どの家も同じように差出します。叔父は手を合わせて拝んで大きな紙包みを取ります。小坊主が真似をしてお布施を頂きます。
こうして私と弟は人生で初めてお金を稼ぎました。
しかし稼いだお金は大阪からから仙台までの汽車の旅で使いはたしたのです。駅駅で弟とアイスクリームを買って舐めて使い果たしたのです。
自分で稼いだお金だったので一層アイスクリームが美味だったのです。あんなに美味しいアイスクリームはその後二度と会えません。当時の東海道線で花形だった流線形の特急つばめに乗って食べたアイスクリームは私の生涯で忘れられないものになったのです。
最後に優しかった叔父の孝元和尚の思い出を書きます。第二次世界大戦の時に孝元和尚は徴兵されレマレー半島で激しい戦闘を体験したようです。しかし孝元和尚は一言も話しませんでした。敵味方双方の悲劇については完全に沈黙を守りました。
人間の悪については沈黙が賢明な場合があるのです。そのことを私は孝元和尚から学びました。いつも穏やかで優しい叔父でした。
今日は私がある山里で子供僧になった思い出を書いてみました。そじて伯父の孝元和尚の思い出も書きました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)